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花ざかりの校庭 (後半直し60枚)



      ★





総合病院の待合室で高志はパニックになっていた。

浅子をタクシーに乗せて受付に辿り着いたのが3時。

午後の診察の受付開始直後である。

途中、看護師が治療室から出てきて、彼に聞いた。

「……あの方のおうちのかたですか?」

高志は戸惑った。

「弟……です」

看護師はそのまんま診察室に消えた。

彼の脳裏に、ふと麻里のことがよみがえった。

しかし、このまま浅子と別れることはまた、考えも及ばなかったのだ。

彼は立ち上がり、病院の外を眺めていた。

外はやけに薄暗く、雲が垂れ込めていた。

病院の重苦しい雰囲気が……彼の胸を締め付ける。

体だけ繋がって、心は別物?

そんな都合のいい具合にはいかない。

多分、浅子はそれができると思っていたのだろう。

男の高志ですらそれにかなりの抵抗を感じていた。

アタマで考えるほどに、心は都合良くできてはいない。

こういう時に限って、ちょっとしたことが気にかかる。

彼女の部屋の洗面台においてあった二人のコップ。歯ブラシ。

彼はため息をついた。

やがて、診察室のドアが開く。

さっきの看護師だ。

「……体調不良みたいですね」

と、言って彼に入るように言った。

中には入ると、浅子は簡易式のベッドの上で点滴を打ってもらっていた。

腕で顔を覆っている。

「……ゴメン、こんなことになっちゃって……大したことなかったみたい。貧血だって」

彼女はボンヤリとしていた。

「よかった」

高志は言う。

浅子は首をふった。
枕元に携帯があった。

「実家から兄が来るみたいで……」
メール?

なにやら込み入った話になりそうなんだ。

浅子は呟く。

「どうすればいい?」

帰るとはさすがに言えないのだ。

彼女が自分の前で倒れた以上、それは身勝手である。

支払いが終わると、彼女は立ち上がった。

そして病院の裏手にある庭に面したところに腰をかけた。

「……ダメね、私。悪人にもなれやしないい」

そう言うと、浅子は舌打ちしていた。

……嫌だな。

「……俺のこと?」
「ううん、自分のこと」
「私は遊びといっておいてさ、遊びで終われなくなったみたい」
ねえ?あの子のこと……好きなんでしょう?
浅子は言った。
高志は何かを言おうとすると、彼女は慌てて言葉を遮った。
高志は俯いたままだ。
「……割りきってたはずなのに」
彼女はカランとした空洞を覗きこんているような顔をしていた。
やがて、景色がまた遠のきそうになる。
浅子は椅子の背もたれに仰向けになって部外者ため息をついた。

浅子は高志を見た。

……よく似てるんだ。
え?
貴女と。

浅子は彼をじっと見てから、

「……あの子?」
「うん」
「高志くん、あんた将来、すごい女ったらしになると思う」
「え?」
彼女は鼻に皺をよせる。
何かを嗅ぎ付けた時のように。
「……アディクション…、私を少しは哀れみなさいよ」
そういって、寝癖のついた髪を整え始める。
ふと、手を止めて、笑う、
「他の男だったら冷めちゃうんだけどね。あっさりと」
浅子はマールボロに火をつけようとした。
「……ほら。ここ病院だぜ」
高志は素早く彼女のタバコを取り上げた。
「あ、ごめん」
浅子はあと少ししか入ってないマールボロの箱を手にしたまま、病院のテラスから見えるビルを眺めた。
秋晴れの中で遠く感じる。
こいつのこと……ヤバいくらいに好きになってる、
このまま一緒にいると、胸の中で泣き出しそうで、ぎゃくにがさつに振る舞ってしまう。
彼女はジップのパーカーを着た。
「あっ、今、妄想した」
彼女はマールボロの箱をゴミ箱に放り込む。
「……妄想したよ、私」
「何を」
浅子はクスッと笑った、
「あの子と高志の仲を壊しにいくとか」
「……悪魔か!」
「ホント、私、悪魔よね」
一瞬、空を見る。
彼女はアンジーを口ずさみながら『エッチな妄想でもできたらいいんだけど』と。
彼女はひとりごちている。
「体とかじゃなくて、心があの子に向いてるのが辛いし。マジで」
「アレは……」
浅子は真っ赤になった。
少しときめいて、吹き出した。
「冗談言うなよ、バカ、あなたをどうやったら忘れられるか、こっちは必死よ」
彼女は経験がなかったときのように恥ずかしくなった。
あのさ、アレの話はしてないの。
嫌いじゃないくせに。
「ひどいな」
「ひどいのはそっちよ」
彼を今は離したくない。
まるで溺れていくように、彼を愛し始めている……。
浅子は舌打ちする。
……別れなきゃ。
この恋はヤバい。
でもどうやったら忘れられるの?
浅子は芝生のくすんだ青に目を落とす。
高志は浅子を不思議な顔して見ている。
「……可愛い」
「やめてよ」
このままでは、自分が壊れてしまう。
そのくせ、彼は彼女を欲しがる。
彼女は思っていた。
「もう、帰ったほうがいいよ」
彼女は言った。
しばらく黙ったあと、高志は言った。
「そうしとくわ」
高志が去ったあと、ふいに悲しくなる。
彼女は慌ててパーカーの裾で頬を隠していた。
もう随分泣いたことがなかったのだ。



        ★



最初、繋がった時、彼はまだ女性を知らないことは明白だった。
彼女の胸に手をやって、幼い愛撫をしていた彼。
ぎこちなげに彼女の胸に唇をやる。
……私が初めてでいい?
彼は赤くなって頷いた。
浅子はゆっくりと彼を受け入れていく。
浅子は縺れ合いつつ、彼を上から奪った。
「……いい?」
自分の中に、彼の一部が入る。
それは熱かった。
浅子は優しく高志の頬にキスをしてやった。
「……浅子さん……」
彼女の下半身もその部分がじんわりと熱くなる。
じっとりと中で濡れていく。
お腹の中で、それは硬くなって、ひくひくする。
浅子は眼を閉じて、彼の胸に頬を寄せた。
彼は気を利かせて浅子を愛撫しようとする。
どこかいたいけなその行為に好感を抱く。
浅子は少年に口づけをしてから、からだをゆっくりと動かし始めた。
ふいに、高志の体がピクッと痙攣する。
行きそう?
アタマのなかに酸っぱいレモンのような感覚がはしる。
やがて、彼女は夢中になっていた。
十代の頃は痛いだけだったのに……。
男の子はそうじゃないから。
浅子は心のなかで呟く。
二人は波のように揺れながら、遠い潮騒の音を聞いていた。
アタマの奥で珊瑚礁の淡いピンク色が火照っていた。
硬くなった彼女の胸の先に少年の指が触れる。
泣きたいくらい切ない気持ちになる。
彼は何度も彼女の名前を呼んだ。
浅子は少年の胸を唇に含む。
そして、そっと歯をたてた。
お腹の中に入った彼自身は熱くて硬い。
もしかしたら前世で、二人はこうやってむつみあったのかも知れない。
彼女はふと、そう思った。
浅子はまた波になる。
彼女は高志のそれと密着するように繋がっていく。
やがて少年は何度か痙攣した。
「いく?」
彼女は囁く。
高志は虚ろな目をしていた。
彼女はじんわりと来る波によっていた。
「キスしてくれる?」
小さな声で囁く。
高志は言われた通りにキスをした。
……男の子は終わったときに、キスしてあげるの。そしたら、女性は嬉しいのよ……。
浅子はそのまま彼の横で余韻に浸る。
二人はそのあと、何回か交わった。
そう、それも過去のことだった。



       ★



パーカーで体が暖まったせいか、浅子はかなり元気になっていた。
「ねえ?」
と、浅子。
彼女は目を閉じた。
「何?」
「今日はここまでにして」
何かがゆっくりと変わっていく。
「ああ」と高志。
浅子は高志を見ていると弟みたいに思えた。
……ゴメンね。今はとても割りきれないんだけど、あなたのことは好きよ。
私、自棄を起こすのが今、とても恐いの。
起こしかねないから。
とにかく今はひとりになりたい。
いや、なった方がいい。
悪いけど。
まともな気分になれそうにないから。




   ★さまよえる鳥★





麻里はおぼろげながら来年の目標をたて始めた。
福山の『探検部』の構想はそのまま関西に移転する。


麻里は京都ゆきに同行することはなかったものの、福山に何かしら魅力を感じていた。
恋をするくらいいいでしょ?
麻里はアレックスサンジェに乗り、地図を開く。
すでに明きの気配が漂うなか、彼女は岐阜から関ヶ原にむかう道をチェックし始める。
彼女はアルピニストでもなく、いうなればワンダーフォーゲルをしている。
ドイツ語で『さまよえる鳥』。
携帯の電源をオフに。
微かに雲がかかってきた。
途中、レストランのフォルクスでナップサックの中身を点検していた。
昨夜、しおんから野草の生態を調べて欲しい……と電話があり、資料を受け取った。
……フキ、ハルジョン、イタドリ……。
添付された資料はすべて、彼女の実家の祖父が何かの研究をしているものだ。
しおんが実家を継ぐと簡単に言っていたが、彼女は野草に関する知識は常識をはるかに越えていた。
デジタルカメラのバッテリーをチェックして、店を出た。
彼女は空をあおいた。
「……麻里ちゃん?」
ふいに、駐車場でしゃがれた声がした。
見ると、バーキンの彼女だ。
「……浅子さん?」
相手は頷いた。
「……しばらく私、消えてたの知ってた?」
麻里は首を傾げた。
「いえ…」
そういえば、マンションの駐車場にファアットがなかった。
「……実家に行ってたの」
麻里は浅子のようすが今までとは違っていることに気づいていた。
「そういえば、クルマが駐車場に……」
浅子は少し寂しげに頷いた。
「なかったでしょ?」
彼女はグレーのスーツにギャザードスカートというややフォーマルないでたちである。
同性でありながら、麻里にとって浅子は眩しかった。
あらゆるものが洗練されて見えるのだ。
彼女は麻里よりもはるかに猥雑で貪欲に生きている。
麻里は浅子が……高志に伴われて病院に行ったことを知らなかった。
麻里は生まれつきなのか、他人に好感をあまり持ちたがらない。
彼女の意固地な性格はそういうちょっとしたことに出ていた。
妹の智恵は、何気なくそういった彼女の癖を諭すが、その度に麻里は智恵と喧嘩になる。
彼女の癖が、時々、他人の過大評価に繋がることもしばしばだった。
福山は彼女のそのセンスを内心、買ってるのかもしれない。
彼はいつも麻里を見ていた。
見られていて、嫌なときもあるが。

でも、彼が彼女の心の奥にあるキラキラしたものを発見したのは福山司郎だった。


       ★



来年の梅の花がほころぶころ、私を取り巻く世界はどう変わっているのだろう?
人は悲しいくらい、未来を夢見て幻滅する。
無限に思える未来に対して、憐れにも神は1対1の現実しか与えない。
彼女が浅子に憧れているのは、自分の未来を見ているような気分がするからなのかもしれない。
麻里は本能的に浅子の本質を捉えていた。
「……あのクルマ……」
「えっ?」
浅子は麻里を前にして毒気が抜かれた。
麻里は赤くなってるのだ。
「……高志のこと好きなんでしょ?」
浅子はまっすぐ麻里を見ていた。
ふいに、麻里は……ある真実を悟った。
浅子は彼のことを愛しているのだ。
そんな……。
残酷すぎる。
「……あ、あの」
麻里は泣きそうになった。
浅子は困ったような顔になった。
彼女はゆっくりと首を傾げる。
その時、麻里の認識している世界はゆっくりと変貌していった。
はりつめた彼女の世界は、大翔の一角にヒビが入る。
ふと、そのヒビのむこうを覗いてみると、別の世界がどうやら広がっているのだ。
「やだな……まだ、ねんねの子を相手にして、私ったら嫉妬しちゃてるの……」
ジッポーを取り出した。
微かにオイルの臭いが漂う。
煙草に火をつけて髪の毛を整えた。
「私、やっちゃったよ」
浅子はフォルクスのベンチに腰かけた。
さらに何か言おうとしたが、麻里を見てためらった。
……麻里は心の奥で熱いものがこみ上げてくるのがわかった。
「……いつからですか?」
「今年の2月かな?」
「本気なんですか?高志くんとのこと?」
浅子はジッポーをカチカチさせながら、
「ううん、遊び」
麻里は憤慨した「遊びってなんですかっ!」
浅子は可笑しそうにわらって、
「……勝てっこないわ、貴女に」
「……どうしてなんですか!」
浅子は可笑しそうに笑っていた、
「……だって、最初で最後のヤツ奪ってやったんだよ」
「……?恥ずかしくないんですか」
「べつに……」
浅子はタバコを片手に何やら書いていた。
「……ホレ、これ」
浅子はコンビニのレシートを渡した。
裏側に携帯の番号が書いてあった。
ご丁寧なことに番号の横に『田畑高志』の名前まで添えてある。
まるで果たし状のような紙切れである。
麻里は憤慨した。
浅子はタバコを灰皿に押し付けると、
「……悔しかったら、奪いなさい」
「なんですって!」
「キスして、愛してますなんて、あまっちょろい。私から奪いなさい!好きだったら、人から奪うもんでしょう!」
「浅子さんなんか大嫌い」
「奪いなさい」
「やめてっ」
麻里はその言葉を残して、その場を去った。
麻里は何か得体の知れない嫌悪と愛情が入り交じった何かがざわめいていた。
その凄まじいエネルギーが、体液のように体から噴出する感覚がほとばしる。
麻里は途中で、アレックスサンジェを電柱にぶつけそうになった。
クソッ!
麻里はしりもちをついた。
ジャージーについた泥を払いながら、振り向く。
……おのれッ!
ヤツはフォルクスの前で不敵に麻里を見ていた。
「浅子のバカ野郎っ!」
麻里は声も高らかにその女を罵倒した。



      ★


夜半、麻里はの棲んでいるマンションに帰ろうとする。
自己嫌悪が始まった。
田畑高志と浅子……。
厄介なことを聞いてしまった。
しかも……彼女は昼間、手にした紙切れを見る。
どうすればいいのさ?
このまま、田畑に電話して?
見ると、学校の前の石畳の道に倉木しおんが帆布の鞄を肩にかけて突っ立っていた。
彼女は、ニコリと笑って手を振る。
「顔色、すぐれないね?」
麻里は頷いた。
そして、胸を撫で下ろす。
迂闊に人には言えない。
浅子の挑発。
麻里の頭のなかは、浅子に言われた一言でいっぱいになってる。
……奪いなさいよ……。
普段、麻里はあらゆる問題を自分で解決法できるものだと思い込んでいた。
ところが、相手が悪かった。
いきなり高志との関係で、ハンディを突きつけてきたのだ。
まるでチェスゲームみたいに。
「……どうしたの?」
倉木しおんは近視が入った眼鏡をずりあげた。
そして、麻里が手にしていたレシートの裏側をじっと見ていた。
「……ゲッ」
彼女は唇を歪めた。
これは、田畑くんの番号かな?
しおんは目を細めていた。
麻里は黙ったまま頷く。
空が淡いオレンジに染まり、風にのッた雲が流れる。
「もう、秋だね……」
倉木しおんはレシートを手にしたまま、感慨深げに呟いた。

……これ、彼にもらったの?

そこまで言って、赤く俯く「お泊まり……とか?」と呟いた。
「……違う」
「……そ、そうだね。少し早いよね展開が」
「早すぎるし」
倉木しおんは首をかしげる。
「まさか、田畑が襲ってきた?」
麻里はその方が好都合だとも思った。
彼女は違う……と、舌打ちした。
バーキンの人……と言った。
しおんは首を傾げていたが、やがて「あの人?」と大声をあげた。
「しおん、声、大きすぎっ!」
ショッピングバッグを手にした親子連れが、二人を見ていた。
「あ、ゴメン」またやってしまった。と、しおん。
しおんはツータックの眼鏡をずりあげ、模擬試験を受けているような顔つきでレシートを見ていた。
「……バーキンがくれたの?」
麻里は頷いた。
「……あり得ない……」
しおんは悩ましげな顔つきだ。
彼女は空を仰いで「三角関係みたいな……?」。
「うん」
麻里は頷く。
「……バーキンに勝てっこないよ」
これって、凄い自信あるからでしょ?

「……なんかそれだけじゃないみたいで……」
「どういうこと?」
……私から奪ってみなって……あの女…。
えっ、しおんは唸る。
「……やれるものなら。みたいな?」
麻里は頷く。
「……つまり、田畑ってバーキンがありながら、小寺に?」
いや、そこがわからない。
「……二股でしょうが」としおん。
ふいに、麻里は口にした、
「あの女、許さない……ぶんどってやるよ」
浅子の彼だから自分は好きになったのかも知れない。
「……え?」としおん。
「もう一度……いってやるわ」
……あの女、許さない……。
しおんはまた、首を捻るのである。
やがて、麻里はバス通りの雑踏の中で蘇生していた。
「……許さないの?」
と、しおん。
麻里はふりかえり、頷く。
「うん」
普段から人の良し悪しを云いたがらない親友……小寺麻里……のこんなに感情的な面を見たことがなかった。

しおんは麻里を見ている、
「……どうするわけ?これ」
と、レシートを見せる。
その電話番号。
しおんは言った。
睡眠薬入りのサンドイッチを彼にあげて、眠らせて引きづりこむとか?
冗談でしょ?
冗談よ。
問題は……、
つまり、レシートの裏の電話番号のことだ。
「……なんとかなるよ」
そう開き直る。

彼女はデジカメをしおんに渡した。
テプラで『倉木』と印刷したシールが貼ってある。
しおんはそれを帆布の鞄にしまいこみ、丁寧に礼を告げる。





   ★夜の歌★



      

福山司郎は阪急の駅を降りると、雑居ビルの前に立っていた。
ビルのエレベーターから四十くらいの女性が降りてきた。
「……司郎ちゃん、今日は私、早引けするから向かいの店で待ってて……慣れないところに来てもらって……今日は何処に泊まるの?」
福山司郎は頭を下げると、「……黒川さんにホテルまで予約してもらってて」
「……そう」
渡部久美は笑顔で頷いた……。
黒川紀代(きよ)のことを紹介してくれたのは彼女だった。
「……うちに泊まっていってもよかったんだけどね。秀雄、楽しみにしてるみたいだから」
少し、独特の翳りがあり、福山はそれを介しないよう接していた。それがわかっているのか、彼女はことさら明るくふるまった。逆にそのことが福山を辛い気持ちにさせる。
「……秀雄、元気にしてますか?」
すると彼女は頷く。もう元気すぎるくらい。
「……来年は中学生やから。でも、寂しいのかな?いつも一人だから。私も仕事がなかったら話し相手になってやれるんだけど……」
ふいに携帯が鳴った。
「……あ、専務……今、甥っ子が来たみたいで……はい、すぐ戻ります……」
苦笑する。
「なんせ、小さな会社だから、忙しくてね」
久美が笑顔をつくった。
「すぐだから、今日は半ドン」
福山は……半ドン……という昭和の言葉に、妙に気が和んでいた。

       ★

午後の3時過ぎ、福山は渡部久美の自宅に行った。
太秦天神川沿いに北に上がったところで、途中、双葉総合病院を越えたあたり。
船岡山が見える。
久美はシビックを運転しながら、ロッド・スチュアートの『セイリング』を流していた。
夕方になると四条は混むわよ……。
久美はくすりと笑う。
「まあ、土日だもんね」
と、司郎。
「……滋賀からたくさん遊びに来るの、みんな」
「滋賀?」
「ホラ、大津や草津って遊び場ないでしょ?若いひとの」
つまり、繁華街のことだ。
「だから、週末は滋賀ナンバーのクルマが越境してくるわけよ。インクラインの方から……」
「へえ」
「……専務が冗談半分に『シガサク』のゲジゲジナンバーって言うの」
彼女は笑った。
久美は今年で三十八になるが、あどけない表情をしていた。
お嬢さん育ちのためだろう。
彼女が前の夫の浮気に耐えきれず、離婚したとき、先の会社の社長が仕事を斡旋してくれたのだ。
司郎の父との商売の関係もあり、社長の縄城純一は快く引き受けてくれた。
端から見ると久美はおっとりしすぎており、普通の会社に就職しても、うまくいかないだろう。
この際、司郎の父に恩を売る形で、彼女を経理部に入れることにしたのだ。
「京都は週末が混むからねェ。早い目に黒川会長のところに行った方がいいわ。迷惑かけちゃダメだから」
久美は笑う。
頬に小さなえくぼができた。
「わかった」
「でも司郎ちゃん、高校生になると大人ねぇ」


        ★


路地裏で見る空は青かった。
軒先にジュウシマツが入った鳥かごが吊るしてあった。
久美は、チッ、チッ、チッっと、口を鳴らした。
籠の中でジュウシマツが久美に向かって、鳴き声を返す。
「……可愛いでしょう」
福山は頷いた。
「ねえ、どうせなら大学卒業したら、黒川会長のところに就職しなさいよ」
「……うん、そんなこと一人で考えてた」
「せっかくのつてだからね」
「そうだね。普通に就職しても、コネがなくちゃうまくいかないし」
「わかってるじゃん」
「今の状況だと、お兄さんの跡継ぎは前途多難よ」
久美は言った。
いはゆる内輪揉めである。
会社の常務筋が後がまを狙っていた。
司郎がほぼ一人で生活しているのは、常務を避けるためである。
元々、会社設立から携わっていた常務、小林芳太郎は裏で暴力団との関係がささやかれていた。
そのため、司郎の父は小林と接点を持たせないよう計らっていたのである。

       ★


「ねえ、前言ってた麻里ちゃんって付き合ってるの?」
司郎は皮肉な顔をした「いや、ふられたみたいな」
「ほんと?」
久美はショッピングバッグから夕食の食材を出して、冷蔵庫にしまっていた。
「まあ、大学行ったら誰かいるわよ」
ふいに携帯が鳴っていた。
久美は「……でないの?」と、福山司郎にたずねた。
「……後でするよ」
と、福山。
見ると、麻里からだった。
久美は着信の表示を見て、「麻里ちゃんじゃない?」
嬉しそうな顔。
「違うよ、部のことだと思う。副部長」
「へえ、そうなんだ。じゃ、見込みあるかもよ?」
しばらくすると、秀雄が帰ってきた。
「……久しぶり、秀雄……」
「あ、シロちゃん」
福山は苦笑した。
「こっちに来年来るんでしょ?」
「まあな」
「ここに住みなよ」
「それはどうかな?」
司郎は秀雄の遊び相手を始めた。
ゲームに夢中らしく、二人して対戦を始めた。
夕食の準備をしながら、さりげなくさっきの『麻里』について彼に聞いてみた。
「麻里ちゃんって……誘ってみたらいいじゃん」
脈ありとみたか、久美は冗談半分に言った。
彼は首をふる。
「いや、違うんだ、……妹とつきあってる……」
久美は可笑しくなった。
「へぇ、デートしたの?妹さんと……光源氏みたいじゃん」
デートして、とっちめられたとか?
と、久美は茶化す。
「まさか……テーマパークに行っただけだった」
「……妹って、同じ名古屋の子?」
「うん」
「でも、こっちの学校に進学するんなら、遠距離恋愛じゃない?」
久美は言った。
「……そうかな?」
「来年の春には色々と変わるね」
確かに、大学……というのは、巨大なコミュニティだ。
そこに所属しているというだけで、いろんな人間関係ができる。
「……そういえば、昔は遠距離恋愛は必死だったもんね……」

       ★

やがて夕食が終わると、福山は携帯を開いた。
たしかに、麻里からだった。
……どうした?
福山は久美に断って、2階の部屋で電話した。
……エンテツ、どこ行ってるの?
「……京都。黒川紀代さんに会いに来てるの……。小寺も来ればよかったのに」
……あっ、そうだった……。
麻里は完全に忘れている。
しばらくして、彼女が……浅子さんって知ってる?と言い出した。
福山は、しばらく首をかしげていた。
「……あさこさん?」
……田畑と親しくしている女の人で……。
ふいに、福山は記憶を辿った。
印象的な女性の顔を思い出した。
「……フィアットに乗ってるあの人か?」
福山は思い出した。
……そう!



       ★★★



麻里は部屋の中で浅子のベランダを眺めていた。
明かりは灯っていない。
物干し竿が常夜灯の光に照らされている。
麻里は福山に電話していた。
……その人、田畑くんの……。
……ああ、あるだろうな……。
麻里は携帯を片手に小声で話していた。
どうすればいいんだ?
麻里は浅子の挑発の前に、恐くなっていた。
……また、電話していい?
……まてよ、俺かよ?!
すると、麻里は「うん……」と一言。やや、甘ったるい声だ。
こういう、追い詰められた気分の時、何故か福山に電話をしてしまう。
つまり、高志に直接電話するきっかけがなかった。
一旦気分が高まると、かえってどうしたらいいのかわからなくなる。
……つまり、小寺は田畑のことがアレなんだろう?
……アレって?
麻里は不機嫌になっていた。
……田畑の電話番号くらい自分で聞けよ。
……ううん、知ってる。
……えっ?
たしかにそうだ。
麻里は「わかった」と一言言って、電話をきった。
しばらくして、玄関のベルが鳴った。
見ると、しおんが立っている。
「どうしたの?」
デジカメの袋の中に学生証がはさまっていたという。
「……ヤバい」
麻里は持っていた財布を点検した。
幸い落とし物はなかった。
「よかった、ありがとう」
しおんは、小さく頷くと、マンションの奥の部屋に興味しんしんである。
「……どういう話をするかな?」
「えっ?」
「彼と」
麻里は天井を見た。
急に考えても思い付くもんでなし。
エッチな話?
麻里はポツリと言った。
「こっちからきりだせる?」
しおんは恥ずかしそうに笑っている。
「……ムリ」
変な女だって思われるし。
しおんは言った、
「……思われてもいいって開き直るとか?」
「……それは」
麻里は赤くなる。
「……私、岡倉先生と一緒に……」
しおんは、小さな声で囁いた。
ふいに、麻里は仰天した。
「……嘘っ!」
すると、彼女は白い歯を見せて笑っている。
「いいじゃん」
「いつ?」
今年の春かな。
ほら、私来年は比良に戻るでしょう?
そしたらもう会えないと思って……。
好きだったから、彼の自宅に押しかけたの。
「顔に似合わず積極的な……」
しおんは笑っている。
彼女は眼鏡をずりあげた。
どちらかと言うと、清楚ないでたちの彼女がそこまで積極的とは……。
「男子は大抵、逆を想像するわけですよ」
しおんはさりげなく言う。
麻里は浅子を思い出していた。
あの猥雑な雰囲気、そして対照的なしおんの清楚な仕草。
「キスの話してた私、バカみたいじゃない?」
すると、しおんは首をふった。
「……経験ある人がいいじゃん」
極めて現実的だった。
しばらくして、また携帯が鳴った。
福山からである。
メールである。
「……何?」
しおんはすり寄ってきた。
麻里はメールを見て、「伝言だって、田畑に」。
……自分で連絡すればいいのに……!
麻里は言った。
だからね……、としおん。
「……意味深じゃない?」
と、しおんが言う。
「え?」
「お膳立てでしょう?」
口実ができるわけでしょう?
内容は秋のコンテストの写真のこととなっている。
「……来週の水曜日の午後5時、学校の講堂で待ち合わせか?」
しおんはメールを読み上げた。
彼女は一人で頷きながら、福山くんっていい人すぎるわよね……。
麻里は途中で意味を悟った。
「いや、アイツは智恵がいるから」
「……取り敢えず、電話してみたら?」
しおんは言った。
ふいに、小さなくぐもった音がした。
雷の音。
しおんは眉をひそめた。
「……雨ですか?」




   ★雨上がりの夜空に★





しおんは夜空を眺めていた。
「さしたる雨でもなし……」
麻里は顔色がいくぶんすぐれない。
「写真のデータ、保存しといたから……」
と、しおんは言った。
比良の実家にメモリーを送っている。
彼女はデジカメを麻里に渡した。
「今度は奥飛騨の生態系の調査……かな?」
また、しおんは赤くなっていた。
「……今夜、行きなよ……」
彼女は言った。
「……行きたいんだけど」
「……恐い?」
麻里は頷く。
「……じき、雨やむよ?」
と、しおん。
そこまで言うと、彼女は変える支度を始めた。
「……田畑くん今、実家かな?」
ふいに、しおんが言った。
麻里はふと、ピアノのことを思い出した。
「ううん、違うから」
「わかるの?」
すると、麻里は頷く。
やがて、雨はあがって星が見えはじめた。
しおんは一人、帰っていった。

        ★

麻里は自転車に乗って学校に向かっていた。
街路樹を抜けると学校の裏にでる。
そこから、門をくぐると講堂に出た。
草いきれの中で耳をすました。
ピアノの音がしていた。
パスピエが流れていた。
乾いた音が、まるで白日夢を見ているような感覚に導いてゆく。
麻里は不思議と落ち着いていた。
少し胸をおさえる。
やがて、からだの中がほてっているのがわかる。
心臓が熱く脈をうち、彼女の下半身がジンとしはじめた。
麻里は小さく走る。
そして裏口から講堂に入っていった。
高志は思っていたところにいた。
彼は黙ったまんま頷く。
まるで、私が今晩、来ることを予知していたかのように。
グランドピアノに近づく頃、高志はパスピエを引き終えた。
麻里は彼に、何も言わずに口づけをした。
高志はすぐに察していた。
そして少し震える。
彼が立ち上がる。
その弾みで、楽譜が床に散らばった。
麻里は彼に肩ごと抱きすくめられた。
ふいに、体が震えた。
講堂には小さな照明だけ。
香水の匂いが彼の胸元から漂っていた。
それは、蒸気のように熱くなったかと思うと、麻里は震え始めた。


       ★

二人は夜の街をしばらくさまようように歩いていた。
『うちに行こう』
田畑高志の実家は郊外にあった。
部屋のなかは閑散としていた。
2階の彼の部屋に入る時、麻里は他に家族の人はいないのか、尋ねた。
「……病院にいるんだ」
高志は言った。
「……いつも一人なの?」
麻里は言う。
「そう。エンテツが言ってなかった?」
「ううん。何も」
「どうしてあそこにいることがわかったの?」
高志は言った。
「カンよ」
ふいに、麻里は浅子がくれたレシートのことを思い出した。
「ほんとは……電話するつもりだった」
彼女は言った。
「エンテツにもらった……?」
高志は怪訝な顔をした。
麻里は首をふった。
「浅子さん」
高志は眉をひそめた。
そして、固くなる。
麻里は思いきってレシートを彼に見せた。
高志はそれを見て、
「……まさか……?」
「だから浅子さん」
少し麻里は高志を睨み付ける。
高志は「えっ」と、声をあげた。
「……どういうこと?」
高志は戸惑う。
麻里は高志の股間を蹴り上げてやりたい気分になっていた。
麻里ははっきりと言った。
「高志くんを奪ってみなって、浅子さんがこれを……」
       ★
彼は心の中で舌打ちをしていた。
恋愛中毒……。
浅子さんとの関係、どうしたらいいのやら……。
たぶん彼女はかつてつきあっていた彼氏と同様のことを、自分にやらかしている……わけだ。
高志は心の中で納得していた。
……どうやったら、俺を嫌いになれるか、浅子さんはもがいてるのだろう。
彼は麻里を見る。
彼女はあかくなり、俯く。
かすかに石鹸の香りがした。
そして震えていた。
このではぐらかしたりすれば、彼女は惨めになるだろう。
それくらい残酷なことはあるまい。
捨てられた仔猫ほど哀れなものはないのだ。
浅子との関係をどうしていくか?
ふと、パーカーを着て、空を見ていた彼女の横顔を思い出した。
未来を夢想するような横顔。
あんな愛らしい彼女を見たのは初めてだった。
裸でたわむれているとき、貪欲に彼を求めてくる彼女。
それが淫蕩であればあるほど、彼女が見せた純真な愛らしさは高志の情欲を急き立てくる。
浅子が欲しい。
彼女の総てがほしい。
離したくない。
哀しみとか切なさがこらえきれない時、浅子は必ず毒をはく。
それは彼女が彼に甘ったれて口にする毒なのだろう。
俺のこと好きだったんだろう?
ならば、何で泣かないんだよ!
病院のテラスで、泣きじゃくりながら、別れたくないって叫べばよかったのに。
カッコつけてんじゃネーヨ。バカ!
      ★
ふと、暖かい呼吸がカレを包み込む。
麻里の小さな胸がかすかに動いていた。
出し抜けにパンっと、音がした。
鈍い痛みが股間から伝わってくる。
「うっ!」
「浮気者っ!私のこと好きって言ったじゃない!」
麻里の瞳は怒っていた。
「痛い……」
高志は声を震わせた。
麻里は慌てていた。
「……痛かった?」
高志は泣きそうになるのを堪えて頷く。
「ごめん」
高志は首をふる。
「いや。許さないっ」
「あの人のこと好き?」
「嫌いだ、嫌いに決まってるだろ!」
麻里は首をふった。
「ううん、嘘よ」
高志は冷や汗をかいていた。
麻里が平手で叩いたので、ものすごく痛かったのだ。
「いや、キライだ」
「嘘よ」
麻里はちゃっかり、高志の体にくっついてきている。
柔らかい胸の感触がした。
「浅子さんのこと好き?」
麻里は高志をじっと見ている。
そして、股間に目をやった。
「痛かった?」
かつての亜麻色の乙女は言った。
「あ、うん」
「そうね」
「これがきみのやり口か?」
麻里は赤くなっている。
「奪えって、浅子さんが言ったもの」
「最低だ」
「そう。最低ね。浅子って女」
「いや……」
「私、あの人の代わりじゃないから」
「わかった」
「私のこと好き?」
「はい」

       ★

しんとした家で二人は来年のことを話していた。
麻里があまりにも直接的にくっついてきたため、高志は愚問に下ったような形だった。
麻里は最初。どう話をきりだしていいかわからなかったのだ。
ところが、彼を見たとたんに手が出たという。
高志の息を感じた。
麻里は彼の腕に頬を寄せた。
そして目を閉じる。
何かがその奥で振動していた。
鼓動のそのもっと奥のところで。
孤独、悲鳴、哀しみ……。
私は彼を愛せるのだろうか?
時折、彼の抱える闇に恐怖を感じる。
だが、私たちには時間がある。
この闇を退治するための努力も怠らない。
麻里はまた、浅子のことを思い出した。
「……あの人は遊び?」
麻里は自分がゆっくりと高志の体の中に沈みこんでいくのを感じていた。
「……いや、それでなくても浅子……」
「イヤ……ごめんなさい。その名前、聞きたくない」
麻里は高志にキスしていた。ごめんね。もうあんなことしないから。私のことだけ見ててね。
そして高志の唇をふさぐ。
「……あの人のことは話さないで」
高志は頷く。
麻里は高志に口づけをした。
彼は体を麻里に預けた。
彼の体は麻里にはまだ、重かった。
……お、重い。
情けなくなる。
高志は仕打ちした。
麻里は高志が圧倒的な男であることをハッキリ悟った。
「いいよ」
彼は麻里の肩に手を回す。
真理は素直に彼に体をあずけた。
高志はキスをした。
唇に、首筋に。
さらに鎖骨に唇を這わせる。
彼女は彼の肩に手を回し、抱きしめようとした。
ぎこちない彼女の体の動きを察して、高志の手が麻里の胸元に入っていく。
一瞬、あっ、と小さな胸が声をあげた。
やがて、彼は旺盛な欲望を麻里の胸のなかでちらつかせる。
麻里は目を閉じた。
高志の唇がツンとなった彼女の先の部分に這ってくる。
麻里はまた、恐くなる。
そして腰を動かした。
麻里は天上を見ていた。
高志は麻里のスキニージーンズのジッパーをおろした。
「……灯り、暗くして」
麻里は小声で言った。
「わかってる」
彼は照明を暗くした。
その行為が始まろうとする中で、彼は麻里をじらそうとしている。
……これが男か……。
ぼんやりとした頭のなかで、チリチリとした感覚がもう少し向こうにある。
麻里は服を脱ごうと思ったが、やめた。
彼が醒めるのは嫌だ。
もっと服は考えておかねばならない。
これは教訓だ。
男性はまったくはじめてではなかったが。
何度か子供じみた行為は経験していた。
彼は麻里の着ているパーカーのボタンを外し始めた。
やがてチュニックのシャツの上から彼は麻里の胸に手をやる。
麻里は少し震え、くすぐったくなる。
麻里の皮膚全体が締まり、そこがじんわりと硬くなっていった。
しかし麻里は絶妙に演技する。
……羞恥と好奇心。
麻里はそこからどうすればいいのか、わからなかった。
やがて、躊躇する彼女をよそに、高志は麻里のスリップをまさぐり始めた。
胸のまわりを愛撫する。
次第に麻里は彼が欲しくなっていく。
高志は察したのか、じぶんのジーンズを外した。
麻里は赤くなる。
そのくせ、手でそれをなぞっていた。
そして、また、キスをする。
二人は暖かい息を吐き出す。
おへそのしたがほてっていく。
やがて三角の下着の中に高志の中指が入ってくる。
男性にそこを触れられたのは生まれて初めてだった。
彼の中指は、彼女の陰毛の中からゆっくりと下に入っていく。
やがて、麻里の蕾の部分にそっと触れた。
高志は彼女の下に着ているものをすべて脱がせた。
そして、自らも。
弱い照明が姿見ごしに二人をうつしていた。
彼女の陰毛……。
彼の睾丸がおしりの間でゆれていた。
麻里はずっとそれを眺めていた。
彼の指が麻里の蕾に触れる。
すーっと中指が軽く動く。
硬くなっていた麻里のそれを彼は中指で優しく愛撫する。
そして二人は唇を重ね合わせる。
麻里はもう一度、彼を求めた。


       ★


高志の旺盛な欲望はせっかちに彼女を求めていた。
彼の指が彼女の中に入ってくる。
柔らかい弾力が彼の指を包む。
彼女は彼を見た。
「上も脱いだほうがいい?」
「……待って」
麻里は唇に手をやった。
高志の細い指が麻里の胸をまた愛撫する。

何度かの感触で彼のその部分が彼女に馴染んでいくのがわかった。

彼女の胸のあたりが赤く染まっている。
彼をすべて自分のものにしたかった。
その欲求は昂る。
そして昂れば昂るほど、体が巧く動かなかった。
相手にはとっくにお見通しなのはわかっていた。
麻里はただ、彼に抱かれているだけで『新しい恋人』になっていた。
何度も繋がっては、彼は離れていく。
それを繰り返しているうちに、彼女は体がほてっていくのがわかった。
途中、高志は果てた。
高志は麻里にまたキスをする。
彼は麻里の胸に顔を埋める。
指先が片方の胸の先をまさぐっている。
彼は息が荒い。
彼のその部分は果てても硬くなっていた。
「……私のことだけ考えて」
麻里は言った。
「うん」
高志は麻里の乳房の中で荒い息をしながら頷いていた。
そして、二人はまた、もつれ合い始めた。

麻里ははじめて一晩中、男性と過ごした。
彼女はおもった……。
浅子が見たら笑うだろうか?
いや、違う。
笑いはしないだろう。
浅子は彼を嫌ってはいない。
わかるのだ。
あの人は放り出したのだ。
やがて彼女はまた放り出した高志を取り戻しに来る。
「ねえ……」
高志がすっかり萎えてしまったとき、麻里は囁く。
「何?」
「……あの人のこと、忘れて」
高志はギクリとなる。
「遊びだって……」
麻里はここまで口にして言葉を止めた。
やけになった彼女から高志を手にいれることは簡単だろうか?
麻里は彼の胸にしがみつく。
かつて憧れた浅子を麻里は疎んじた。
……死ねばいいのよ。
ふと、そんな冗談が口から出そうになる。

浅子さんと会わないで欲しい。


       ★


裏口入学みたいだ。
すべては浅子のお膳立てでできたことだ。
浅子は……奪えと、麻里を叱責した。
麻里はいつのまにか、また彼と繋がっていた。
麻里はしばらく高志の腕の中でまどろんだ。
そして薄く影を投じている月を見た。
いろんなことでアタマは一杯だった。
ただ、後悔はなかった。
「私、来年はフィアット乗ってるかもね?」
ふいに、麻里が下着を脱ぎ散らしたテーブルにレシートを見つけた。
「どういうこと?」
しおんの冗談を麻里の思い出していた。





   ★海中の黄金★





黒川紀代は日本では知られていないが、ヨーロッパでは有名な実業家だという。
以前、彼女の名前は父から聞いて知っていたが、まだ子供の頃ではっきりとイメージできなかった。
しかし、ヨーロッパの財界の持つ意味がおぼろげながら彼にも解るようになってきてから、彼は手探りではあるが黒川紀代のスケールの大きさを感じれるようになってきた。

彼女(黒川)はもともと生家が静岡で、先祖を辿ると……徳川家の家臣だったという。
「ずいぶん、難しい話になるけど……」
久美は続けた。
明治の初め、旗本は一斉に職を失った。
徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いの後、勝海舟にすすめで静岡に移った。
この時、勝は徳川慶喜と口論になったという。
明治以後、勝海舟はそれを悩んだ。
海舟は明治維新で、坂本龍馬を仲介として薩摩と長州と繋がっていたという説があるが……。
実際には新政府軍と勝海舟の対立を避けるために、龍馬は命を落としたと考えられている。
また、生き長らえたという話も残っている。


       ★


明治期の初頭……日本は幕府の経済破綻によって極度のインフレが続いていた。
勝海舟はそれを見越して、幕府の旗本、御家人衆のエクゾダス(脱出)を決行したのだ。

……静岡一帯は『茶』をつくるのに最適な地質だから……。

勝海舟はそれを見越して、当時の江戸(東京)にいた旗本たちに声をかけた。そして、殖産を始めたという。
そしてはるかに時代をへた平成に黒川は抹茶をベルギーで流行らせた。
これ以降、彼女は海外との取引をメインにしていたのだ。

       ★

福山は嵐山の大きな鉄筋の建物の前でクルマを降りた。
中から紫色に髪を染めた80代くらいの女性が現れた。
福山はすぐに気がついた。
彼はアタマを下げ、今回のことの礼を述べた。
家に入ると、玄関は吹き抜けになっており、花と観葉植物がところ狭しと並べられている。
ふいに、福山は倉木しおんのことを思い出した。
「……お父様とは違うタイプね」
紀代は会話の途中、言った。
ふいに、福山司郎は黒川紀代をまじまじと見ていた。
「貴方のお父様には今から20年くらい前にお世話になったの」
黒川紀代はソファーの後ろにあるパギラの鉢植えに目をやって言った。
彼の父、福山正武はノルウェーと取引があった。
そのつてを通して、黒川紀代の『お茶』をベルギーに売り込んだのである。
これには後日談がある。
昭和の終わりの年から彼女のビジネスは順調にすすんだ。
そして、さらなる幸運が舞い込む。
1992年、9月16日。
突如、英国ポンドが大暴落した。
世界の通貨危機の始まりである。
この年の夏、彼女はウィーンに滞在していた。
彼女はオランダのアムステルダムにある管弦楽団…コンセルトヘボウ…管弦楽団に毎年寄付をしていた関係で……南ドイツの音楽祭に招待されていたのである。


おきまりのワーグナーが演奏された。
ところが、空調がなく暑かったという。
勿論、みんな真面目に聴いているものはいない。
途中で演奏会を切り上げて、みなで食事に出掛けた。
その時に『ポンド暴落』の噂を聞いたのである。
そういって彼女は少し唇を曲げた。
アムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団のパーティーの席で、オーケストラ報報道官やマネージングスタッフと話していた時、話はかなり信憑性を帯びていることがわかった。
……ミセス・クロカワ、いい話があります。
ニューヨークの『クォーツファンド』がポンド売りのポジションを積み上げていた。
彼女はヨーロッパに滞在している間にロンドンマーケットの株式を買い込んだ。
その年の秋、ポンド暴落は現実のものとなった。
世に言う『ブラック・ウェンズデー』である。
基本、通貨の暴落は株式の上昇のシグナルだ。

ここで彼女は巨額の資産を得た。

「世界は面白いわよ。そして広いわ」
そこまで話すと、紀代は笑顔になっていた。
……お父様とうまくいってないんでしょ?
紀代は軽く言った。
……そうね?会社って色々とあるから。
彼女は微笑んでいた。
不思議な瞬間だった。
「はい」
「……誰でもみんな何かしら抱えているものよ……」

彼女はそういうと、また、ヨーロッパの話を始めた。

オランダのクラシック界は第二次世界大戦の後、内部分裂を起こしている。
この渦中にあったのが『ローマの休日』で一躍、スターダムにのしあがった、オードリー・ヘプバーンだ。
戦後、モダンバレエが勃興するも、スポンサーはつかない。
彼女は仕方なくイギリスに渡り、『ブロマイド』の撮影のモデルになる。
黒川紀代はこの話が好きで、ウィーンの学芸員と親交を暖めていた。
「このときに聞いた話がある……」
彼女が言うには、日本海にUボートが沈んでいるらしい。
船内にハブスブルグ家の『コイン』があったという。
「コイン?」
「そう。コインの価値は一般的に知られてないけど。オークションでこの水準だと途方もない値段がつくわけ」
彼女は笑った。

黒川紀代は『金』が何故、世界の通過の基軸になっているかを語った。
金の埋蔵量は基本的に増えることがないとされている。
絵画もそのため、希少価値が高い。
ゴッホの『ひまわり』は無尽蔵に存在することはない。
そのため、投資の対象となる。
コインも絶対数は減らない。
古代ローマの銀貨はすでに絶対数が決まっているからだという。

紀代はそこまで話すと少しくたびれたのか、
「私、冷え性で……和邇浜の先生にいただいたあれ、持ってきてもらえない?」
彼女は少し席を外した。
「すぐに戻るわ」
黒川紀代は佐山恭輔に飲み物を持ってくるように言った。


       ★


その日、夜更けまで紀代は福山たちを相手に話を続けた。
帰りがけに秘書の佐山恭輔は名刺をくれた。
「お父様のことはしばらく忘れた方がいいわ。何、4年もあれば忘れるものよ」
別れ際に黒川紀代はそう言った。
タクシーの中で名刺を見ていると、ふいに裏側に何か書いてあるのに気づいた。

『来年、あなたが来るのを楽しみにしてます』

福山はぼんやりとした光の中でそれを見た。
タクシーは三条通りを東に走っていく。
「……どうしたの?」
叔母の久美が福山司郎に言った。
「不思議な人だった……」
彼は呟く。
「そうね。私も最初に会ったときはそう感じた……」
西本願寺の灯りが見えるあたりで京都タワーが見えた。
「明日はどうするの?」
久美は言った。
「何も考えてない」
「そうか……」
彼女は福山の横顔を見ていた。



       ★



彼はホテルの部屋で佐山氏からもらった名刺を手にしていた。
ふいに携帯がなった。
見ると高志からだった。
……話、どうだった?
「……何か起こりそうな……そんな気分だったな」
福山は言った。
田畑は話の内容を聞いた。
が、情報がはるか彼方にあるようでわからなかった……と、福山は正直に言った。
しかし、自分はこっちに来るつもりだ、と、彼は付け加えた。
「名刺までもらったんだ」
……よかったな……。
田畑は言った。
雰囲気が何か違うと思い、彼は「何かあったのか?」と問うた。
……いや。
福山はふと、浅子のことを思い出した。
何度か話を聞いたことがある。
あまり個人的なことなので、深追いはしないでいたが……。
「……あの臨床検査科の人のことか?」
彼は顔も知らなかった。
……まいったな、違うんだ。
ぼんやりと麻里の顔がアタマに浮かんだ。
「……誰なんだ」
とまで口にして、福山は黙りこんだ。
嫉妬と羨望が入り交じった感情がわきたった。
……小寺麻里?
「お前、小寺と何かあったのか?」
福山は一言。
……いや、なにも。言伝てが彼女からあって……。
「うん?」
……来年、探検部に所属することに決めたって。
「……入部か?」
……うん。そうつたえてくれって。
「お礼。言っといてくれ」
……わかった。
電話はそこで切れた。
日曜日の雑踏、福山司郎はコンビニへ通じる道をただひたすら進んでいた。
高志への羨望を抑えきれなかった。
だが、たらたらとそんなことを考えていたら、自分が惨めになるだけだ。
彼は考えるのをやめることにした。

君の進むさきに道はなく、君の後ろに道は出来る。

高村光太郎の詩を口ずさむ。
ふいに、黒川紀代の姿を思い浮かべた。
彼女は福山に一冊の本を渡していた。
昭和時代の書籍である。
昭和25年の書籍である。

『失われた金貨』

倉木源三という名前が赤茶けた書籍の表紙に印刷されていた。
彼は本をめくってみた。
「……倉木?」
でどころは黒川会長の蔵書である。
福山は著書の奥付けを見た。
……倉木源三……、旧帝国大学出身。物理学者……。



   ★★★



麻里の試験は今月の21日のことだった。
すでに担任の岡倉先生から受験票やその他の注意事項を聞かされた。
麻里は案外、普段と変わらず真面目に勉強をしていたし、試験前といってとりたてて焦ることはない。
岡倉は胸を撫で下ろしているもようだ。
「……まあ、心配することは無いさ。もし、大学でもう少し上を狙いたければ、大学院の学士編入だってある」
生徒の個人的な学力の限界というものがあって……。
高校三年生の段階で、国立大を狙うには中学の成績のレベルで基礎的な学力が決まる。
ところが、私学の大学の場合、科目数も少ないことから中堅の大学の理系はわりと入りやすい。

麻里の父の真一はその事も見越して奈良の私学の推薦入学を彼女に勧めたのだ。

模試の成績も彼女の場合、志望校を狙うには丁度よかった。

麻里は面接が終わると、岡倉先生に福山司郎の志望校のことを尋ねた。
彼は一応、教師としての立場上、それは言えないといっていたが、福山の個人的な事情もあって彼は大阪の国公立を目指している…百姓とまで教えてくれた。
「……探検部……あっちで続けるみたいだ」
岡倉は嬉しそうな顔でいる。


       ★



田畑高志はベッドのなかで、麻里を優しく扱ってくれた。
男が果てたあと、急に仰向けに寝転がる。
芥川龍之介の小説で彼女は読んだことがあった。
男性にしてみれば、射精してから後、だるく、なにもする気がしない。 
その時に、さりげなく彼はキスをしてくれた。
そして抱き締めてくれる。
彼女が(浅子)が彼にそう教えたのだろうか?
キスで救われる。
最初は私のこと、気を使ってくれているのだ……。単純に思った。
何度も愛撫しあい、繋がる度に、彼に対して愛情が深まっていった。
放したくない。
朝を夢想しつつ、麻里は彼の一部に思わず手を出した。
また、熱く硬くなってゆく、その部分。
自分を大切にしてくれる。
麻里はそれがいとおしくてならなかった。
福山の後ろ姿にも、彼女はそれとよく似た感情を抱いている。 
表現のかたちこそ、違え。彼はそうだった。

智恵の彼氏……福山司郎の後ろ姿に麻里は独特の易しさを感じていた。
福山の背中を見ていると…男は彼は……麻里のことを大切に思っていてくれるのがわかった。
田畑高志と福山司郎……。
麻里は田畑を選んだ。

高志……!

私だけのことを見ていて欲しい。
私は貴方の特別な女でありたい。

麻里はいつもそう願う。


本当に好きになったら、本当にお互いが好きだったら、たとえ傷つけあっても、より深く愛し合えるだろう。
好きだ、愛してる……。
そわんな言葉でいつも確認しあってるのは、不安だからだ。

あの夏の光のなかで、高志は笑っていた。
自転車の鍵につけた鈴の音が甦ってくる。

麻里は瞳を閉じた。


   
   ★★★★




麻里は試験の準備を終えて、早朝に床につく。

どうだったんだろう?

麻里は試験の前日、父と母の過ごした日々のことを考えていた。
やがて、床のなかでうとうとしていたが、携帯の着信に気がついた。
「……!」
麻里は高志かと思った。
胸が高鳴る。
見るとしおんからだった。
「……はい?」
……差し入れ持ってきた。
「今、どこ?」
ふいにチャイムが鳴った。
「もう来てるわけ?」
麻里はドアをチェーンを外した。
「あたりー!」
しおんがショッピングバッグを差し出す。
「どうせ今から頑張っても明日の試験に影響はないでしょう!」
なるほど、それは言える。「どうぞ」と麻里は彼女を招き入れる。しおんは「これね」と言って差し入れを麻里に渡した。
中には『倉木商店』という荒いフォントのロゴみたいなのがプリントされた紙袋が入っていた。
よく見ると、ロゴの下にsince 1939という数字がみえた。
多分、西暦だろう。 
かなり古い店だ。

ドアを開くと肌寒い外気が入ってくる。
霧がかかっているのだ。
しおんが部屋のなかに入ってくる。
「あっ」
と、しおんが声をあげた。
眼鏡が曇っていた。
麻里は寝間着にしていたジャージの匂いに気づいた。
つまり、男の匂い…?
ヤバい。
「ちょっと着替えてくるから」
麻里は洗濯機のあるユニットで替えのジャージーに着替えた。
なんという敏感さだろう……。
麻里がLDKに戻るとしおんがぼんやりと突っ立っている。
顔が赤くなっていた。
「私、思うんだけど。芳香剤、おいておいたほうがいいね」
「……はい」
子犬のように鼻をくんくんさせている。「バレバレよ」と、歌うように呟いた。
「……彼の匂い」
「ちょっと、やめてよ」
しおんはニヤニヤしている。
「あの夜、二人の関係は進み……」
「やめろ、しおんっ!明日は試験……なの」
「ねぇ、浅子さんは?」
「いない、外を見たらわかるでしょ?」
しおんはベランダの外を見た。
「ホント、フィアットないね」
紙袋からクラブサンドを出してくる。
「あの人、お金持ってそうだから…、ねぇ?」
眼鏡の奥で彼女は意味ありげに笑っている。
「何?」
「ついでに卒業したら浅子さんにあのクルマも譲ってもらえばいいんじゃないかな?」
「……バカな」
しおんは高校最後の冬休み……滋賀に帰省するという。
12月のクリスマスには雪が降り始める。
比良のスキー場で実家の手伝いをする予定だ。
「で、貴女は今年のクリスマスは高志くんと二人というわけですか?」
「……えっ?」
赤くなる。
「浅子さんなんでも譲ってくれるね?」
しおんは顔に似合わず毒がある。
「違う!断じて。あの時、私おしかけたし」
彼女はクラスの中では地味で目立たない存在だったが、麻里の見る限り、猫をかぶっているのだ。岡倉先生と進んでいるのだろうか?
「そして、押し倒す?」
しおんはクラブサンドをパクつきながら言った。
よく、食欲がある子は男好きだと言うが。
「……それ、私に差し入れじゃなかったの?」
彼女はクラスの「まだたくさんあるから」と言った。
麻里は毒気抜かれた。
「からかってゴメン」
髪をかきあげて、コーラを飲んだ。
そして、小さな声で「よかったね」と言った。
「私のとこに福山くんから電話があって……来年から部に入らないかって?」
麻里は驚いた。
「あいつ何考えてるんだか……」
麻里は黒川紀代会長の話をしおんにした。
「あの方有名な人らしいよ」
「だから、エンテツが言ってたんでしょう?」
しおんは「違うって」と一言。
妙に真面目な顔になる。
「法人を立ち上げようとしてるらしいよ」
……福山くんそれに立ち合うみたいな……。

たしかに、来年は新しい展開になりそうだった。
福山は何をしようとしているのか…。






    ★『恋の嵐』★





雑踏を福山は見渡していた。
あの人から電話があった……。

板崎浅子……。

京都から帰ってきたのが午後1時。
新幹線の中で、昨日の晩にメールが入っていたのに気づいたのだ。

田畑高志の彼女だ。
司郎はその程度のことは知っている。
ただ、アドレスを交換した記憶はなかった。
しかし、男性としての好奇心がまさった。

彼は新幹線から降りたあと、彼女にメールした。

……今、帰ってきたところです。お会いできます。

すると、浅子から突然メールしたことの詫びと、時間はあいているかという内容が返ってきた。
福山はすぐに彼女に電話した。

『急に電話してすみません』
向こう側で浅子の声がした。
落ち着いた声。
「い、いえ。田畑の?」
『そ、そうです』
田畑がぞっこんな浅子とはどれだけ美人なのか?
「駅前の本屋で待ち合わせしませんか?」
福山は移動までの時間をざっと見積もって言った。
『はい』
浅子は事務的にこたえた。
福山は電話をきったあと、やや妄想する。
そして高志に嫉妬した。
彼自身は智恵や麻里の前で男子を演じていたわけであって、実際の男としての彼はご多分にもれず貪欲だ。
ただ、怖いのが先に立つだけ。


       ★



時折、彼の父のことを思う。
地域の有力者である彼の父は、同時に女性関係も放埒だった。
福山司郎は子供の頃、それを呪った。
いや、子供は圧倒的に人間の狡さを知らない。
福山少年は、ことあるごとに外部の人間から『父の女性関係』にかんする噂を聞かされた。

父のエクステリア事業は大手のクライアントとの繋がりがあり順調だった。 
だが、社内で親戚筋の役員が彼の父を潰そうと密かに画策しているのを彼は知っていた。 
いつも彼の父は女性関係を噂されている。
彼の叔父方の常務がその悪意の黒幕であることを彼は知っていた。
福山が何故、京都の資産家、黒川紀代女史のもとに赴いたかは、いはば新しい居場所を手にいれるためなのだ。

彼がまだ、高校三年生で独居生活を余儀なくされているのは、せちがらい権力闘争の餌食にならないように……という父の思慮が働いている。

京都で静かに暮らす叔母の久美のもとを彼が訪ねたのも、寂しさの埋め合わせが欲しかったからだ。

福山は早めに到着すると、参考書をパラパラめくっていた。
淡い香水の匂いがした。
彼のとなりに、紺色のスーツにギャザーのスカートをした女性がサイエンスという雑誌を手に立っている。
「……あの、福山くん?」
白い歯が印象的だった。
「……はい、あの?」
「私です」
浅子は笑顔だった。
福山は一瞬、彼女にある種の敬意を抱いていた。
胸元のネックレスが似合っていた。
「板崎浅子さん?」
彼女は頷いた。
福山は高志と浅子の情事のことを少しは聞かされていた。
彼女もそのことは百も承知だろう。
それでも、何も悪びれることもなく、清楚に振る舞っている彼女……。
ストイックなグレーのスーツの下に着たアイボリーのブラウスにわずかに透けて見える黒いスリップ。
福山は少し赤くなった。
高志が夢中になるのは当たり前だろう。
浅子はそんな福山をまえにして、笑顔を崩さない。
もし、智恵が福山の抱く妄想に気づけば、彼女はすぐに嫌な顔をするだろう。
麻里は冗談でかわそうとするだろう。
しかし、浅子はたしかに違った。
彼女は福山が抱く妄想の類いに、常に肯定的だった。
「……出よう?」
浅子は弟にいうように彼に言った。
福山は浅子に見透かされているのはわかっていた。
少し浅子は赤くなっている。
真珠のようなピンクの口紅が可愛らしく光っている。
彼女は福山の手にしていた紙袋を手にして、先に立つ。
「……着いたばかりなのね?」
浅子は微笑んでいた。
「はい」
「この先にビアホールがあるから、付き合ってくれる?」
「……あっ、はい!」
男がいつも異性にたいして抱いてしまう、妄想……のことだ。
「お酒はダメだから……未成年でしょ?」
「ええ」
浅子の下半身はしなやかに動いていた。
「ジンジャーエールにします」
「……そうね、その方がいいわ。未成年だもの」
途中、浅子は何かを言おうとしたが、可笑しそうに口元をおさえてククッと笑った。
「何を笑ってるんですか?」
「いえ、何にも」
浅子の瞳は、彼のそういう類いの欲情を軽く受けとり、まるでそれが当たり前のことのように受け流している。
「さぁさ、行こう!」
浅子は先に立って歩き始めた。
はるかに大人だった。
二人はカウンターにむかった。
「……面白い本を読んでるのね?」
……ローマの貨幣……という表題の本を福山が手にしているのを見て、浅子は好奇心を抱いているみたいだ。
恥ずかしくもあった。
「わかりますか?」
「んーと、わかるかも知れない、わからないかもしれない」
浅子は言った。
「これ、俺的には最高なんですよ」
「ホント?」
「はい」
「時間とらせてごめんね、少し愚痴を言いたくて……」
福山は笑っていた。
「愚痴……ですか?」
「ありがとう、少し話したくて」
浅子は少し涙をこらえているみたいだ。
「いいんです」
……好い人だな。と福山は思った。
「あいつのことでしょ?」
浅子は赤くなる、
「そ、そう」
浅子は福山に高志のことをたずねた。
「今、どうしてるか……ですか?」
福山は怪訝な顔をした。
福山は田畑にかなり嫉妬していた。
勿論、麻里のことでだ。
しかし、お門違いなのは確かだ。
「小寺とのこと?」
ふいに、浅子の表情が固まった。
彼女は能面のようになったまま、グラスを片手に頷く。
「……正直に言います。あったと思いますよ」



        ★



福山はかつて、倉木しおんが話していたことを思い出していた。人の心というのはいつも限界がある……。
その限界を通り越して、辛いこと無理強いすると、心が壊れてしまうという。
悲しいことを悲しいと言えなくなっていくのだ。
そしてゆっくりと人は壊れていく。浅子は福山の話をじっと聞いていた。人は光と闇を同時に見ている。
闇が深ければ、さらなる高みをとらえねば、その人は自滅する。
福山は浅子の話を聞いていて、なにげにそんなことを言った。

浅子は皮肉な顔で笑っていた。
「そんな生き方できる?」浅子は言った。
福山は俯き、肩を落とした。
「……とても辛いです」
「貴方はできる?」
福山は少し沈黙した。
浅子の手にしたグラスの中で小さな泡が揺れて舞い上がる。
「……少なくともボクはしなきゃなんないって思ってます」
「そう?」
彼女は顎に手をやり、少し思案した。
「更なる高みって、辛くない?」
「辛いてす」
「アタマが痛くなるんてすが。そのために京都まで行ってきたんです」
浅子は首をかしげた。

        ★

推薦試験は10月の終わり、名古屋の私立大学で行われた。
英語と数学、化学がメインの試験で、終了の翌日、面接が行われた。
午前中は二科目。
英語のテストは自信があった。
試験が終わったあと、彼女はトイレに行った。
試験会場の中日大学のキャンパスは静かだった。
経営学部の校舎の2階で彼女は試験を受けていた。
トイレから帰る途中、同学年の紀和山太(きわやまふとし)の後ろ姿が見えた。
「……紀和山くん?」 
「あれ、小寺?」
「きみもここ受けてるんだ?」
彼は恥ずかしそうに笑った。
「俺さ、のんびりしたくて……」
麻里はクスッと笑った。
「そうね。浪人はイヤだし、かといって一流メザシテルわけじゃないし……」
紀和山はハンカチで眼鏡をふきながら、
「三科目だからね」
二人は小声で笑った。
「……じゃ」
紀和山は手を上げて、教室の中に消えた。


       ★


午後の科目は午前中の数学より上手くいったと麻里は思った。
試験が終わったのは午後4時のこと。
麻里は、終わり次第、江坂にいる父の新一に電話した、
「……あ、父さん?私」
『試験、だな?』
「……手応えあったし」
『そうか。安心した』
「……嬉しい?」
『……なんか麻里とどうでもいいこと、話したいな……』
「……やだ、何の話よ」
『ホント、どうでもいい話』
「……明日は午後から面接なんだ」
『……面接は大丈夫だろう』
電話の向こうでのんびりとした声が聞こえる。
「そう願いたいわ」
麻里は笑った。
『冬休みはこっちに来るだろう?』
新一は言った。
少し、麻里は口ごもった。
「……うーん、高校最後の冬休みだから……」
麻里のアタマの中は高志とのことでイッパイだった。
ややあって新一は『そうだな……』と言う。
何か察したようである。
麻里は黙りこんだ。
『ともかく、義兄さんとは関わらないようにな』
「あれから、何か進捗あったの?」
『静美がマンションの登記簿を彼に渡したみたいなんだ』
「……バカな」
麻里は唇をかんだ。
『……今度は智恵が大変なことになる。俺には手が打てないんだ』
「学校のこともあるから?」
『……うん』
麻里は少し考える。
おもったとおりだ。
ふいに、福山のことを思い出した。
「今年の冬休み、私、そっちに行くから」
『……助かる。静美はともかく、智恵まで巻き込まれそうだ』
麻里は電話を切った。
ふと、見ると午前中に会った、紀和山が大学の正門から出てきた。
彼は麻里を見つけると、にっこり笑って手をあげた。
「……試験、どうだった?」
彼は屈託ない表情で彼女に言った。
「……うん」
麻里は頷く。
二人は駅まで歩く。 
途中、紀和山は福山司郎の話をした。
「今週末にコンクールがあるの知ってるよね?」
……高志が出る高校最後のコンクールだ。
麻里は少しドキッとした。
「……うん。福山くん今年も会場にいくみたいで、水曜日にミーティングかな?」
「あっ、そういえば小寺さん彼の部に……?」
「うん」
「……福山って結構考えてること面白そうでサ」
紀和山太は言った。
彼はクラスではそれほど目立たない存在だった。 
一年生の頃は陸上部にいたが、二年になってやめたらしい。
「……俺さ、取り柄ってなくて」
二人で駅の待合室で話していた。
麻里は紀和山の横顔を見る。
彼は悲しいほど透き通ってみえた。
麻里にとって、彼の一言は興味深く聞こえた。
誰だって『取り柄』は欲しい。
ところが、平気で「取り柄がない」って言える、紀和山太……。
「取り柄がない?」
麻里は向かい側のホームを眺めながら、呟く。
本人の口からそう言われると、みもふたもない。
「あのさ、今年で探検部って終わりなんだよね?」
紀和山は尋ねた。
「それがさ……」
麻里は腕を組む。
一瞬、紀和山は眩しそうに彼女を見た。
麻里はなんとなくそのことを意識していた。
アタマの中で田畑高志のことがよぎった。

       ★★★

翌日の面接は午後から行われた。
三十分ほど志望理由とか卒業したらどう言った方面に就職したいか、さらに大学の教育理念の話を聞かされ、面接は滞りなく終わった。
彼女は途中、ルノワールという喫茶店に入り、ホットドッグを注文した。
試験がすべて終了した後、やることはなかった。
他の学校への受験は極力控えている。
岡倉先生には内申書を三通ほど書いてもらっていたが、あくまでも不合格の時だけ。
他の大学の願書提出よりも早く結果は彼女に伝えられることになっている。
麻里はあまり人気のないこの喫茶店でぼけっとして時間を過ごした。







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