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「わからない」は「わかりたくない」ぼくがnoteを書く理由

「わからない」時の多くは「わかりたくない」ときであることが多い。

大学受験の時ひたすら解き続けた黄色いチャート式の数学の問題集。何周やっても同じ問題を間違える。その時気付いたのは「俺はこの考えをわかりたくないんだなと」ということ。

一切の自分の考えを捨てて解き方を読む。すると全く違うルートの思考が開ける。

他人と揉める時、いつもこのイメージを思い出す。一旦何もかも捨てて相手の話に乗っかってみる。すると、相手の新しい考えが入ってくる。

もちろん、自分の信じてることを一旦捨ててるわけだから、結構メンタル的にはヘビーなことですが。でも、これをやめちゃいけない気がしてる。歳をとると自分の考えが仕上がってくるような錯覚に陥ることが多いけれども、人の話がいつまでも聞こえる人でいたいものだ。

信じているものを手放すということはほんとうに難しいこと。例えば、ちっちゃい頃からスパルタで訓練されまくってきた演奏家は、絶対音が体に入ってることが多い。でもそれは、現代の音律(平均律)の絶対音。違う音律の音楽を受け入れるダメージは信じてる分だけ大きい。

もしかしたら、僕のような音楽教育をちゃんと受けてない人間はその分、何かを信じてるわけではないですから、いろんな音楽をフラットに受け入れやすいのかも知れない。僕が書きたいのは人の考えを受け入れる教育としての音楽論なのかも知れない。

そういうことをひたすら書こうと取り組み始めた僕のノート。よかったら読んでってください。

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