赤い花 第二部

 冬もすっかり終わり、暖かい日差しに春の匂いを詰めこんだ風が薫ってくる。 

 サトルは、今日から一週間の海外出張だというのに、ほとんど眠ることが出来なかった。今朝は、昨日の残り物を食べてすぐに出てきた。少し味が薄いけど、いつも健康に気を遣った料理を作ってくれるミキには感謝している。 

 飛行機の時間まで余裕があったから、少し離れている外の喫煙所でタバコを吸おうと思った。どこにいっても喫煙者は肩身が狭い。

 ライターの火がうまくつかなくて困っていると隣の男性がライターをすっと貸してくれた。世間からの風当たりが強くなればなるほど、喫煙者同士のつながりは強くなるようだ。 

 サトルは、煙を吐きながら昨日のことを考えてみる。最近ミキの様子がおかしいことに気づいてはいたが、結局ミキは何も教えてくれなかった。同棲を始めてから1年ちょっと経ったが、あの様子は何かあったとしか思えない。

 ミキが何も話してくれないため、想像するしかないが、サトルとしては無邪気に妊娠でもしたのかと思っていた。しかし、結婚しようへの返事もなく、どういうことなのか理解ができなかった。

 妊娠ではないなら他にあるとしたら重たい病気にでも罹ったのか。そんな悪い予想が頭にちらついていたら、いつの間にかタバコはフィルター近くまで灰になっていた。 

 わからないことを考え続けても仕方がない。気持ちを切り替え、出張先での業務内容を頭に思い描きながら、目の前のことに集中することが大事と思い直した。

 昨日のことは出張先で落ち着いたら電話して聞こうと決め、サトルは急ぎ足で搭乗手続きに向かった。


 今朝、ミキは出張にいくサトルに心配をさせたまま見送ってしまった。

 そんな自分に嫌悪感を抱きながらも目の前にあることをこなしていかなければならない。とりあえず会社に行って話をしなければ、こんな時は少し距離のある関係の方がまだ楽に話せる気がする。それから郷里の母と妹にも…しっかりしないといけない。もう時間は私を待ってくれないのだから。 

 いつも通り定時の三十分前に会社につくと、所長が窓の外を見ながらいつもの体操をしている。

 北陸に本社と工場のある機械メーカーの横浜営業所に私は事務員として派遣会社から契約社員として派遣されている。関東には東京支社があり、納入先の顧客の近くにそれぞれ営業所を構えている。本社から支社経由で派遣されている人間は所長と若い外回りの営業員が二人いるだけでそれ以外は事務・雑務担当として私がいる小さな事務所だ。

 所長は確か五十の半ばを過ぎていた。本社での役職定年の年齢に到達したため、顧客が現在では相模原に数社だけあるこの横浜事務所に二年前から赴任している。私は大卒後の就職がうまくいかず、派遣会社に登録して大学生時代の下宿先から近いこの事務所に三年前から務めている。

「所長、いつも早いですね。その体操のおかげかいつもお元気ですよね。」

「おはよう。まあもういい歳だから健康には気をつけなきゃな。やっと寒い冬も過ぎたことだしな。」

 じわりと胸に痛みが走る。

「実はお話しがありまして、朝早くから申し訳ないのですが」

「うん。どうしたんだい。」

 そう言いながら所長は自分のデスクに移動し広げてあった今朝の新聞に目を落とした。ミキが言葉を発しない様子から察したのか「応接室に入ろうか」と促してくれた。

 応接室といっても仕切りがあるだけで完全な個室になっているわけではないが、向かい合って座ることはできる。

 「実は」とミキは話を切り出した。昨日一晩、ほとんど眠れない中、色々と切り出し方や説明の仕方を考えてはいたけれど、話はとても纏まっていなかった。

 所長は話の腰を折らずにしっかりと聞いてくれていた。

 ミキが一通り話しを終えると、所長は深いため息を吐いた。

「ミキちゃんは、いくつになったんだっけ?まだ三〇にはなっていなかったよね?」

「今年で二六になります。」

「若いのに、このおじさんの半分の歳にもなっていないのにな。」

 ほほ笑みながら、私の目をしっかりと見つめてくれた。優しい笑顔と言葉に感謝し、初めて誰かに自分のことを話すことが出来て気がだいぶ楽になった。

「とても言いづらいのですが、しばらくは通院しながら様子を見ようと思いますので仕事はこのまま続けさせて欲しいです。お休みや遅刻・早退を頂く機会が増えてしまうと思うのですが。」

「話は分かったよ。これから通院や何やらで大変だと思うけど、希望をしっかりと持つんだよ。なあに、この横浜営業所のことなら心配することはない。ほとんど仕事なんてないんだから。」

 所長はやや自虐的になりながら大笑いして、またにっこりと微笑んでくれた。

 一通り話しが終わると事務所の他の二名のスタッフも出社してきた。

「この話はみんなに共有してもいいかな?」

「はい。構いません。」

 所長がみんなを応接室に呼んで、入れ替わりでミキが外に出て自分のデスクに移動した。時間にして五分程度だったと思うが、二人とも沈痛そうな面持ちで出てきた。まだ30代手前の若い方の社員がミキの肩をかるく叩いて「がんばれよな」と言ってくれた。

 そのあとすぐに二人は、通常通り担当顧客の元に行くために事務所を後にした。

 ミキもいつも通りに昨日のうちにたまった伝票類を整理して、事務用品の手配や東京支社への報告書の郵送を手配しているうちに昼休みの時間帯となった。薬の入ったポーチを持って、まだ机の上で部下の営業報告書に小さな老眼鏡をかけて目を通している所長にお昼に出ることを伝えて、事務所を出た。 

 ミキが会社を出て行ったあと、入り口のドアが閉まったことを見届けてから、所長は首を上向け天井を睨むように少し考え事をして、おもむろにデスクの電話を持ち上げた。

 その日は少し早めに会社を上がらせてもらった。誰かにちゃんと話ができたことでミキは少し前向きになれた。

 スマホのMessageアプリを見るとサトルからの着信と「返事ちょうだい」を意味している少しブサイクな造形のスタンプが残っていた。可愛くないから使って欲しくないって言っても、「なんか気にいってんだよねー」といって憚らない。

 時間を見るとちょうど出張先の空港に着いてから連絡してきたのだろう。とりあえず、これから家に帰るねとだけ返信をして電車に乗った。

 家に帰ってから何度かサトルに連絡をしたが、忙しいのか返事がなく、もう寝ようとしていたところでサトルから着信があった。もう声は陽気になっていて、現地でお客さんと一杯ひっかけたあとなんだろう。

「今、ホテルに一旦戻ってきたんだけど、もう一軒行こうってなっているからあんま時間ないんだけど、どう?体、平気?」

「大したことないよ。会社にもちゃんと行ったし、心配しないで。それよりもサトルこそ飲み過ぎないでよ。今回一週間でしょ。初日からこのペースだとしんどいんじゃない。それに・・・」

 昨日も良く寝れてないんだしとは、口に出さなかった。

「大丈夫、大丈夫。営業は飲んでなんぼだよ。体が資本。学生時代から体とお酒の鍛えはしっかりやっているから安心しな。」

「うん。そうだね。」

 暫く沈黙が続いたが、「あのさあ…」と二人の声が重なった。お互い譲り合ったがミキから切り出した。話したかったことは一緒だと思ったから。

「出張から帰ってきたらこの前の病院の話するね。電話越しだとアレだから。ちゃんと顔を見て直接話したいの。」

 声が少し深刻になってしまったため、最後におどけながら「あと、私へのお土産を忘れないでね。」と付け足した。

 サトルは少し不満そうではあったが、待ち合わせの時間が近づいていることもあり、「了解」とだけ言って通話を切った。

 今日、会社で所長に話をしたときより、サトルにはきっと上手に説明できる。でも出張中で頑張らなきゃいけない人に今、寄り掛かる勇気をミキは持てなかった。

 寝る前に飲むべき錠剤を慎重に確認して、白湯で飲み込んで眠りについた。明日もいつもの時間に起きれますようにと祈りながら。

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