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スポーツをしても人間性は成長しない ~スポーツはそんなに神聖か?~

「スポーツを通じて、青少年を育成する」

そんな文言を、みなさんは何度も聞いたことがあるだろう。

古いドラマになるが、分かりやすいので例として挙げる。昭和にヒットしたドラマ「スクール・ウォーズ」では、不良高校生たちが、ラグビー部に着任した教師の熱血指導により徐々に更生していき、ひたむきにラグビーに向かう姿が描かれている。これは、伏見工業高校で実際に起きた出来事を元に描かれた作品であり、その実話はNHKのプロジェクトXでの「ツッパリ生徒と泣き虫先生」という名回としても知られている。

このような、「もともとワルだった者たちが、スポーツというひたむきに向き合えるものに出会い、人間として成長していく」という設定は、人々の心を掴むストーリーとして昔から根強くあり、多くの大人たちがこれを信じている。実際、部活動の顧問やスポーツクラブのコーチなど、青少年のスポーツ指導者は、マイクを向けられれば、「子供たちが人間として成長するために」と、スポーツの技術や体力そのものよりも、その精神性の成長のために指導に励んでいるように答えるのが習わしとなっている。

「スポーツは、人間性を成長させるもの」という文言は、多くの人が信じている法則性であり、「スポーツは無条件でいいものだ」という社会規範が形作られている。

だが、いや、だからこそ私は言いたいのだが、スポーツが人間性を成長させるという神話は、幻想にすぎない。スポーツは、多くの人が誉めそやすほど高尚なものではない。はっきり言って、スポーツは人間性の成長に、何の関係もない。

今日はそんなことについて書いていこうと思う。

まず、小学校、中学校、高校での記憶を思い出してほしい。読者のみなさんに問いたいのだが、それら学校の場では、イジメっ子はたいてい、「体育会系」ではなかっただろうか? ほとんどの学校では、イジメる側の人間は何かしらのスポーツをしており、スクールカーストの上位に収まっていて、カースト下位のクラスメイトをイジメてなかっただろうか?

ほとんどの人が、Yesと答えるだろう。文化系や帰宅部の者たちがイジメる側に回り、スポーツマンたちがイジメられている光景など、ほとんど見たことないのではなかろうか。

このことからもう、スポーツが特段に人間性を成長させるものではないことが分かる。もしもスポーツが人間性を成長させるものだとしたら、イジメっ子はたいてい文化部か帰宅部に属していて、スポーツマンたちをオラオラとイジメていたはずなのである。だが現実はそうはなっていない。

このことは多くの人が体感して知っていることである。にもかかわらず、「イジメっ子はスポーツマンが多い」という言説がテレビや飲み会の場で、語られることはほとんどない。私は、アナウンサーや芸能人が、「イジメっ子はスポーツマンが多い」と明言しているのを見たことがない。

この事実は、まるで皇族のゴシップに触れてはいけないかのように(菊タブー)、ハリーポッターの世界でヴォルデモートの名前を呼んではいけないかのように、公に口にしてはいけない事柄のように扱われている。

スポーツは無条件で良いものだ、スポーツマンはみんなで応援しなければならない、オリンピックに出るようなアスリートは心も綺麗なはずだ、という前提で、公人は言論しなければならない。そんな雰囲気が形成されている。それらを裏付ける大した根拠が無いにも関わらず。

スポーツと軍事には何も関係が無いのに、オリンピックは「平和の祭典」と称えられている。政治的対立など関係なしに公平に競技しあうことは確かに平和的であるので、間違いではない。だが、だったら数学オリンピックや国際音楽コンクールだって「平和の祭典」と呼ばれていいはずなのに、そうはなってない。

現代では、スポーツは「無条件で良いもの」の神殿の台座に祀られていて、決してそのドグマに異議を唱えてはいけないかのように扱われている。

このように、スポーツは過度に「神聖視」されている。

だが思うに、スポーツと人間の成長には何の関係もない。それを裏付ける統計的根拠すらない。もしあったとしても、例えば「若いころのスポーツの経験の有無に対して、現在の幸福度に相関があるか」というデータになるのだろが、因果関係は分からない。そもそも幸福になりやすい人間がスポーツをやるのか、スポーツをやったから幸福になるのか、どちらが原因でどちらが結果なのか不明なのだ。

大した科学的根拠が無いにも関わらず、「スポーツは人間性を成長させるものだ」という命題が無条件に肯定されている。私は、この命題は間違いだと考えている。スポーツをしても人間は成長しない。

では、何が人間性を成長させるのだろうか?

それは、「夢中」だ。

私とスポーツの関係はいずれ別の記事で書こうと思っているが、私はスポーツで成長したという経験がない。中学校では運動部に入っていたが、そこで特に成長した記憶はない。私が、「ああ、オレ成長してるな」と思ったのは、大学でのサークルと、ゲームであった。

大学では文化系のサークルに属していて、私はすぐに活動に夢中になった。そこではメンバー全員の力を団結させて作品を作らなければいけなかった。当然、仲間とのいざこざが生じる。だがそのような苦難を乗り越え、人と話し合うことの大切さ、他人を信じることの意味などを学んだのである。他にも、集団内での立ち振る舞い方、コミュニケーション、役割意識、義務感など、数多くのものをそこから得た。作品作りなので、芸術的感性も大いに磨かれた。

また、ゲームでは、スプラトゥーンが私にとって大きな成長のきっかけを与えてくれた。スプラトゥーンは、ランダムマッチされた味方チームと相手チームで戦い、勝てばランクが上がり、負ければ下がるというシステムだ。ゲームプレイに熱くなると、負けた悔しさを強烈に味わう。最初は負けた時に人のせいにしていたが、それでは実力は上がらないと考え、上手いプレイヤーの実況動画を数百本も見て研究した。対戦に負けた後は自身のプレイに落ち度がなかったかを常に振り返り、改善を繰り返していた。このことから、技術力を磨いて高みを目指すメソッドを学んでいったのである。

気づいたと思うが、上にあげたような「学び」は、スポーツで得られる「学び」と全く一緒ではなかろうか? 友情、努力、勝利。上を目指すための方法論。ふがいない自分への葛藤。あきらめない力。こういったことは、別にスポーツでなくても十分学べるのである。

「夢中」になれなかったら、きっと何も学べなかっただろう。夢中になるからこそ、「今の自分じゃだめだ。なんとか変わらないと」と必死に思い、人は成長するのである。その対象が「スポーツ」である必要は全くない。

私はスポーツに夢中にはなれなかった。だから成長しなかったのだ。そう考えている。全国のスポーツ指導者に言いたいのだが、スポーツをただやらせているだけでは人は成長しない。スポーツに夢中になるように仕向けなければ効果はない。そのことを肝に銘じておくべきだ、と。

人を成長させるという点で、スポーツは夢中になる対象の一つであって、何も特別な存在ではない。夢中になれるものであれば、芸術でも、勉強でも、ゲームでも、アイドルの追っかけでも何でもいい。人は成長する。スポーツは、せいぜいそれらと同程度の存在なのである。ましてや、神聖なものでも何でもない。

「スポーツは神聖なものではない」
このことは公には語られてこなかった。おそらく、スポーツそれ自体に異議を唱えてしまえば、「ああ、あいつは運動オンチでスポーツマンに僻んでいる陰キャなんだな」と囁かれるのが関の山だったからだろう。

だが、インターネットの登場で、匿名で誰でもホンネを投稿できるようになり、スポーツそれ自体に異議を唱える言論が徐々に可視化され始めてきた。それが際立ったのが、2020年東京オリンピックだった。

新型コロナウイルスのパンデミックが始まってからは、「こんな状況下でオリンピックなんてやってる場合じゃない」という意見が多く見られたが、コロナ禍以前にも、というより東京にオリンピックを誘致することが決まった段階から、それに反対する声は数多く散見された。

その多くは、「貧困や環境など、もっと税金を投じるべきところがあるだろう」というテイストで語られていた。だが、Twitterなどの匿名性が高いSNSでは、「ただの運動会に金を使うな」や「東京で開催ってだけでワイワイしている連中が気持ち悪い」といった、スポーツが無条件で肯定されていることへの嫌悪感が発露されたような投稿が多数観測された。スポーツが神聖視されていることへの鬱憤が、表舞台に噴き出すようになったのである。

この動きは、これから加速して増していくだろう。言論の中心がマスメディアからインターネットへと遷移していく現代では、タテマエよりもホンネの方が影響力を持つようになるからだ。

スポーツをしても人間性は成長しない、スポーツは神聖なものでも何でもない。せいぜい、芸術や勉強、ゲーム、アイドルの追っかけと同程度の存在である。このことが、やがて支配的な意見になっていくだろう。

スポーツが神殿の台座から引きずり降ろされる日は、そう遠くないように思える。

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