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「共有」する「孤立」

ステルスの話すどんな言葉にも意味が隠されている。いや、実はないのかもしれないが、勝手に意味を見出だすことはできる。

『「孤立」は「共有」であったというどんでん返しが私を追ってくる。』と、ステルスは言った。

孤立とは他と繋がりを持たない(持てないこと)ことだ。
そして、共有とはあるひとつのものを、複数が所有する、あるいは同じように認識することだ。
この相反するかかわりなさそうな2つの事象が、どんでん返しのように入れ替わっている、という。

自ら孤立していると思っていたがそうではなかった。それすらも、見えない何者かにより共有させられる思いである。その事実が私を追ってくる。
追ってくる。望んでいなかったのに。だろうか。
この分だと、良くない結論になりそうだ。

人々は自分が「孤立」しなければならない、と思い込まされている。目にする、耳にする、様々な情報の氾濫によって。混乱と恐れによって。
強いられたにもかかわらず、自らの意志で孤立を選んだかのように錯覚し、人々は叫ぶ。さぁ次はキミの番だよ、皆で孤立を「共有」しよう。私たちは孤立しなければならない!

この皮肉な状況を作り出したのは何者なのかを私は知っている。そして、それは私にも徐々に迫ってきている。

見よ 白き視野を昇り
見よ 「ようこそ」と聞こえた
見よ 錯視の霧は晴れ
見よ 「ようこそ」と聞こえた
見よ 隠し絵は解かれて
見よ 「ようこそ」と聞こえた
(上空初期値)

私たちは冷静になって、今ある考えを一度「初期化」してみる必要があるのかもしれない。

※当然ですがこれは筆者による勝手な解釈です。

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