ヤスダイサオ & Jun Kyo 2人展「ポジティブ シンキング」(Special guest:田浦ボン)が横浜のPhoto Bar 【sa-yo:】で4月12日から開催されます。 2月に大阪で開催されたヤスダイサオ氏との2人展「ラブ・ザ・フォトグラフィ」とは少し違い、今回は美しきポジフィルムの原板とスライド映写機を用いたスクリーンへの拡大投影の展示となります。 話の始まりは昨年9月の半ば頃でした。 この頃は本年2月に大阪で開催されたヤスダイサオ氏との2人展「ラブ・ザ・
3月17日(金)〜3月29日(水)、 東京は戸越銀座にあるフォトカノンで 3人展「海」がいよいよ始まります。 甲斐康友さん、ナカノジュンさんとの3人展です。 ナカノジュンさんは2019年の「街と人と」からの繋がりと言いたいところですが実は2017年に神奈川の鵠沼海岸での友人達との集まりでそこで初めて出会いました。無口ではあったけどその頃からストイックで写真がとても好きという印象が今でも残っててお誘いして後に「街と人と」に参加してもらいました。そのストイックで秘めたる熱さ
2人展「ラブ ザ フォトグラフィ」 ヤスダイサオxJun Kyo 2月19日(日)〜2月25日(土) Gallery & Darkroom LimeLight -大阪- ステートメント 私共が主催として2016年より展開してきた写真展「街と人と」が、昨年6月のトーテムポールフォトギャラリーでの開催で最後になりました。 好きが高じて始めた写真展でしたが、 多くの方々と写真を通して繋がった実りのあるものでした。 The Finalと銘打った昨年の開催では関西からギャラリ
1998年、僕がロックバンドのPEALOUTのマネージャーになった頃である。 24歳の僕は先輩マネージャーからチラシ数千枚を渡される。 当時はSNSなんてなかったから、CD発売、そして全国ツアーともなるとタワーレコード、HMV、ディスクユニオンなどを中心に街場の小さなレコード屋さん、都内のライブハウスに足を運んではチラシを置いてもらい、全国のライブハウスやレコード店に電話してはご挨拶して郵送してチラシを置いてもらう。 足を運んだり電話したりしてるうちに顔や名前を覚えても
2019年1月13日〜2月13日、横浜の曙町にある「Art and Syrup」にて初の個展を開催してから3年と半年強が経たちました。 https://artandsyrup.com/exhibition6_nostalgia/ ちょうどその少し前に横浜の吉田町でPhoto Bar 【sa-yo:】さんがオープン(2018年9月14日オープン)しました。 僕の個展に来てくれた方々の何人かがそのままsayoさんへ行って僕の個展の話をしてくれたのを知ったのは、sayoさんに初
「姜くん、テキーラいこか」 山中湖での泊まり込みのレコーディングで同部屋になった植松さんがニコニコしながら僕に言った。 いきましょう!とストレートで一杯飲んではまた一杯、毎晩空っぽになるまで2人で飲み明かした1週間を過ごしたのは1998年の夏の終わりの頃だったと思う。 レコーディングエンジニアである植松さんとは1995年に僕が務めたレコーディングスタジオで出会った。(終わりなき旅のはじまり14章参照https://note.com/jun_kyo/n/nda7aae60
2020年12月13日、僕は1人関西へと向かった。 奈良に住む姉夫婦の家に宿泊、認知症になった母親が入居してる奈良の老人ホームに行くのが目的だった。 せっかくだからと、奈良に向かう前に大阪に寄り、兼ねてから興味のあったギャラリーを目指した。 そのギャラリーは阿波座(現在は移転し今里)というところにあり、東京でさえ道に迷う方向音痴の僕は大阪駅で人に聞いて電車に乗り阿波座に向かった。 大阪は十数年前、大阪のホテルで四番目の姉が亡くなった時以来で、車窓から見える街並みにふ
2011年3月11日、時刻は14時46分、突然グラッと揺れたかと思ったら、立ってられないほどの衝撃がやってきた。 ホールから厨房に入ろうとした時だった。ガス止めろ!と咄嗟に叫んだその直後、厨房のありとあらゆるものが倒壊し、グラスやお皿が割れる音が鳴り響いた。 両手で棚を押さえながら、ヤバい、ヤバいと呟いてたのを覚えてる。 ホールを見渡すと、食事をされてた何組かのお客さんが自発的にテーブルの下に潜り込んでるのが見えた。 出来たばかりの海外へ行く飛行機が飛び交う空の玄関は
2008年、僕は名古屋の大須に住んでた。 職場は繁華街の栄のど真ん中、飲食業で食べて行こうと思い始めた未知の世界、職人の世界があるところへ転職した。 職人になろうと思ったわけでなく、料理の職人の世界を知りたかったからである。 待っていたものは結構過酷な勤務で、朝6時に起きて7時に職場に向かう。料理長が来る前に仕込みを終わらせないといけない。 仕込みを開店時間までに終わらせ、料理長の今日のランチの話をひたすら聞きレシピを覚える。 少しでも料理長の理想と離れようものなら
32歳の頃、三重県に向かった。 生まれも育ちも横浜、音楽の仕事してた頃、全国主要都市は大体巡ったのだが、三重県は初めてだった。 新しい職場は出来たばかりの商業施設の中にある大きなフードコート、大きな窓から大きな観覧車が見え、時々きゃーという声と共にジェットコースターが走っていた。 10年やってた音楽の仕事をやめて、新たに飲食業で働いていくために商業施設でのフードビジネスをここで3年間学ぶ事になる。 このフードコートには1人の総料理長がいた。とにかく迫力がある人で酒が大
2021年1月現在、僕は空の玄関と言われてる場所で、旅する人に食を提供する仕事をしている。 2016年のグループ展「街と人と」、そして2019年の個展「nostalgy」の時はすでにその仕事をしていた。 昨年の春に発令された緊急事態宣言の時に書いた「終わりなき旅のはじまり第1章」では、20代前半から音楽業界で働いていた僕の最後の仕事、2006年に石垣島で録音した沖縄最後のお座敷の唄い手、ナミィお婆のライブ録音の話で締めくくった。 その後の2007年、僕は義理の兄が経営す
2016年の「街と人と」を終えた僕はその後何をしていいか分からない日々が続いた。 燃え尽き症候群みたいなもので、写真は撮るものの、出口をなくしてる感満載で行き場がなかったのである。 そんな時だった。 ライカを使いたいと言えばM3を貸してくれたり、プリントしてみたいと言えば引き伸ばし機をくれたり、そんなお世話になってる先輩夫婦がいた。 「横浜で小さなカフェを開くからそこで個展やらない?」 先輩夫婦から声をかけて頂いたのは確か2017年頃だったと思う。 写真は下手だし
2016年2月6日、7日、東京にある池尻レインボー倉庫でそれは始まった。 当時のインスタグラムは写真のレベルが高いと言われてた頃で(異論はあるかもだけど、そこはとりあえず置いておいて)ストリートからポートレートの素敵な写真が連日UPされていて、毎日夢中になって見ていた。 そんな時、インスタで知り合った先輩、イサオ氏と「何かやりたいね、どうせやるなら面白いことやろうよ」という話が出て、やってみるかと色々と考え、仲間を誘い4人展という形でグループ展をやる事にした。 企画を立
石垣島に到着した僕を迎えてくれたのは、当時、石垣島の文化課の長をしていた太田静男さんだった。 太田さん自身も歌を唄い、書を書く方で、後に数冊の本とCDを出版した。 太田さんに連れられナミイお婆と対面した。 レコーディングなんてやったことない、緊張すんねと笑ないがら三線を弾くお婆、お姉さんと顔そっくりだ、とまた笑っていた。 レコーディングはお座敷ライブで、民家のお座敷で行われた。お座敷の場を提供してくれたお爺にも挨拶に行く、すると壺を持ってきて「これ飲みたいか?飲みたい
父親の葬儀を終えた僕は仕事のためすぐさま韓国に向かった。 2000年6月5日、6日、韓国の大学路にあるライブ劇場で「JPOP FESTIVAL」が開催された。 韓国政府公認の初の日本のアーティストの単独コンサートだった。 日本からはEPO、ケイコリーが参加、前座にはインディーズバンドのHaccis cloverが出演した。 韓国で日本の音楽が開放された瞬間だった。 この後、スピッツ、チャゲ&飛鳥などが韓国でのコンサートを開催、日本でも韓国のロックバンドを招待してのイ
四女の姉の足取りを辿る旅が始まった。 姉の携帯電話に残された電話番号に連絡してみる、するとある男性が出た。 お葬式の日、その方が大阪から横浜にやってきた。 一生懸命話をされるその方の話を聞きながら、知らなかったことや、姉の抱えていた事やその時の思いが何となく見えてきた。 姉はお母さん、お母さんと、親しい人にはいつも母親の話をしていたそうだ。 大阪から横浜まで来てくれたその方には感謝しかなかった。 姉が住んでた東京のアパート、何百もの歌詞を書いたノート、色々な事が分