花ざかりの校庭 『夜の歌』
浅子は麻里を前にして毒気が抜かれた。
麻里は赤くなってるのだ。
「……高志のこと好きなんでしょ?」
浅子はまっすぐ麻里を見ていた。
ふいに、麻里は……ある真実を悟った。
浅子は彼のことを愛しているのだ。
そんな……。
残酷すぎる。
「……あ、あの」
麻里は泣きそうになった。
浅子は困ったような顔になった。
彼女はゆっくりと首を傾げる。
その時、麻里の認識している世界はゆっくりと変貌していった。
はりつめた彼女の世界は、大翔の一角にヒビが入る。
ふと、そのヒビのむこうを覗いてみると、別の世界がどうやら広がっているのだ。
「やだな……まだ、ねんねの子を相手にして、私ったら嫉妬しちゃてるの……」
ジッポーを取り出した。
微かにオイルの臭いが漂う。
煙草に火をつけて髪の毛を整えた。
「私、やっちゃったよ」
浅子はフォルクスのベンチに腰かけた。
さらに何か言おうとしたが、麻里を見てためらった。
……麻里は心の奥で熱いものがこみ上げてくるのがわかった。
「……いつからですか?」
「今年の2月かな?」
「本気なんですか?高志くんとのこと?」
浅子はジッポーをカチカチさせながら、
「ううん、遊び」
麻里は憤慨した「遊びってなんですかっ!」
浅子は可笑しそうにわらって、
「……勝てっこないわ、貴女に」
「……どうしてなんですか!」
浅子は可笑しそうに笑っていた、
「……だって、最初で最後のヤツ奪ってやったんだよ」
「……?恥ずかしくないんですか」
「べつに……」
浅子はタバコを片手に何やら書いていた。
「……ホレ、これ」
浅子はコンビニのレシートを渡した。
裏側に携帯の番号が書いてあった。
ご丁寧なことに番号の横に『田畑高志』の名前まで添えてある。
まるで果たし状のような紙切れである。
麻里は憤慨した。
浅子はタバコを灰皿に押し付けると、
「……悔しかったら、奪いなさい」
「なんですって!」
「キスして、愛してますなんて、あまっちょろい。私から奪いなさい!好きだったら、人から奪うもんでしょう!」
「浅子さんなんか大嫌い」
「奪いなさい」
「やめてっ」
麻里はその言葉を残して、その場を去った。
麻里は何か得体の知れない嫌悪と愛情が入り交じった何かがざわめいていた。
その凄まじいエネルギーが、体液のように体から噴出する感覚がほとばしる。
麻里は途中で、アレックスサンジェを電柱にぶつけそうになった。
クソッ!
麻里はしりもちをついた。
ジャージーについた泥を払いながら、振り向く。
……おのれッ!
ヤツはフォルクスの前で不敵に麻里を見ていた。
「浅子のバカ野郎っ!」
麻里は声も高らかにその女を罵倒した。
★
夜半、麻里はの棲んでいるマンションに帰ろうとする。
自己嫌悪が始まった。
田畑高志と浅子……。
厄介なことを聞いてしまった。
しかも……彼女は昼間、手にした紙切れを見る。
どうすればいいのさ?
このまま、田畑に電話して?
見ると、学校の前の石畳の道に倉木しおんが帆布の鞄を肩にかけて突っ立っていた。
彼女は、ニコリと笑って手を振る。
「顔色、すぐれないね?」
麻里は頷いた。
そして、胸を撫で下ろす。
迂闊に人には言えない。
浅子の挑発。
麻里の頭のなかは、浅子に言われた一言でいっぱいになってる。
……奪いなさいよ……。
普段、麻里はあらゆる問題を自分で解決法できるものだと思い込んでいた。
ところが、相手が悪かった。
いきなり高志との関係で、ハンディを突きつけてきたのだ。
まるでチェスゲームみたいに。
「……どうしたの?」
倉木しおんは近視が入った眼鏡をずりあげた。
そして、麻里が手にしていたレシートの裏側をじっと見ていた。
「……ゲッ」
彼女は唇を歪めた。
これは、田畑くんの番号かな?
しおんは目を細めていた。
麻里は黙ったまま頷く。
空が淡いオレンジに染まり、風にのッた雲が流れる。
「もう、秋だね……」
倉木しおんはレシートを手にしたまま、感慨深げに呟いた。
……これ、彼にもらったの?
そこまで言って、赤く俯く「お泊まり……とか?」と呟いた。
「……違う」
「……そ、そうだね。少し早いよね展開が」
「早すぎるし」
倉木しおんは首をかしげる。
「まさか、田畑が襲ってきた?」
麻里はその方が好都合だとも思った。
彼女は違う……と、舌打ちした。
バーキンの人……と言った。
しおんは首を傾げていたが、やがて「あの人?」と大声をあげた。
「しおん、声、大きすぎっ!」
ショッピングバッグを手にした親子連れが、二人を見ていた。
「あ、ゴメン」またやってしまった。と、しおん。
しおんはツータックの眼鏡をずりあげ、模擬試験を受けているような顔つきでレシートを見ていた。
「……バーキンがくれたの?」
麻里は頷いた。
「……あり得ない……」
しおんは悩ましげな顔つきだ。
彼女は空を仰いで「三角関係みたいな……?」。
「うん」
麻里は頷く。
「……バーキンに勝てっこないよ」
これって、凄い自信あるからでしょ?
「……なんかそれだけじゃないみたいで……」
「どういうこと?」
……私から奪ってみなって……あの女…。
えっ、しおんは唸る。
「……やれるものなら。みたいな?」
麻里は頷く。
「……つまり、田畑ってバーキンがありながら、小寺に?」
いや、そこがわからない。
「……二股でしょうが」としおん。
ふいに、麻里は口にした、
「あの女、許さない……ぶんどってやるよ」
浅子の彼だから自分は好きになったのかも知れない。
「……え?」としおん。
「もう一度……いってやるわ」
……あの女、許さない……。
しおんはまた、首を捻るのである。
やがて、麻里はバス通りの雑踏の中で蘇生していた。
「……許さないの?」
と、しおん。
麻里はふりかえり、頷く。
「うん」
普段から人の良し悪しを云いたがらない親友……小寺麻里……のこんなに感情的な面を見たことがなかった。
しおんは麻里を見ている、
「……どうするわけ?これ」
と、レシートを見せる。
その電話番号。
しおんは言った。
睡眠薬入りのサンドイッチを彼にあげて、眠らせて引きづりこむとか?
冗談でしょ?
冗談よ。
問題は……、
つまり、レシートの裏の電話番号のことだ。
「……なんとかなるよ」
そう開き直る。
彼女はデジカメをしおんに渡した。
テプラで『倉木』と印刷したシールが貼ってある。
しおんはそれを帆布の鞄にしまいこみ、丁寧に礼を告げる。
★夜の歌★
福山司郎は阪急の駅を降りると、雑居ビルの前に立っていた。
ビルのエレベーターから四十くらいの女性が降りてきた。
「……司郎ちゃん、今日は私、早引けするから向かいの店で待ってて……慣れないところに来てもらって……今日は何処に泊まるの?」
福山司郎は頭を下げると、「……黒川さんにホテルまで予約してもらってて」
「……そう」
渡部久美は笑顔で頷いた……。
黒川紀代きよのことを紹介してくれたのは彼女だった。
「……うちに泊まっていってもよかったんだけどね。秀雄、楽しみにしてるみたいだから」
少し、独特の翳りがあり、福山はそれを介しないよう接していた。それがわかっているのか、彼女はことさら明るくふるまった。逆にそのことが福山を辛い気持ちにさせる。
「……秀雄、元気にしてますか?」
すると彼女は頷く。もう元気すぎるくらい。
「……来年は中学生やから。でも、寂しいのかな?いつも一人だから。私も仕事がなかったら話し相手になってやれるんだけど……」
ふいに携帯が鳴った。
「……あ、専務……今、甥っ子が来たみたいで……はい、すぐ戻ります……」
苦笑する。
「なんせ、小さな会社だから、忙しくてね」
久美が笑顔をつくった。
「すぐだから、今日は半ドン」
福山は……半ドン……という昭和の言葉に、妙に気が和んでいた。
★
午後の3時過ぎ、福山は渡部久美の自宅に行った。
太秦天神川沿いに北に上がったところで、途中、双葉総合病院を越えたあたり。
船岡山が見える。
久美はシビックを運転しながら、ロッド・スチュアートの『セイリング』を流していた。
夕方になると四条は混むわよ……。
久美はくすりと笑う。
「まあ、土日だもんね」
と、司郎。
「……滋賀からたくさん遊びに来るの、みんな」
「滋賀?」
「ホラ、大津や草津って遊び場ないでしょ?若いひとの」
つまり、繁華街のことだ。
「だから、週末は滋賀ナンバーのクルマが越境してくるわけよ。インクラインの方から……」
「へえ」
「……専務が冗談半分に『シガサク』のゲジゲジナンバーって言うの」
彼女は笑った。
久美は今年で三十八になるが、あどけない表情をしていた。
お嬢さん育ちのためだろう。
彼女が前の夫の浮気に耐えきれず、離婚したとき、先の会社の社長が仕事を斡旋してくれたのだ。
司郎の父との商売の関係もあり、社長の縄城純一は快く引き受けてくれた。
端から見ると久美はおっとりしすぎており、普通の会社に就職しても、うまくいかないだろう。
この際、司郎の父に恩を売る形で、彼女を経理部に入れることにしたのだ。
「京都は週末が混むからねェ。早い目に黒川会長のところに行った方がいいわ。迷惑かけちゃダメだから」
久美は笑う。
頬に小さなえくぼができた。
「わかった」
「でも司郎ちゃん、高校生になると大人ねぇ」
★
路地裏で見る空は青かった。
軒先にジュウシマツが入った鳥かごが吊るしてあった。
久美は、チッ、チッ、チッっと、口を鳴らした。
籠の中でジュウシマツが久美に向かって、鳴き声を返す。
「……可愛いでしょう」
福山は頷いた。
「ねえ、どうせなら大学卒業したら、黒川会長のところに就職しなさいよ」
「……うん、そんなこと一人で考えてた」
「せっかくのつてだからね」
「そうだね。普通に就職しても、コネがなくちゃうまくいかないし」
「わかってるじゃん」
「今の状況だと、お兄さんの跡継ぎは前途多難よ」
久美は言った。
いはゆる内輪揉めである。
会社の常務筋が後がまを狙っていた。
司郎がほぼ一人で生活しているのは、常務を避けるためである。
元々、会社設立から携わっていた常務、小林芳太郎は裏で暴力団との関係がささやかれていた。
そのため、司郎の父は小林と接点を持たせないよう計らっていたのである。
★
「ねえ、前言ってた麻里ちゃんって付き合ってるの?」
司郎は皮肉な顔をした「いや、ふられたみたいな」
「ほんと?」
久美はショッピングバッグから夕食の食材を出して、冷蔵庫にしまっていた。
「まあ、大学行ったら誰かいるわよ」
ふいに携帯が鳴っていた。
久美は「……でないの?」と、福山司郎にたずねた。
「……後でするよ」
と、福山。
見ると、麻里からだった。
久美は着信の表示を見て、「麻里ちゃんじゃない?」
嬉しそうな顔。
「違うよ、部のことだと思う。副部長」
「へえ、そうなんだ。じゃ、見込みあるかもよ?」
しばらくすると、秀雄が帰ってきた。
「……久しぶり、秀雄……」
「あ、シロちゃん」
福山は苦笑した。
「こっちに来年来るんでしょ?」
「まあな」
「ここに住みなよ」
「それはどうかな?」
司郎は秀雄の遊び相手を始めた。
ゲームに夢中らしく、二人して対戦を始めた。
夕食の準備をしながら、さりげなくさっきの『麻里』について彼に聞いてみた。
「麻里ちゃんって……誘ってみたらいいじゃん」
脈ありとみたか、久美は冗談半分に言った。
彼は首をふる。
「いや、違うんだ、……妹とつきあってる……」
久美は可笑しくなった。
「へぇ、デートしたの?妹さんと……光源氏みたいじゃん」
デートして、とっちめられたとか?
と、久美は茶化す。
「まさか……テーマパークに行っただけだった」
「……妹って、同じ名古屋の子?」
「うん」
「でも、こっちの学校に進学するんなら、遠距離恋愛じゃない?」
久美は言った。
「……そうかな?」
「来年の春には色々と変わるね」
確かに、大学……というのは、巨大なコミュニティだ。
そこに所属しているというだけで、いろんな人間関係ができる。
「……そういえば、昔は遠距離恋愛は必死だったもんね……」
★
やがて夕食が終わると、福山は携帯を開いた。
たしかに、麻里からだった。
……どうした?
福山は久美に断って、2階の部屋で電話した。
……エンテツ、どこ行ってるの?
「……京都。黒川紀代さんに会いに来てるの……。小寺も来ればよかったのに」
……あっ、そうだった……。
麻里は完全に忘れている。
しばらくして、彼女が……浅子さんって知ってる?と言い出した。
福山は、しばらく首をかしげていた。
「……あさこさん?」
……田畑と親しくしている女の人で……。
ふいに、福山は記憶を辿った。
印象的な女性の顔を思い出した。
「……フィアットに乗ってるあの人か?」
福山は思い出した。
……そう!