赤い花 第三部

 この一週間は穏やかな日々が続いた。晴れの日が続き、ミキは自分が病気であることを忘れるくらい体調も悪くなかった。仕事もこれまでどおり、順調にこなせていた。

 金曜日を迎え、外は曇りで底冷えのするような天気。春本番前に最後の雨が降りそうな気配がしていた。ミキがいつものように溜まった領収書の整理と伝票システムへの入力を進めていたら、事務所のドアが開いた。 

 入ってきたのは若く見えるが首周りに四十手前の歳を感じさせる女性だった。少し濡れた傘をドア付近の傘立てにさしこむと、所長への挨拶も簡単にそのままミキの隣にたって、見下ろしてくる。

「あなたが沢村さん?」

 ミキは立ち上がりながらそうですと答える。

「所長から報告は受けています。東京支社で人事総務を担当している江越といいます。今回は残念なことになりましたね。心から同情するわ。でもね、会社はあなたのあとのことを考えなければいけないの。申し訳ないけど、派遣契約は今日までということで派遣元にも話は既にしているから、荷物を整理してね。」

 ミキは言われながら、頭がクラクラとしてきた。月曜日に所長に話してから、所長も営業所のメンバーもいつもと変わった様子もなく、突然の「解雇」宣言に驚いた。

「そんな、追い出すような真似をしなくてもいいんじゃないかな。」

 所長が不服そうに話に入ってきたが、少し及び腰だ。

「いい人ぶるのは勝手ですけど、我々になんとかして欲しいと泣きついてきたのはあなたでしょう。これから新しい顧客も増えて手が回らないのに、唯一の事務員が困ったことになったって。」

 ミキの知らない話だった。伝票もいつもと同じ枚数だけ渡されていて、顧客が増えていることには気付かなかった。

「私は今は元気で平気に仕事が出来ています。少し仕事量が増えたって。」

 江越が話を遮って入ってきた。「今はでしょ。」その言葉に労りの色はなかった。「先は?」とまくしたてられ、確かに正論だった。そんな簡単な病気ではない。ミキは自分の言葉がフワフワしていることを感じながら、病室での医者の言葉を鮮明に思い出していた。。

 しかし、迷惑をかけることは承知で、所長も構わないと言ってくれたではないか。それが週も変わらないうちにこんなことになるなんて。

「もちろん、あなたが不服だと言っても派遣契約は近々更新の時期でもあるので、再更新はしません。本社にも話をしてあります。本社社員と同等の傷病見舞金を支給しますので、それで手を打ちましょう。」

 だんだん、外の雨が強くなってきた。

「あなただって、私たちと争っているような時間はないでしょ。」

 雷の音がした。きっと豪雨になるだろう。ミキはベランダに出したままの植木が気になった。サトルと同棲を始めるときに自分で選んだ植木だった。きっと雨びたしになっているのだろう。


 今日、5日間の出張を終え、サトルは羽田に戻ってきた。京急沿線に住んでいる身としては、羽田発着での海外出張は非常にありがたかった。

 自宅に戻ると部屋に明かりは灯っていなかったため、ミキがまだ会社から戻っていないのかと思い、鞄から鍵を取り出して、回してみたが鍵はかかっていなかった。

「ただいま。今、帰ったよ。」

 呼びかけに対する反応はなく、玄関を踏む自分の足音が響いた。単なる鍵のかけ忘れかと思いながら、ドアを開けて電気をつけるとソファーでうつ伏せになって横になっているミキがいた。

「おい、どうしたんだよ。気分でも悪いのか。」

「ああ、サトル、おかえりなさい。そういうわけじゃないの。ただ何となく。」

 ミキの話す声に元気はなく、けだるい様子だった。調子を確認しようとする自分を手で制しながら、ミキは顔をあげてこっちを見てくる。

「私ね、この一週間、考えていたんだけどサトルとのお付き合いを解消したいの。突然でごめんね。でも、私と別れてください。お願いします。」

 あまりにも急な言葉にネクタイを緩める間もなく、サトルは頭がぼーっとした。ミキの目には涙が溜まっていて今にもこぼれそうになっていた。

 返事をしようにも突然の言葉に呆気に取られ、ミキから目をそらした。その先には、サイドテーブルがあり、ミキのバッグが置いてあった。

 白い紙の袋が出ていることに気づくと、バッグを掴んでサトルは自分の手元に引き寄せた。

「やだ、なにするのよ。」

 制止する彼女を振り払い、バッグの中から紙袋を取り出し、その中に入っていた大量の薬をテーブルに置いた。

「説明してくれよ。ちゃんと話、聞くからさ。俺、何があっても驚かないから。」

 ミキは呆然としながら目を服の袖口で拭った。潤んだ瞳の奥に彼女の決意が読み取れた。

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