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努力できるかどうかも結局は運で決まる

私は生まれてから一度も努力したことがない。

私が天才であるとか、逆にものすごく怠惰であるとか、そういうことを言いたいのではない。生まれてから一度も、「オレはあのとき努力した!」「今オレは努力してる!」と認識できたことが無い、という意味である。

プロフィールにも書いてあるが、私は東大卒だ。当然、それなりの勉強はしてきた。決して無勉で難関大学に合格できるような天才ではない。2桁の掛け算を暗算することなどできないし、ピカソの本名(とても長いのでよく記憶力自慢に使われる)だって覚えられなかった。自分はつくづく普通の人間なんだ、と自覚する。天才ではないので、時間だけで言えば、東大生の平均くらいは勉強してきたと思う。

家族や友人から、勉強している姿を見て「努力してる」「偉い」と褒められることが人生で何度もあった。だが、その度に妙な違和感を感じてきた。

その違和感を紐解いてみると、どうも私はあることを言わざるを得ない。
「努力できるかどうかも結局は運で決まるのでは?」ということだ。

今日はそんなことを書いていこうと思う。

まず「努力」とインターネットで検索してみる。すると「 目標の実現のため、心身を労してつとめること」と出てきた。だが私が思うに、世間一般で使われている「努力」という単語には、もっと「自分の意志で」「能動的に」といったニュアンスが含まれている。努力するかは意思によって決まる、自分でコントロールできる、と多くの人が思っているわけである。

だが私は、世間一般でイメージされるような意思によって勉強をしてきた自覚は全くない。あるのは、「『勉強したい』という欲求が発生し、それに従っただけ」という極めて受動的なセルフイメージである。

私が勉強熱心になったのは中学生になってからだったが、なぜ勉強したくなったのかは自分でもよく分からない。テストで点数が取れると達成感が味わえたからなのかもしれない。知的好奇心を満たしたかったからなのかもしれない。とりあえず、原因はどうでもいい。

大切なのは、「勉強できたのは、『勉強したい』という欲求が発生したおかげ」ということである。そして、その欲求がうまい具合に発生してくれたのは、結局のところ運が良かっただけなのでは? と思うのである。

その人が、先天的に「努力したい欲」が発生しやすい人間なのだとしたら、それはもはや運が良かったとしか言いようがなく、「育ち方が良かった」のだとしたら、それもまた運が良かったとしか言いようがない。どちらも、自分の意思ではコントロールできないものだ。

努力できるかどうかは、努力欲がうまい具合に発生するかに依存する。そしてそれは自分ではコントロールできず、運次第である。

素晴らしい指導者に出会えたから、とか、感動する本を読んだから、といった理由で努力するようになる人もいるが、そういったイベントに巡り合えるかも結局は運であり、自分の力ではどうにもならない。

「いや、そんなイベントにたくさん巡り合うべく挑戦することは意思だ」と思うかもしれないが、その「挑戦心」も欲求であり、それが発生するかも運しだいだ。生まれつき挑戦心が弱い人はどうしようもない。

「その能力を決めるのは先天的要因か、後天的要因か」といった議論がなされることが多い。それを見るたびに「いや、どちらも自分でコントロールできない点では同じでは?」とツッコみたくなる。

「いや、人間には意思があるんだから、自分の行動くらい自分で決められる」と言われるかもしれないが、そもそも「努力しよう」と思える時点で何かしら「努力したい」という欲求が発生しているのであり、それが発生するかはコントロールできないのである。もしかしたらその欲求の正体は、怒られたくないという恐怖心かもしれないし、誰かに自慢してやりたいという虚栄心なのかもしれない。どの形にろ、何かしらの欲求が発生するから努力するのであって、欲求がないところにポンと努力が発生するわけではない。そして、発生したらラッキー、というのが努力欲の正体だ。

最初に、「私は生まれてから一度も努力したことがない」と書いた理由がここにある。私は、世間一般で言われているような自分の意思で努力したわけではなく、欲求にただ従っていただけだからだ。

だが、私が勉強している光景は、どうやら外からは「努力」と観測されるらしい。

社会人になり、出身大学を聞かれて自分が東大卒だと明かす場面が増えた。その度に「すごい」と言われるのだが、自分では少しも「すごい」と思っていない。なぜなら、私は欲求に従っていただけであり、その欲求は運良く発生したものだからだ。

私は今、好きな仕事をして、充実感を感じている。給料も悪くない。だがそれは、ラッキーなだけだと思う。欲求に従っていたらこうなれたのだから。逆に、努力不足のせいで人生が行き詰っている人を見ても、その人を責める気持ちは起きない。ただ単に「運が悪かったんだな」と感じる。

こんな認識であるため、なぜ世間でこんなにも努力がもてはやされているのか疑問に思うことがある。

イチローと言えば、誰もが知る天才バッターであるが、その実は努力の人である。彼の小学校の卒業文集はインターネットで閲覧できるが、「365日のうち360日は激しい練習をしている」「一週間で友達と遊べる時間は5,6時間」と書いてあり、まさに努力を体現するような文言だ。そんなイチローに、世間は惜しみない賞賛を送る。

一方、ゲーム中毒の小学生だったらどうだろう? 彼は寝る間も惜しんで魔王を倒す戦いを繰り広げている。そんな彼を「努力している」と褒めたたえる人はいないだろう。

だが、欲求に従って何かに夢中になっている点で、どちらも同じ生理現象だ。イチローはそれが世間で賞賛されるようなベクトルで働いて、ゲーム中毒の小学生には蔑まれるようなベクトルで働いているだけだ。なぜイチローは努力と呼ばれ、ゲーム中毒の小学生は努力と呼ばれないのだろう?

世間では、「今の生活が苦しいのは本人の努力不足だ」「いや、環境のせいだ」といった議論が続いているが、私に言わせれば、「いずれにせよ運が悪い」だ。

だが私は、「努力しろ」と啓蒙することまでを否定するつもりはない。なぜなら、そう啓蒙することによって、運良く相手の心に「努力欲」が発生してくれるかもしれないからだ。

「じゃあ、生まれながら『努力欲』もないし、心を動かすイベントにも出会えない私は、どうしたらいいんですか?」と聞かれたらどうしよう。それは、「どうにもならない」としか答えようがない。どうか私を非情な人間だと思わないでほしい。冷静に考えれば、そうとしか答えようがないのだ。あとは、何かラッキーイベントが発生して、運よく「努力欲」が生じるのを待つしかない。

努力できるかどうかも、結局は運で決まる。
だからこそ私は最後にこう問いたいのだ。

努力してきたことを自慢し、努力不足を責める風潮があるが、それは本当に正しいのだろうか? と。

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