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カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ:交響曲集/ベルリン古楽アカデミー
新録音紹介
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内容情報
C.P.E.バッハ:交響曲集~ベルリンからハンブルクへ
交響曲
・ハ長調 H.649, Wq.174*
・ニ長調 H.651, Wq.176*
・ホ短調 H.652, Wq. 177+
・ト長調 H.657, Wq. 182-1+
・ハ長調 H.659, Wq.182-3+
・イ長調 H.660, Wq. 182-4*
・ロ短調 H.661, Wq.182-5+
ベルリン古楽アカデミー
コンサートマスター:平崎真弓(*)、ゲオルク・カルヴァイト(+)
録音:2023年1月、b-sharpスタジオ
斬新、大胆、予想外。
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの音楽を端的に表すとしたら、こうだろうか。
「多感主義」「疾風怒濤」「ギャラント」など、彼の作風について様々な言葉で語られるが、どれもしっくりこなかった。古楽を聴き始めた当初から、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(以下、エマヌエル)の音楽に魅了された身としては、少なくともこれらの言葉では納得できなかった。聴き手の予想を裏切る劇的な展開、大胆な和声、突然の「間」に何度驚かされたことか。だからこそ、彼の音楽には、斬新・大胆・予想外という言葉がぴったりなのだ。殊に強烈な交響曲(シンフォニア)の数々は、一度聴いたら忘れられず、何度聴いても驚かされる。そんなエマヌエルの交響曲集に新しい録音が加わった。
今でこそ、専門家や演奏家だけでなく、一般的に音楽ファンの間でも、エマヌエルが「大バッハの次男」という枕詞から解き放たれ、音楽史的に重要な一人の優れた作曲家としての地位を確立しているが、これはごくごく最近20世紀末から21世紀にかけてのことだ。ヨーロッパを中心に、21世紀に興った「C.P.E.バッハ・ルネサンス」の中心にいたのが、ドイツの3大ピリオド楽器オーケストラ、コンチェルト・ケルン、フライブルク・バロック・オーケストラ、そしてベルリン古楽アカデミーだ。
コンチェルト・ケルンは1980年代後半に早くもバッハ・ファミリーの管弦楽作品集(CAPRICCIO)をリリースし、バッハの4人の息子のそれぞれ異なる個性を世に知らしめた。またフライブルク・バロック・オーケストラは、1990年にハンブルク交響曲からの数曲に2曲の協奏曲を加えたアルバムをリリース(DHM)、そして21世紀初頭にはバッハの息子4人それぞれをフィーチャーしたアルバム(CARUS)をリリースするなど、活発な録音を行っている。そして、ベルリン古楽アカデミー(以下、Akamus)は、1990年代後半からharmonia mundiで交響曲と協奏曲のカップリングによる録音をリリースしていく。その聴き手を圧倒する怒涛のような演奏は、驚くほど鮮烈で、多くの聴き手に強烈な印象を残し、エマヌエルの真価を知らしめるものだった。そんなAkamusによるエマヌエルの交響曲集が2024年に登場したこの録音で完成したのである。
Akamusにとって、意外なことにエマヌエルの交響曲だけが選曲された録音はこれが初めてとなる。全曲録音は、最初の録音から四半世紀経過しての偉業であるが、ブックレットのゲオルク・カルヴァイトのインタビューによれば、これまた意外なことに全曲録音は意図していなかったそうである。確かにこれまでリリースされたアルバムを見ると、協奏曲とのカップリング、作品番号順でもない選曲となっており、全曲録音を見据えた体系的な選曲というより、1枚1枚のアルバムとしての完成度を優先させているように思える。しかも、Wq.175と183はベートーヴェンの交響曲第1&2番とのカップリングなのだ(ただしこのアルバムはベートーヴェン作品の添え物となってはおらず、そのベートーヴェンにおけるエマヌエルの影響力を物語る画期的なカップリングなのだが)。今回の新録音は、AkamusによるC.P.E.バッハ録音の集大成であり、若いメンバーたちが数多く参加した新時代のAkamusを印象付けるものでもあるのである。
今回のアルバムには、エマヌエルの、いわゆる「ハンブルク交響曲」のうちの4曲に、3曲を加えた7曲を収録している。3楽章形式ということもあり、その後の古典派以降の時代と比べて、交響曲としては小規模で、形式もまだ定まっておらず、様式的に統一感もないとされてしまうことが多い。しかし、これはエマヌエルの作品の本質をとらえているとは思えない。様式感においては、鍵盤曲においては、自由なファンタジアなども彼の作品の特徴ではあるが、成熟したソナタ形式の作品も数多く残されている。彼の曲集がハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンといった次世代の偉大な作曲家たちに大きな影響を与え、お手本となっていたことはよく知られた事実である。そうした様式的に完成された鍵盤作品を残しているのだから、壮年期の彼が交響曲の作曲において、様式感を統一できなかったと考えるのはかなり無理がある。自由な様式を盛り込むために、あえて統一しなかったと考える方が極めて自然である。彼はあえて予定調和を拒んだのだ。
また彼の類を見ない個性を持つ交響曲は当時でも革新的とされ、その大胆なアイディアは、ハイドンやモーツァルトに深い感銘を与え、好意的な批評も数多く寄せられたという。同時代の人々たちからは大きな称賛を持って受け入れられていたのだ。もちろん時代による趣味の変化はあるが、現代から見て「統一感がない「完成度が低い」と単純にとらえるのはやはり偏った見方であろう。エマヌエルの交響曲の真価を聴くためには、こうした偏見を取り払って、真摯にその作品と向き合う必要がある。そのためには、エマヌエル作品に真摯に取り組んだ演奏を聴くことが一番の早道だ。早くからエマヌエル作品復興に取り組んできたAkamusの演奏はまさにうってつけなのである。
聴き手の予想をことごとく覆す和声展開、不自然とも思える「間」をもたらす大胆な全休止、次々と繰り出される旋律は不統一なようで、実は緻密に計算され、次のモチーフに受け継がれていく。舞曲のように生き生きとしたリズムはグルーブ感をもたらし、怒涛のトゥッティが聴き手を圧倒する。素直に受け入れてみれば、これほどエキサイティングで面白い交響曲も稀有であることが理解できるはずだ。こうした特徴をAkamusは、その最初のエマヌエル録音から教えてくれていた。
この新録音は、1990年代、2000年代のベルリン古楽アカデミーのC.P.E.バッハとは異なっている。ブックレットに掲載された長年コンサートマスターを務めているゲオルク・カルヴァイトのインタビューでは、かつてのAkamusの演奏がラジオから流れてきた際には、「モダン・オーケストラの演奏」かと思ったというほど「強烈なヴィブラートや大仰しいアクセント」が付けられていたというエピソードが語られているが、確かにかつてのベルリン古楽アカデミーの演奏は、エマヌエル作品だけでなく、ここ30年で飛躍的に進んだ作曲家の様式、演奏法、楽器復元などの研究を反映した現代のスタンダードな古楽演奏とは異なる特徴を持っていることは確かだ、だからといって、これらの演奏を古臭いものとして片づけてしまうのはあまりにも惜しい。「強烈なヴィブラートや大仰しいアクセント」によって、間違いなくエマヌエルの音楽の個性は前面に押し出されたのだから。疑いなくエマヌエルの交響曲における大胆な様式を強烈にアピールしたのはかつてのAkamusだったのだ。
もちろん、Akamusも時代とともにメンバーは変化し、新しい研究を取り入れていく。それでもその強烈な個性は維持されている。この録音で聴くことのできるAkamusの演奏は、極度に洗練され、しかも、かつての鋭利さを失わない。むしろ鋭利さは洗練によってさらに切れ味を増し、エマヌエルの音楽をもって空気を切り裂いていく。そのすさまじいまでの熟達ぶりには目を見張るしかない。
現在のAkamusは時代とともに新しい歩みをするため、新しいメンバーを積極的に登用している。この録音でも「収録された交響曲のうちの幾つかが若い奏者たちの手に委ねられて」いるという。特に、この録音でコンサートマスターを務める平崎真弓の抜擢はそれを物語っている。新しく加わった若き実力派たちに、鍵盤のラファエル・アルパーマンをはじめとする創設メンバーが加わり、演奏に対する活発なディスカッションを経て、新生Akamusは姿を現したのである。その結実がこの録音に燦然と示されている。
各曲の細かい演奏内容を描写してみよう。
弦楽器編成は5ー5ー3ー2ー1+チェンバロ。楽曲によってフルート、オーボエ、ホルン、バスーン、ティンパニが加わる。
管楽器を含むハ長調のWq,174はベルリン時代の1755年に作曲された。ホルンとフルートがアクセンントととなるハ長調の疾走感溢れる第1楽章。同音連打はエマヌエル式興奮様式だ。第2楽章はエマヌエルの交響曲には珍しい牧歌的アンダンテ。妙に楽しげな3楽章はブッファ的なホルンとファゴットによって妙に楽し気に始まる第3楽章は、急に短調に。エマヌエルはどこまでも聴き手を挑発するのだ。
同じく1755年に書かれたニ長調のWq.176 は、トランペット、ティンパニまで加わる大編成。一番古典派に近づく要素がありながら、旋律的に落ち着かず、どこまでも聴き手の予想は裏切られる。深刻な顔を覗かせる第2楽章。古典派の終楽章的な大団円的展開の第3楽章。これら2曲が大バッハの死後、わずか5年で書かれたことに驚きを禁じ得ない。
ホ短調のWq.177もベルリン時代の1756年作曲。1759年に出版されたこともあって、当時から広く知られていた。巨匠ハッセが激賞し、チャールズ・バーニーにこの楽譜を買うことを強く勧めたというエピソードが残っているという。疾風怒濤を体現する激しいトゥッティが軋む第1楽章冒頭から頻繁に入れ替わる強弱と明暗。あちこちへせわしなく動き回る旋律のなかで頻繁に転調を繰り返し、突然の全休止。冒頭の旋律に戻るも異常な転調をし、全く異なる旋律へ。そしてまた疾風怒濤。聴き手の予想をことごとく裏切ってくる完全に人を食った展開だ。この部分のAkamusの細かいアーティキュレーションが凄まじく、この作品をさらに激烈繊細なものにしている。穏やかな始まりの第2楽章もすぐに波乱含み。穏やかな旋律が現れたかと思えば不穏な転調、和声。心を乱す展開。突如美しい旋律と和声が響くも、第1楽章の旋律が一瞬現れすぐ消える。緩やかなのに全く安らげない。そして付点のリズムが支配する舞曲的な第3楽章のはずが、またすぐに安定を許さない展開に。Akamusのきつめのリズム感も曲を強調。そして唐突な終わり。この交響曲に聴き手の休める場所はどこにもないのだ。
Wq.182の6曲は、自身のパトロンであったゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵の依頼で、1773ー1776年にかけて作曲されたいわゆる「ハンブルク交響曲」と呼ばれる曲集である。スヴィーテンは演奏の困難さを考慮せず、自由に作曲することを望んだというだけあって、弦楽器だけという編成にもかかわらず、曲集全体に渡って、エマヌエルの筆致の大胆さ、過激さ、自由度がすさまじい。
ト長調のWq.182-1は弦楽器が軋みをあげるトゥッティで始まる。美しい旋律はすぐに切り裂かれ、また激しいトゥッティ。この展開になると美しい旋律がより一層際立つからすごい。終わり方も異常だ。第2楽章の、長調なのに不穏に刻まれる旋律。唐突すぎる低音のトゥッティによるトリル。これだけ不穏なトリルも珍しい。またAkamusがこれをやたらと強調するのだ。そして半終始。第3楽章は古典派を思わせる旋律が出るもすぐにバロック的短調が顔を出す。どこで変わるか全く油断ならない。まるで全く別な曲を何曲かシャッフルして混ぜ混んでいるようだ。細かく強弱をつけるAkamusもやりたい放題で、完全に聴き手を呑み込む。
ハ長調のWq.182-3は、暴走するトゥッティが急停止、また暴走を繰り返す。そこに異常に頻繁する転調が加わり、完全に聴き手の頭をカオスに陥れる。最後は冒頭の旋律が戻ったかと思うと途切れることなく第2楽章へなだれ込む。バロック的な展開の弱音から急なフォルテの不協和的トゥッティ。低音の不穏当な刻みが心を揺らし、唐突な第3楽章へ。美しく明るい旋律なのに強弱が異常で心が休まらない。そしてすぐに短調に転調を繰り返し、突如のトゥッティ。第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが頻繁に掛け合い、ステレオ効果でも聴き手を惑わす。長調なのにあまりにも不穏だ。
イ長調のWq.182ー4は、イタリア音楽的近接フーガのような長調なのに、すぐに短調へ移り、それを繰り返す。バロック的要素と古典派的要素が頻繁に入れ替わる。転調によって時代様式さえ変化させるのだから異常極まりない。そして最高潮に向かうかというときの突然のテンポダウン。呆気にとられたままヴィヴァルディ風の旋律を聴かせてまたも急停止の上第2楽章へ。ここでも全く落ち着かない旋律。どこから旋律が作り出されるかわからず、予定調和を徹底的に拒む。絶対この音に行けば気持ちよく収まるのにということをすべて拒否するので、曲想が入り乱れすぎて音を追っていたらカオスになる。第3楽章はホルン信号のようなヴァイオリンの旋律がまた予測不能な展開を生む。まさに制御不能。交響曲でのエマヌエルは、なにをしでかすかわからない。
ロ短調のWq.182ー5 は、短調の旋律がすぐに転調。突然のスピード変化。うなりをあげる低音。妙に美しい和音から、旋律が各パートに移りゆき、予想外に形を変えてクライマックスへと思いきや、急に緩やかな第2楽章へ。持続音の和声が支配するラルゲットは緩やかながら劇的で、通奏低音が重要度を増す。第3楽章は 開放弦が突如軋みをあげるトゥッティ。繋留が連発する短調から唐突に長調に転調する予測不能の展開。頻繁な長短の入れ替わりの中、走り続ける低音。そして突然の休符。いつ終わるかさえ分からずにいると唐突に終わる。聴き手を驚かさずにはいられないエマヌエルの面目躍如だ。
交響曲でのエマヌエルはまるで北欧神話のロキのようなトリックスターだ。確かに1曲は短いが異常なほどの曲想が惜しげもなく、しかも予想を裏切る順序で詰め込まれ、揺さぶりをかけてくる。聴き手は目まぐるしく変化する音の世界に飲み込まれ、次の展開など予想できずに圧倒される。依頼主に好きなように作っていいと言われたので本当に好きなように盛り込んだのである。 こんなにもハチャメチャな展開ばかりなのに、各楽章には旋律的なつながりがあるなど細部に至るまで異常なほど手が込んでおり、まさに実験的とも言える創意と工夫が惜しげもなく注ぎ込まれている。交響曲というジャンルはエマヌエルにとって音楽の実験場であり、エマヌエル的マニエリスムの極致と表現せざるを得ない。
この魅力は極めて独特ながら、一度気を引かれたら抗えない。斬新、大胆、予想外。唖然、愕然、大興奮のエマヌエル蟻地獄、はまったら抜け出せない…
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CDジャケットについて
1775年に描かれたC.F.フェルトなる画家によるハンブルクのブランドシュトヴァイテ(Brandstweite in hamburg) 、当時のハンブルクの町並みを描いた絵画である。Brandstweiteはハンブルクの古い通りとのこと。左側の店には風景画と思われる絵画がいくつも飾られ人々が品定めしているように見える。右側にはロバの耳のような大きな耳の男性がなにかを指している。通りの奥にはハンブルクで一番古い教会とされるザンクトペトリ教会が描かれている。エマヌエルがハンブルクの音楽監督に就任したのが1768年であるので、まさにエマヌエルがいたころのハンブルクを描いた絵画なのだ。
いち早く市民社会を形成していたオランダでは17世紀からすでに市民の間で絵画、主に風俗画や町並みを描いた風景画を購入することは流行したいたという。アムステルダムなどの大きな都市の画商の店や、祭りなどの露店などでは、様々な絵画が店の内外を問わず掛けられ、人々は毎日その絵画を眺め、品定めし購入していたらしい。時には、宝くじの景品として絵画が用意され、目玉商品として展示されていたこともあるそうだ。この絵画の様子を見てみると、18世紀のドイツの大都市でも同様なことが行われていたのであろうと思われる。同じように、教会やホールで行われるコンサートもハンブルクの市民の憩いであったのであろう。さながら、ツィンマーマンのコーヒー店でのコンサートがライプツィヒの市民にとって格好の娯楽であったように。王侯貴族たちだけでなく、市民たちの娯楽の1つとしてもエマヌエルの音楽は親しまれていたのだろう。ハンブルクの市民たちはエマヌエルの斬新な交響曲にどれだけ驚かされたであろう。コンサートの後にみなで集まって、その興奮を語り合った。そんな想像が容易い絵画である。
ブックレットについて
このCDのブックレットには、バッハ研究の泰斗ペーター・ヴォルニーによる簡潔ながら内容の濃い解説が掲載されている。エマヌエルの交響曲についての概要、収録各曲の特徴と作品理解につながる大変興味深いものだ。また先述した通り、Akamusのコンサートマスター、ゲオルク・カルヴァイトへのインタビューも掲載されている。これもAkamusのエマヌエル録音の歴史、録音に臨む姿勢、若いメンバーのことなど、示唆に富む内容で見逃せない。原解説は仏英独語の3か国語ながら、輸入代理店のキングインターナショナルからは邦訳付きの国内仕様盤が発売されている。丁寧な翻訳なので、日本語によるエマヌエルの貴重な資料にもなるだろう。
参考文献
「バッハの四兄弟」久保田慶一(音楽之友社)
「フェルメールとそのライバルたち」小林頼子(KADOKAWA)
本CDのブックレット、など