雨降る正午、風吹けば 雑感(ネタバレ含む)

『雨降る正午、風吹けば』あまりに良い舞台だったので、全人類に見てほしい。

あらすじ

公式ページの動画を見てください。
ダメですか、そうですか。
舞台は昭和初期。第二次大戦が始まる少し前。
作家、坂本治郎が『死して、尚、遺る物』を見つけるための物語。

雑感(ネタバレ含む)


そもそも、自分の趣味嗜好として、『人の生き死』の物語って結構好きで、とりわけ、『死にたい側にいる主人公』が大好きです。なんといいますか、『生きたい』と思ってる人間、夢や希望に溢れた人間、『光』の側にいる人間ってとてもフィクションな感じがして、『死ねないから生きている』人間の方がリアルに感じるんです。
『◯◯になりたい』なんて言っていた人間も、なれなかったからといってそのまま絶望して死んでいくわけじゃなくて、どこかで整理して、諦めて、折り合いをつけて生きていく。だから、坂本治郎は特別な人間じゃなくて、上手に整理ができなかった人間なんだろう、たぶん。

幼き日に我儘によって母を殺したという罪に苛まれる治郎。治郎にとって、母の亡霊は治郎の罪の象徴。その一方で、治郎にとって母は標でもある。母に幼き日に言われた「死した、尚、生きる物」を探す治郎。おそらく、母の遺した言葉だから、母のように生きればその答えが見つかるのだろうと考えて作家になったのだろう。そして、作家になっても母の言葉がわからなかった治郎は今度、親の真似事でもすれば母の言葉がわかるかなとでも考えて、風子を拾ったのでしょう。でも、治郎は風子に干渉するつもりはなかった。本当に身の回りの世話をする家政婦くらいに考えていた。風子に伝えた『強い風のように季節を知らせ、温もりも冷たさも全てを知っている人間になりなさい』ってのは『一人でも生きていける人間になりなさい』ってことかな。最期に「人の和の中で幸せになりなさい」と遺す訳だけど。こういう風に治郎を変えていったのは、風子との生活の影響。風子が治郎に「おはよう」と声をかけた春、あの時から、治郎と風子の親子関係が始まる。
罪の記録である『雨降る正午』が、風子と生活するうちに『風子の成長記録』になるんだから、読者としてはたまったもんじゃないでしょう。親バカ、ここに極まれり。

生きるという業。生きねばという呪い。
死して何も残らぬのが怖いという。
俺は死して何かが残るのが恐ろしい。
その残った何かは、残された者に俺を刻みつけ、悲しみを植え付ける。
であれば、死と共にその痕跡の全てをこの世から消してほしい。などと考えるが、その悲しみもいずれ何かに上書きされ、俺という存在は完全に姿を消す。
そうか、何かを残したとて、消滅する方法はあるのか。
というか、まず、「俺が死んだら誰かが悲しむ」などと考えることが傲慢か。
「親より1日でも長く生きる」という親孝行を果たした後、俺の周りに人はいないのだから。

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