見出し画像

死者が蘇る世界で、恋焦がれる少女は想いを暴走させる。戦慄の百合ホラー、柴田勝家「love letter from deadland」全文無料公開


作品紹介

こんにちは、ジャンプJブックス編集部・ジャンプホラー小説大賞宣伝隊長のミニキャッパー周平と申します。

Jブックスの主催するジャンプホラー小説大賞では、若い読者に届く清新なホラー作品を募集しています(第6回〆切は2020年6月30日)。これまでにも、ホラー作家の方へのインタビュー企画「プロに聞く! ホラー作家になるためのQ&A」や、ホラー小説紹介コーナー「ミニキャッパー周平の百物語」を掲載してきました。

そして2020年は、第一線で活躍する作家の方々に、ホラー短篇をご執筆頂く企画をスタートさせます!

企画の第1弾としてご登場いただいたのは、SF作家・柴田勝家先生です。ご依頼したテーマは「百合ホラー」。「死者が復活する」世界で、クラスメートに片思いする少女に訪れた転機と決断。異形の世界と暴走する想いの結末に、ぜひ震えてください。扉イラストを描いて下さったのは気鋭の漫画家・いとう階先生です。

画像1

著者プロフィール

柴田勝家(しばた・かついえ)……戦国武将・柴田勝家を敬愛するSF作家。1987年東京都生まれ。成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻博士課程前期修了。2014年、『ニルヤの島』で第2回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞しデビュー。著書に、『クロニスタ 戦争人類学者』『ヒト夜の永い夢』(以上、ハヤカワ文庫JA)、《ワールド・インシュランス》シリーズ(星海社FICTIONS)、《心霊科学捜査官》シリーズ(講談社タイガ)がある。2018年、「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」で第49回星雲賞日本短編部門受賞。SFマガジン2019年2月号の「百合特集」では『コミック百合姫』編集長インタビューのインタビュアーを務めた。ホラー作品では『ナイトランド・クォータリーvol.11 憑霊の館』収録「邪義の壁」を発表している。


柴田勝家「love letter from deadland」


 屍体時計が断末魔で十二時を告げる。
 駅前公園に作られた新名所だが、屍体工学が普及した昨今ではさして目新しいものでもない。文字盤に磔にされた屍体はウィトルウィウス的人体図の模倣で、それが一時間ごとに体を折り曲げて時間を表現する。もちろん、今はてっぺんで腰から二つ折り。
 ぽとん、と時計から血が一滴垂れる。受け皿となっている噴水から赤い飛沫。それを合図に血柱が一斉に噴き上がる。噴水ショーに合わせて奏でられるのは屍体楽器による終末音楽だ。
「もう! 待ち合わせに遅れるなんて、恋人としての自覚が足りないぞ」
 血の雨に制服を濡らしながら、姫川ココロが大袈裟に叫ぶ。その視線の先には一人の少女がいる。
「服なんて気にしなくていいってばぁ。わたしは詩子(うたこ)に一秒でも早く会いたいんだって!」
 ギャギャ、と屍体時計の針が進む音。折り畳まれた屍体楽器は肺を膨らませてアコーディオンの音色。ついにココロは待ちきれなくなり、少女に向かってまっしぐら。ぬかるんだ血溜まりを踏み散らかして、愛しい彼女のもとへ駆けつける。
「詩子! 会いたかったよ!」
 ココロは少女の体に飛びつく。そして、周囲に転がった屍体に見せつけるように熱烈なキスを一つ。


「死んだ人が蘇るんだって」
 同級生のそんな言葉が聞こえてきた。
 休み時間、姫川ココロが自分の席で寝たふりをしている時だった。すぐ後ろの教室の隅で、さして仲良くない女子グループがスマホを片手におしゃべり中。
「アメリカのニュースだってさ。銃で撃たれた人が起き上がったんだって。映像もあるらしいよ」
 ゾンビ映画じゃん、と誰かが一言。ココロの感想を代弁してくれた。
「笑えるよね、あとは棺桶から飛び出てきた人とかいるらしいよ」
 なんとも馬鹿げた話題で、その女子グループはきゃあきゃあと騒いでいる。興味がないわけでもないけれど、わざわざ話しかけに行くほどではない。
 ここで予鈴が鳴った。
 ココロが体を起こして物理基礎の教科書を取り出せば、騒がしい女子グループも自分の席に戻っていく。
 つまらないな、と心の中で呟く。
 何もかもが停滞している。教室にのっそりと入ってきた先生も、やる気のないお辞儀も、パラパラとめくられる教科書の紙の音も。どれもこれも緩やかで、回転が止まる間際のコマみたいに思える。
 ああ、世界は止まっているんだ。そんな感想。
 教室の窓から外を眺めれば、青い空をカラスが飛んでいくし、校庭では上級生が億劫そうに体育の授業を受けている。六月の風に木々は揺れるし、わざと落としたシャーペンは床を転がっていく。
 それでも、ココロの世界は静止している。
 高校生活が始まってから、むしろもっと前から、ココロは世界に何何一つ期待を抱いていない。特に人に語れるような深い理由があるわけでもなく「なんとなく、つまらない」という感覚がある。虚無虚無、それが口癖。
 そんな一瞬、一人の少女が視界に入った。
 授業中に、先生からの質問に元気よく手をあげる彼女。薄い栗色の長髪が揺れて、甘いシャンプーの匂いが、斜め後ろに座るココロにまで届く。
「熱は、分子の運動量です」
 そう答えた彼女の柔らかそうな肩。力をかければグシャグシャに潰れてしまいそうな細い腰。薄っすらと汗ばんだ耳。
「また熱は、熱いものから冷たいものへ移動します。激しく運動するものは、静かなものに触れると熱が奪われます。これが熱平衡です」
 その答えをココロは陶酔するように聞いていた。
 静止したココロの世界の中で、彼女だけが動きを持っている。何もかも冷たく止まった世界で、彼女は活発に動き、そこに熱を与えてくれる。
 これは熱平衡なんだ、とココロは思った。
 自分のような冷血人間が彼女に触れるたびに、彼女の熱を奪っていく。だって、ずっと頬が熱いのだから。
 ――大好き。
 それが彼女の背を見つめている時のココロの感情。
 どうして好きになったのか、理由をつけようと思えば無限に出てくる。顔が良いとか、体のラインが好みだとか。それから声が可愛いところも、自信満々なところも。
「ありがとう、もういいですよ。小波さん」
 先生からの一言に、彼女は小さく頭を下げて席につく。
 やがて終業のチャイム。忙しなく椅子から立ち上がったクラスメイトは、それぞれ馴染みの友人とおしゃべり。さっきの女子グループだって、相変わらず磁石を近づけた砂鉄みたいに集まっていく。
 ふと、その瞬間に光が差し込む。
「コロちゃん!」
 物理的なものでなく、精神的な光だ。
 椅子に収まったままのココロの前に彼女が立つ。血管だって透けて見えそうな頬は淡赤に、長いまつ毛に隠された瞳も輝いて。見咎められない程度の化粧に、ハンドクリームの爽やかな匂い。
「お話しようよ、コロちゃん」
 おちゃらけた男子が窓を開け、校庭の誰かに呼びかける。吹き込んできた風に彼女の髪が揺れる。光の粒子が彼女から飛び散って、ココロの視界を満たしていく。
「詩子ちゃん」
 小波詩子の熱がココロに伝わっていく。


「午後の授業、だるいよね」
 そう言って彼女はトマトジュースをすすっていた。ココロは弁当をもちゃもちゃと食べながら、いくらか裾の乱れた彼女のスカートに視線を落とす。大股で歩きすぎだ。
「そういえば、浅井知ってる? 男子の方の。告られちゃった」
 あいにくとココロは男子の方の浅井を知らないし、なんなら女子の方も知らない。
「詩子ちゃん、モテるよね」
「モテたくない人にはねぇ」
 詩子はうんざりするように耳元の髪の毛を弄る。
 きっと彼女は何度も男子から――もしかすると女子にも――愛の告白を受けたのだろう。なにしろ単純に美人なのと、男女問わずフランクに接するものだから、誰だって勘違いしてしまう。
 なら私は? と、ココロが毎度のごとく自問する。でも、その答えもいつも同じ。
「コロちゃんにモテるのは嬉しいんだけどさぁ」
 彼女はココロのことを好きでいてくれる。他の友人とは違うという優越感。自分は彼女から選ばれたのだから。
 たとえ、そこに理由があったとしても。
「あっ、コロちゃん。見て、生田君。二階の廊下通った」
 なんとも目ざとく、詩子が一人の男子の姿を指さす。校舎二階の廊下、音楽室に向かう男子の集団がいた。
「生田君、カッコいいよね」
 ココロは頷くこともせず、曖昧に首を動かして白米を飲み込む。彼女の言葉には、なんでも同意したくなるけど、彼のことについては別だ。
 生田渚。彼の華奢な後ろ姿を目で追った。
 幼稚園の頃からの幼馴染。家族ぐるみの付き合いで、今だって兄弟のような関係だ、恋心が芽生えることもない。それこそ永遠に。
「生田君、食べ物は何が好きなのかな?」
 彼女が思いつめたように呟く。世界の終末が発表されたとしても、これほどの表情はできないはずだ。
「唐揚げ……」
 そう答えてから、ココロは咄嗟に口をつぐむ。誤魔化すように自分の弁当箱に入っていた唐揚げをつまみ上げる。
「おいしい」
 一応、彼のことはほとんど知っている。
 中学時代の吹奏楽部での成績も、その頃に好きだった女子の名前も、ノートの隅に描いていた漫画のタイトルも、ホタルイカが嫌いなことも。しかし、それを彼女の前でひけらかしたくない。変に嫉妬されてしまいたくないから。
 ココロは知っている。
 彼女が自分をそばに置いてくれるのは、彼の幼馴染だからだ。彼女にとっての目的地は彼であって、ココロはそこに到るための切符に過ぎない。きっと旅が終われば、捨てられてしまう。
「詩子ちゃんは、渚のこと好きなんだよね」
「大好き! 大好きの一千倍くらい好き!」
 ココロの左手を掴んでブンブンと振り回し、彼女がきゃあきゃあと騒ぎ始める。生田渚がいかにカッコいいのか、どれほど優しいのか、他の馬鹿な男子とは違う、知的で、クールで。
 ココロにとっては聞きたくもない褒め言葉の総決算だ。しかも週に三度は開催される。
「コロちゃん!」
 ここで彼女がココロの左手を引き寄せ、自身の胸に押し当ててくる。ごわごわした制服の布の感触と柔らかさ、熱さ、心臓の鼓動。
「私、決めたよ。生田君にラブレターを送る!」
 ついに来たか、とココロは観念した。しかも、いきなり告白に乗り出すのではなく、いたって古風な方法で愛を伝えるつもりらしい。
 ただし、その次の一言は予想外だった。
「ねね、コロちゃん。それでさ、コロちゃんから手紙、渡してくれないかな?」
「わたし、が?」
 ココロが目を白黒させ、彼女の顔を真正面から見据える。
「そうなの。お願い、お願い!」
 そこに彼女なりの作戦があるらしい。つまり、まず送り主の名前を伝えずに手紙を先に渡し、反応が良かったら面と向かって告白、かんばしくなければ時期を待つ、とのこと。
「詩子ちゃん、頭いいねぇ」
「でしょお」
 そうして予鈴が鳴り響く中、ケラケラと二人で笑い合う。

 それから三日後。
 彼女は練りに練ったラブレターを完成させ、それをココロに託した。夕暮れの教室で二人きり。秘密を共有。
「それじゃ、コロちゃん軍曹! 任務をお願いします!」
「らじゃ!」
 ネコが描かれた可愛らしい手紙。ココロがそれをスクールバッグにしまうのを見届けてから、彼女は一足先に帰っていく。後は任せたとばかりに力強く手を振って。
 それが、生きている彼女を見た最後だった。

 小波詩子が死んだ。
 ココロが登校した時、同級生がそんな噂をしていた。最初は嫉妬からくるイヤな冗談だと思っていたそれは、担任の先生の沈んだ表情を見た時に間違いだと悟った。
「先週末、小波さんが事故に遭いました」
 朝のホームルームで告げられた、そんな冷たい言葉。
「明後日に告別式があるそうです。身内だけの式だそうですが、小波さんと仲の良かった方はお別れをしにいって下さい」
 信じられない、信じたくない。
 先生の言葉を聞くほどに舌が乾く。受け入れがたい現実を、ココロは少しずつ取り込もうとする。魚の骨と内臓だけを集めて、それをスプーンですくって無理矢理に口の中に放り込まれるような、そんな苦しさ。
 ああ、きっと本当なのだ。彼女は死んだ。死んでしまった。

 ココロの記憶の中、細切れの映像が浮かんでは消えていく。クラスの代表で参加した彼女の告別式。クリーム色の式場は花で一杯。制服姿のココロを一瞥する参列者たち。祭壇の写真は笑顔の彼女。ショパンの葬送行進曲に混じるすすり泣きの声。
 そして真っ白な棺。
「詩子」
 そこで、ついにココロも泣き出した。
「どうして死んじゃったの」
 ココロは棺にすがりつき、その顔を一目見ようとして上部の小窓に手を伸ばす。その暴挙を止めたのは彼女の母親らしき人物で、優しい手付きでココロの肩を掴んでくる。
「顔は、見ないであげて。直して貰ったけど、あの子も見せたくはないと思うから」
 母親からの言葉に、ああ、とココロは納得と悲嘆が入り混じった声を出す。
 きっと彼女は酷い事故に遭ったのだ。すらりと伸びた脚も折れ曲がり、長くて細い指も千切れただろう。肌は破れて脂に濡れ、甘い香りのする髪の毛は血糊で固まった。何よりあの綺麗な顔が、もうこの世に存在しない。
 ココロは彼女の顔が好きだった。性格なんて二の次で、まずあの顔に憧れた。最初に話しかけたのは、彼女の顔がココロの好きなアイドルに似ていたから。そんな不純な理由だったけれど、仲良くなってからはそのアイドル以上に好きな顔になった。
「詩子ぉ、大好きだよぉ」
 何度だって思い出せる、何度だって泣きそうになる光景。

 そして、ココロは火葬場で彼女と再会を果たす。
 何もかもが暑い日で、地面も、火葬炉も、全部がキラキラと太陽を反射していた。蝉が鳴いて、黒い蝶が飛ぶ。真っ青な空には雲が一つ二つ。そこに煙がゆらゆらと混じっていく。
 彼女は、人生で一番熱い場所にいるんだ。
 ココロは熱をくれた彼女のことを思う。でもその熱も消え去って、最後は決して動かない冷たい場所に行く。
 思い切り息を吸い込む。煙になった彼女の粒子を、一つでも多く取り込みたかった。
 やがて愛しい煙が途絶えた頃、彼女の親族がぞろぞろと控え室から出てきた。ココロの姿を見つけた彼女の母親が、小さく手招きしてくれる。
「姫川さん、一緒に骨を拾ってくれる?」
 そうして彼女の母親に導かれ、ココロは拾骨室へ向かう。
 真っ白な部屋の中、鉄板に乗せられた彼女と対面する。それは彼女の最も奥深くにあるもの。清らかな制服の下、柔らかな肌の下、淫らな肉の下に秘められていた、白く硬い彼女の残滓。
 そして、人々が箸を使って彼女を拾い上げている時、ふとココロの視界に入るものがあった。
 彼女の骨の左側、左手と思しき箇所が目の前にある。ボロボロになってはいるが、その骨片の一部が何よりも輝いている。照明の反射だろうが、ココロにとっては奇跡のように思えた。
 あれは彼女の薬指なのだ。
 そう気づいてからは悪魔的な衝動に身を任せる。感極まったふりをして箸を落とし、鉄板にすがりついて泣きわめく。両腕を組んで顔を隠しながら、誰にも見えない角度で彼女の欠片を指先で拾うのだ。
「姫川さん」
 彼女の母親が優しく肩を抱いてくれる。彼女の薬指らしき骨を握りしめながら、これ以上は耐えられないと訴えた。もういいよ、ありがとう。母親からの言葉を引き出して、ココロは拾骨室から逃げ出すように去っていく。
「やった、詩子、やったよ」
 途端に晴れ晴れとした気分となり、ココロは誰もいない火葬場の駐車場でステップを踏んだ。盗み出した骨をつまんで太陽にかざせば、それはダイヤモンドの如くに光り輝いて、どんな素晴らしいものより熱く感じられた。
 彼女はどこにもいなくなってしまったけれど、彼女の薬指は自分のものだ。誰にも渡さない。その死は悲しみだけでなく、愛の形も残してくれたのだ。
 ココロが忍び笑いを漏らす。その薄暗い感情に寄り添うように、夕焼け空の向こうから分厚い雲が近づいてくる。
「詩子、これからも一緒だからね」
 そう叫ぶ彼女の手の中で、白い骨片が小さく震えた。


 ココロが三日ぶりに登校した。
 多くの同級生は、親友を亡くした悲しみから休んでいたと思うだろう。しかし、この三日間はココロにとって幸せな時間だった。
 休んでいる最中、ココロは日がな一日、彼女の薬指の骨を眺めてはほくそ笑み、これまで語れなかった多くのことを語りかけた。一緒にお風呂にも入ったし、好奇心でちょっとだけ舐めてみたりもした。寝る前には遺骨を鼻先に当てて小さくキスをする。
 とても背徳的で、全身の産毛がそそけ立つような満足感を得た三日間だった。
 いっそ永遠に引き篭もってしまっても良かったが、下手に両親を心配させたくない。変に勘ぐられて、小物入れに隠した彼女を見られでもしたら大変だ。
 そうした保身的な理由での登校だった。特に誰かと話す必要もない。もとより話しかけに来る人などいないけれど。
 ココロはぼんやりと窓の外を眺めて、静止した世界に自分を溶かしていく。居心地の悪さはあるけれど、それは以前だって同じだったはず。
 そんな日の昼休み、見知らぬ女子が近寄ってきて、
「姫川さん、生田君が呼んでるよ」
 そう一言、それだけで彼女は関わろうともせずに去っていく。
「渚?」
 教室の外に視線を向ければ、幼馴染が所在なさげに立っている。その姿を苛立たしく思いつつ、ココロはクラスメイトを避けて彼へと近づく。
「ココ、久しぶり」
 教室を出て、廊下の端に寄って二人きり。辺りのざわめきに負けないように、彼は必死に声を張っているようだった。
「そうかな」
 こうして面と向かって会うのは久しぶりだけれど、彼の印象は中学生の頃から変わらない。頼りなくて、おどおどしている男子。詩子はこういうのが好きだというけど、結局は顔だと思う。顔だけは良い。
「何か用?」
 なるべく素っ気ない態度をとる。別に彼自身に恨みはないはずだし、今となっては彼女のために距離をとる必要もない。
 ただ一つ、未だにスクールバッグの中にしまわれたままの存在が重い。まるで彼女の魂が、地の底から引っ張っているかのように。
「ココさ、しばらく学校休んでただろ?」
「今日来てる」
「いや、そうだけど。でもさ、それってさ」
 すん、と彼が鼻から息を吸い込む。ココロの顔に現れた不機嫌な影を感じ取ったのだろう。それでも言うべきことを決めてきたのか、彼は怯むことなく口を開く。
「小波さん、のことだろ」
 彼が詩子のことを口にする。それだけで怒ってしまいそうになるのを堪え、ココロは大きく息を吐いた。
「なんでそういうこと言うかな」
「だってお前、小波さんと仲良かっただろ」
 でも、我慢できたのは三秒くらい。
「うるさいな!」
 突然の大声に時間が止まる。廊下を歩く生徒が足を止め、教室からクラスメイトが心配そうに覗いてくる。それをココロは見て取ったが、だからといって声をひそめることもない。
「渚こそ、どうして詩子のお葬式行かなかったの!」
「そんなこと言われてもさ、俺は別に小波さんと仲良くなかったから」
「信じらんない!」
 ココロにとって彼は許しがたい存在だ。
 彼女の心を奪っておきながら、その死を悲しんでもいない。もちろん、頭の隅っこでは理解している。彼にとって彼女は別のクラスの見知らぬ女子で、どれだけ好意的に捉えても幼馴染の友人程度。
 もっと早く、彼女が自分の気持ちを伝えていたなら。それならば、きっと――。
「あっ」
 そこでココロは一つのことに思い至る。
 とっさに振り返り、教室の自分の席を確かめた。机の横にスクールバッグが下げられている。
 詩子からのラブレター。
 彼への思いを綴った手紙は、今もまだ鞄の中にしまわれたまま。
 もしも、もしも。
 もっと早く、ココロが彼に手紙を渡していたら。そしたら彼は返事を寄越しただろうか。死の運命が変わらないとしても、思いが通じた彼女は幸せなままに死ねただろうか。最悪でも、この幼馴染は彼女の気持ちを知り、その死を悲しんでくれたはず。
「なんで、信じられない、悪いの私だ」
 それに気づいてしまった。
 叫びだしたくなるのを必死に耐えて、溢れてくる涙を何度も拭い、痛くなる喉を押さえつつ幼馴染の横をすり抜ける。
「待ってよ、ココ」
「うるさい!」
 視界の端で彼の手が動いた。ココロは自分の肩を掴もうとする手を払い落とし、脇目も振らずに駆け出した。何度も廊下で人とぶつかりそうになる。背後から聞こえる情けない声は引力だ。それを突破して走る。
「ココ、俺はお前のことが――」
 心配なんだ、って。そのフザケた言葉は耳の裏で響くだけ。

 学校にいたくなかった。
 ココロは何度も涙を拭いながら街を歩き、スマホに溜まっていく着信を無視してきた。夕方になる頃、ようやく気持ちが落ち着いたので自宅へ帰ることにした。
 そして自宅の玄関を開けた時、ココロは心から叫ぶことができた。
 胸の奥から溢れる感情を、そのまま口から吐き出していく。彼女は死んでしまったのに、もう好きな男子に話しかけることもできないのに。自分はその相手に悪態をついてしまって。
 一刻も早く彼女に会いたい。会って謝りたい。
 ココロは大きな音を立てて階段を登っていく。今日はお母さんも仕事だから、怒られるようなこともない。薄暗い廊下を駆け、自室のドアに手をかける。
「えっ」
 最初に違和感。赤い日差しがカーテンの閉められた部屋に染み込んでいる。思わず息を呑む。朝方に見た部屋の様子とまるで違う。
「なんで」
 ベッドの布団は乱れ、ぬいぐるみは床に転がったまま。カーペットにしわが寄り、学習机の上では教科書や化粧道具が散乱している。ここだけ竜巻が起きたかのようだ。
 かさり、とカーテンが揺れる。
 ココロは乱れた息を必死に整えながら、慎重に部屋の中へ。足がすくみそうになる。窓は閉めて出たはず。風もない。それならどうして? カーテンの向こうに泥棒が隠れている?
 一歩、また一歩、靴下越しにカーペットの起伏が伝わる。荒れ具合を確かめるようにココロは部屋を進んでいく。
「誰かいるの」
 カーテンに手をかける。それと同時に何かが床へと落ちる。カラン、と硬質な音。
 それは口紅だ。
 彼女に勧められるままに買って、結局使わなかった真っ赤な口紅。それがキャップも取れて、紅の方が折れて転がっている。彼女との思い出が汚された気がした。その唐突な怒りに身を任せ、ココロは一気にカーテンを開く。
「なんなの」
 夕日が視界いっぱいに広がる。
 眩しさに目を細めながら、そこにある奇妙な模様を追った。直線と曲線が窓ガラスの表面に黒く濃く伸びている。子供の頃、クレヨンで壁に落書きをして怒られた記憶が呼び起こされる。
「コロ、ちゃん」
 ココロが窓ガラスに書かれた模様に指を這わせる。その線の連なりを文字として解読していく。
「てがみ」
 指先に赤い塗料がつく。キラキラと光る粒子は口紅に入っていたラメだ。
「わたして……くれた?」
 そこまで読み上げて、ココロはその場に座り込む。
 血の色をした太陽が、それよりも暗い文字を浮かび上がらせる。それはメッセージで、黄昏の国からのラブレターだ。
 ココロはただ一心に、これを書いた相手の姿を思い描いた。学校で聞いた噂話が脳裏に蘇る。
 ――死んだ人が蘇るんだって。
「詩子!」
 その叫びに応えるように、カーテンレールから何かが落下してくる。それは窓ガラスを傷つけ、耳障りな音を残しながら、新たに赤い筋を一本引く。
 口紅を塗りたくった小さな骨が一つ、ココロの膝の先で転がった。それを聖なる再会と理解し、ココロは薬指の遺骨を拾い上げ、そして口づけを送る。
 ココロの唇に赤い色がつく。
「おかえりなさい」

 その日は世界の全てが静止した日で、ココロにとっては全てが動き始めた日だった。


 死者の復活が始まったのだ。
 ココロは朝食にトーストを食べながら、テレビの向こうで起こっている出来事に意識を向けた。
 昨日の内にネットニュースで見た内容を、ニュース番組が後追いで報じていた。それだけでなく、街中をうろつく死人の映像も流されていた。実際に歩く死者の姿は、ゾンビ映画やハロウィンの仮装よりずっと安っぽい。
 やがて映像はスタジオに戻り、コメンテーターが海外で起きている出来事を冷静に解説しようとする。大規模フラッシュモブだとか、フェイク映像だとか、なんとか。そうやって死者の復活を切り捨てようとするのを、ココロは薄ら笑いを浮かべて見ていた。
「あれってさ、本当なんだよ」
 洗い物をするお母さんの背中に言葉をぶつける。まともな答えが返ってくるはずもなくて「そうなの」と一言だけ。
「死んだ人がね、復活したんだ」
 ココロの言葉を肯定するように、テレビの向こうで一人のコメンテーターが死者の復活を熱心に説いている。その女性芸能人は、身近で死者が蘇る場面を見たという。
 その答えに気を良くしてから、ココロはいつものように通学鞄を取り上げる。ニュース番組の最後で星座占いも確認しておく。さそり座の今日の運勢は二位。ラッキーカラーは黄色だ。
 そうして朝から昼にかけて、世界はゆっくりと変わっていく。
 ココロが教室についた頃には、死者の復活がトレンドワードだったし、実際にペットが蘇ったとうそぶく生徒もいた。正月に祖母を亡くしたという同級生は、その復活を夢見ていた。
「みんな、驚いてるよ」
 そう言って、ココロは胸ポケットを撫でる。その奥で彼女が、小さく震えて返事をくれた。
 昼休みになれば、ココロは誰より早く教室を抜け出して、屋上へ続く階段へ向かう。一番上の踊り場は古い机やらが積み上げられていて、この時間でも人が来ることはない。
「ごめんね詩子、苦しかった?」
 埃の積もった机を綺麗にしてから、そこにハンカチと一枚の紙を広げる。そうして胸ポケットから彼女――大事な遺骨だ――を取り出し、紙の上へと据え置く。お母さんが作ってくれたお弁当を出すのは後回しだ。
「詩子、久しぶりの学校はどう?」
 紙の上で彼女が震える。コロコロと転がり、そこに記された文字をなぞっていく。
 これが彼女とのコミュニケーションの取り方だ。
 いわゆるコックリさんの方法を真似たもので、紙の上には「はい」と「いいえ」の二つ、そして五十音が書かれている。
「あついね、って。そっか、ここ暑いよね。てか死んでも暑いの?」
 骨だけとなった彼女が、文字の上を転がって意思表示をしてくる。それをつぶさに観察し、死者からの言葉を読み解く。
「もっと簡単に喋れればいいんだけどね」
 何気なくココロが放った言葉が、どうにも彼女には不満だったのだろう。紙の上で彼女は弾んでみせ、ココロの額をめがけて飛んでくる。
「あいたっ! もう、ゴメンね。詩子の方が辛いもんね」
 ぽとりと胸元に落ちた彼女を両手で受け止め、再び紙の上へ。転がって示した文字列は「わかればよろしい」だ。
「詩子の体、なくなっちゃったしね」
 彼女の復活は、未だに家族には伝わっていない。きっと薬指以外の彼女は、今も窮屈な骨壷の中で折り重なっているのだろう。できることなら、その苦しみから早く開放してあげたいとココロは思う。
「火葬って不便だよね。詩子以外の人もさ、お墓に収められた骨壷の中でガチャガチャ動いてるんだよ。出してくれー、ってさ」
 彼女からの返答は「かわいそう」とだけ。さすがに、こんな状況は葬儀社の人も想定していないだろう。とはいえ死後の復活を説くキリスト教やイスラムならば早々に受け入れたはずで、最近のニュースが海外発のものばかりなのも当然だ。
「詩子は、お腹とか減らない?」
 その返答は「いいえ」だ。その一方、生者であるココロは空腹に耐えきれず、ここでお弁当を取り出す。彼女と一緒に食べていた頃が懐かしいが、以前も似たようなことはあった。彼女が一週間限りのダイエットに挑戦した時がそれ。
「どうして、こんな世界になっちゃったんだろうね」
 アジフライを食べながら、ココロは彼女が紙の上を這っていくのを眺める。何度も転がって、時に悩むように動きを止める。いつもよりも複雑な文章を作っているようだった。
「しんだひと、の、せかい、がかわった?」
 さらに続けて彼女は丸文字の上を移動していく。
「ちびき、の、いわ、がうごいた。ちびきのいわ、って何?」
 この質問には「わかんない」と返ってくる。彼女の意識がどこにあるのか解らないが、何か死者として見てきたものがあるのかもしれない。
 ここで彼女が抗議するように弾んでみせる。呑気におかずを頬張るココロの前で、白い骨がカツカツと音を立てて文章を作る。それが「なぎさ」の三文字を作った時点で、ココロはどうにも苦いものを感じる。
「それはさ、もうちょっと時間を置いた方がいいっていうか」
 渚へ手紙をいつ渡すのか。あの日、ココロの部屋の窓に口紅でメッセージを描いて以来、彼女はそればかり尋ねてくる。
 ココロは手紙を渡したくないと思っている。
 つい昨日までは、彼女の死を悲しまない幼馴染に手紙を渡し、その気持ちを伝えようと考えていた。しかし、彼女が復活したとなれば話は別だ。たとえ体がなくても彼女はここにいる。彼女の気持ちを知って、あの幼馴染が遺骨を預かるとでも言い出したら。
「やだな」
 想像しただけで厭な気持ちになる。どうにも胸の底がムカムカとする。息苦しさも感じる。苦しい、苦しい。
 ココロは初め、それが気分的なものかと思っていた。しかし、次に箸を持ち上げた時に「違う」と気づいた。
「なにこれ」
 かじり取られたアジフライが蠢いている。断面で白身がウネウネと波打ち、まるで寄生虫に動かされているようだった。
 うっ、と短く呻いてココロが箸を落とす。
 弁当箱の中で食べ物が動いていた。白米や野菜はそのままに、食べかけのアジフライと煮物の鶏肉が揺れている。その共通点を考えた時、ココロの胃袋が大きく収縮した。酸っぱいものがこみ上げてきて、思わず手で口を覆ったけども止められない。口の端から黄色い胃液が溢れ出て、盛大に吐瀉物を撒き散らすことになる。
 喪失感の中、ココロは自身の汚れたセーラー服に手をやる。雨に打たれた時のような小さな感触がある。下を向けば、粉々になった何かが吐瀉物の上をピチャピチャと跳ねていた。
「そっか、食べ物も生き返ったんだ」
 言葉だけが冷静だった。頭の奥が熱くなり、現実感が遠ざかっていく。
 階下から女性の絶叫が聞こえた。それに続いて様々な教室から悲鳴が漏れ聞こえてくる。きっと他の人たちも、食材となっていた生物の蘇りを体験したのだ。学校中が悲鳴で一杯。
「世界、変わっちゃったね」
 ココロの吐瀉物に塗れながらも、彼女の骨は白く輝いていた。


 どうやら世界は本当に変わってしまったらしい。
 ココロが胃の中のものを吐き出した直後から、世界中で食材が復活を遂げたようで、あちこちでパニックが起きていた。
 スーパーの精肉コーナーでは真っ赤な津波が起きたし、寿司屋の切り身は跳ねて、ラーメン屋の鶏ガラは逃げ出した。店先に吊るされた豚が鳴き出す海外の映像は何度も話題にされた。
 街ではゾンビが平然と歩いているし、車に轢かれた野良猫がグシャグシャの体を引きずって塀の上へジャンプする。地面に落ちた蝉は鳴かずに、ただズリズリと木の周囲を移動している。最悪なのは死なないゴキブリで、これのせいでノイローゼになった人は多いはず。
 それから各地で有名人が復活し始めた。とはいえ順番があるらしく、最近死んだ芸能人が蘇ることは多いが、大英博物館のミイラはまだ動き出していない。レーニンもまだだ。ココロにとっては教科書で見た程度の人物だけれど。

「夕方になるの、早くなってきたね」
 ココロは彼女を胸に抱いたまま、コンビニの駐車場で夕日を眺めている。既に夏は過ぎ、季節は冬へと向かいつつある。もしかすると、何もかもが動いていた時代が終わって、このまま全てが冷たく止まっていくのかもしれない。
「最近ね、大豆のお肉が大人気なんだよ。野菜は蘇らないもんね。でもさ、健康になって長生きしても意味ないよね」
 彼女が骨を揺らして笑ってくれる。その後ろでコンビニ強盗が現れ、店内に残っているカップ麺を略奪していった。未だに食事に未練があるタイプのようだ。
「それから培養肉が流行ってるって。生き物じゃないから大丈夫みたい。でも、お肉が食べられなくても、人間って死なないんだね。死んでも死なないんだけどさ」
 背後から怒号が飛んできた。逃げ出す強盗に対し、コンビニの店長は金属バットを掲げて追っていく。店長は背後から容赦ない一撃を加え、哀れな強盗はその場に倒れ込む。そしたらメッタ打ちだ。ガンガンと耳障りな音が聞こえ、やがてどこかのタイミングで強盗は絶命した。
 そこで店長も満足したのか、血まみれのバットと盗まれた商品を抱えて帰っていく。後に残った強盗はのっそりと起き出し、何事もなかったかのように歩き始める。死者として蘇ったことで、カップ麺への未練も綺麗さっぱり消えたのだろう。
「通報、した方が良かったかな。でも、誰も助けてくれないもんね」
 死者が蘇るようになってから、殺人事件という概念は消えてしまった。ギリギリ傷害罪で訴えられるけども、殺された当人が訴える意思をなくしてしまうのだ。何故かと言うと、死者は死んだことを幸福と考えているから。
 どうやら、死者の国というものがあるらしい。
 ココロはそれを最初に彼女から聞いた。紙の上を転がる彼女との対話によって知ったものの、その時はピンとこなかった。それを本格的に知ったのは、海外で一番有名な死者の動画によってだ。
 その死者は生前は有名なポップスターだったらしく、死んだ後の拡散力も桁違いだ。その死因だって、死者の復活を証明するといって、ファンに拳銃で自分を撃たせたというのだから壮絶極まりない。
 そんなゾンビスターは、顎から下が吹き飛んでいたから会話ができなかったものの、器用にキーボードを使いこなしてインタビュアーと対談を果たしていた。
 ――死者の国は、世界で一番平等なんだ。
 その言葉は世界中で受け入れられた。
「ねぇ、詩子。死者の国って楽しいの?」
 そう尋ねれば、手の中で彼女が嬉しそうに揺れる。ココロには、それが少し寂しく思えた。
 一応、死者は生者とコミュニケーションを取れる。しかし、彼らの精神は死者の国の方にあるらしく、現世での活動には興味がないようだ。生者の側からすれば、仏壇で手を合わせてご先祖様に語りかける程度の繋がりだ。
 彼女は死者の国の住人で、生者である自分とは相容れない。生きている頃だって、女の子同士という理由で結ばれない運命にあった。それが今は全く離れてしまっている。
「私が、そっちに行ったら、詩子は嬉しい?」
 やや時間を置いてから、手の中で彼女が弾む。
「そっか」
 そう返し、ココロは自宅へ帰ることにする。鞄の中には未だに渡せないままのラブレターが一通。

「ココロ、お母さんとお父さんね」
 家に帰ってきて早々、お母さんから大事な話があると言われた。豆腐ばかりの食卓で、両親がココロを真剣な表情で見つめている。
「あれ、あるでしょ。『安らぎの国』へ登録しようと思うんだけど」
「いいんじゃない?」
 間髪入れずに答えておく。
 この『安らぎの国』というのは、最近になって現れた介護施設兼葬儀屋のようなものだ。本拠地が山梨県にあり、昔から土葬を続けていた地域に広大な墓地を構えている。そういう訳で、火葬にされたくない人が抜け道的に利用し始めたのが広まって、今では日本中の人が利用している。
 ここに登録さえしておけば、死んだ後に体を引き取ってくれて、土葬の準備という名目で屍体を放置してくれる。そうなれば、綺麗な体のままに死者として蘇ることができるという寸法。偉い人はこうした状況に頭を悩ませているようだが、復活した死者に対する法律はまだないから残念だろう。
「ココロも登録しとく?」
「まだいいよ。困ったら自分でやる。簡単だし」
 ここで呼び鈴が鳴った。
 非常識な時間だが、今や世界の全てが非常識なので、この程度に眉をひそめることもない。虚ろな表情で豆腐を貪る両親を残して、ココロが一人で玄関先へ。護身用の金属バットに手を伸ばしておく。
「ココ、生きてる?」
 扉を開けば、のっぺりとした夜の向こうに彼がいた。
「生きてる。そっちは」
「そろそろ死にそう。部活の先輩がさ、自殺しちゃった。向こうでコルトレーンに会うんだって。ジャズが好きな人なんだ」
 そっか、としか言いようがない。ただ少しだけ気になったので「女の先輩?」と聞く。これに「男」と返してきたので、握ったままの金属バットを手放すことにする。
「それで、何か用?」
「別に用ってほどじゃないけど、最近学校来てないだろ」
「行く意味ある? みんな来てないじゃん」
「それは、そうだけど」
 どうにも彼は、何か言いにくいことがあるようだった。しかし、それはココロにとって興味の外で、可哀想だけど話を振ることもない。
「とにかく、俺はココが学校来るの待ってるから」
 ありがとう、と短く告げてから彼を夜の闇に追い返した。夜歩きは危険だから、せめて生きて帰って欲しい。世界の終わりに気づいてしまった人たちに襲われないように。
「詩子、生田君が死んだら嬉しい?」
 自室に戻ってから、ココロはまず彼女に語りかけた。小さな骨は黒ずんだ紙の上を転がって「はい」の位置に止まる。
「向こうで、一緒になれるから?」
 彼女は何度も弾んでみせ、その喜びを全身――小さな骨だけど――で表現した。それから転がって文章を作っていく。
「ままが、こっちに、きたよ」
 どうやら彼女の母親も死者の仲間入りを果たしたらしい。肉体をこっちに残したまま、その精神だけが旅立ったのだ。彼女の大好きな人たちが、向こうの国で仲良くやっている。
「私も、詩子と一緒にいたいよ」
 それはココロにとって、耐え難い断絶に思えた。


 ある日の朝、お母さんとお父さんが死んでいた。
 いつになっても朝ごはんにならないので、ココロがリビングに降りてくれば両親がソファに並んで座っていた。床に転がっているのは安楽死できると噂の違法薬。今さら法律なんて意味ないけれど。
 ココロが漠然とテーブルに目をやれば、そこに冷え切ったオムレツが置かれている。お母さんが作ってくれていた最後の食事だ。その皿の下には一枚の遺書。内容は「ごめんなさい、先にいきます」とだけ。家族旅行に置いていかれたような、それくらいの寂しさが湧く。
「お母さん、お父さんと手繋いで死んでんじゃん。夫婦円満って感じだ」
 トーストを焼き、ココロは一人きりの朝食を済ませる。テレビをつけても、半分が放送を休止しているし、僅かに残った番組も計画停電とか配給についての情報があるだけ。とてもつまらない。
「いってきます」
 ココロは誰もいなくなった家に別れを告げ、高校に向かう道を孤独に歩いていく。朝もやのかかる道は静かなように思えて、それでいて実に騒がしい。動き出した死者は呻き、それを狩ろうとする危険な人たちの叫びが響いている。
 駅前に至った時、ギャギャと奇妙な声が聞こえた。ふと上を向けば、そこに建設中の屍体時計がある。
「アレ、すごいよね。詩子」
 何もかもが停滞する世界にあって、ただ一つ発展したものが屍体工学だった。発電所も水道局も、インターネットも、人手不足で様々なインフラが途絶えていく中、残った人たちは屍体を利用して世界の再構築を始めたのだ。死者は永遠に動き続けるし、文句も言わないので、材料としては最高だ。
 ココロは組み上げられた屍体建築を横目に、線路沿いに歩いて学校に向かう。この辺りは既に電車が営業しなくなっている。こういう時、歩いて行けるところに高校を決めて良かったと思う。
 学校に到着すれば、そこに以前の騒がしさはない。
 無言のまま歩く生徒の表情は暗く、むしろその背後で組体操を演じている死者の方が明るく騒がしい。一部の生徒は死んだ後も高校に通い、永遠の青春を謳歌している。
「クラスのみなさんに、先生からお知らせがあります」
 ホームルームの時間、半分以上が空席となった静かな教室で、担任の先生がそう切り出した。
「昨日、先生の奥さんと子供が向こうへ行きました。なので先生も、今日で授業を最後にしようかと思います。自分勝手ですが、みなさんに挨拶だけはしたかったんです」
 そう告げるなり、先生は窓ガラスを開けて体を外へ放り出した。一秒ほど後に厭な音が響く。三階から落ちたのだ。運が悪くないかぎり、きちんと死ねたはず。
 これで授業は終わり。残った数人のクラスメイトは自分たちも死のうかなどと話し合い、死に場所を求めて教室を出ていった。まるで授業をサボって遊びに行くようで、ココロはそれに混ざろうとも思わなかった。
 誰もいなくなった教室で、ココロは熱平衡という言葉を思い出していた。
 温度の違う二つのものが触れあえば、熱いものは冷え、冷たいものが熱せられる。そうして二つは平衡状態になる。
 それが授業で語られたのはいつだっただろう。既に宇宙は静止してしまっているので、時間の概念も曖昧なものになってきた。熱が奪われるということだけ覚えている。
 どうやら、この世界にとって死は冷たさの最たるものらしく、それと触れ合ってから生者の世界は急激に静かなものになった。両者は混じり合い、生者と死者は平衡状態で共存している。
「とっても静かな世界」
 そのまま眠ってしまおうかと思えるほどの時間が経った頃、一人の男子が教室を訪ねてきた。
「ココ、大事な話がある」
 それは幼馴染たる生田渚だった。彼は廊下を走る死者たちに目もくれず、扉の前で思いつめた表情で立っている。
「屋上、ついてきて」
 断ってもよかったが、その言葉を吐くより早く、彼は一気に近づいてココロの腕を引いてくる。これほどに強引な彼をココロは知らない。
「痛いって。わかった、行くから」
 そう伝えても彼は手に力を込めたまま、ココロの手首を掴んで引っ張っていく。こうなることは、どこかで予想していた。だからココロは咄嗟に、自由な方の手でスクールバッグを掴む。
 死者の群れをかき分けて二人は歩いた。教室を出て、階段を登り、いつか盛大に吐瀉物を撒き散らした踊り場から屋上へ。
「ココ、あのさ」
 屍体で組まれた足場を背景に、彼がココロの方に振り向いた。
「俺が死んだら、ココは悲しむ?」
「どうしたの、急に」
 沈みかけの太陽の逆光が、彼の顔に影を作る。
「両親がさ、一緒に死のうって言うんだよ」
「私の親も今朝死んでた」
 彼は言うべきことを決めていたのだろう。ココロからの言葉に彼は「そうなんだ」と返すだけで、飽くまで自分の話を続ける気らしい。
「俺の親さ、屍体を建築物に使われたくないらしくて、最後に車で遠くに行って、誰もいない森の奥とかで死ぬらしいんだ。それに俺も誘われてる」
「それで?」
「だからさ、俺が死んだら悲しむかなって」
 せっかちな夜の空気に彼の輪郭がぼやけ、仄暗い顔は可哀想なくらいに歪んでいる。
「こんな時になって言うのも卑怯だけどさ、俺な――」
 その先を彼がなんと言うのか、ココロは即座に理解した。それを遮るべく、ココロは鞄を掲げてみせる。
「これ、読んで」
 ココロは鞄から一通のラブレターを取り出し、真っ直ぐに腕を伸ばして彼へと向ける。
「手紙?」
 彼はココロから手紙を受け取り、それを丁寧に開封して中身を読んでいく。どんな文言が書かれているのか、この時まで想像もしたくなかった。それを今、彼は目を見張って読み進めている。
 きっと彼は私のことが好きなのだ。
 ココロはどこかで、そう思って生きてきた。中学校の頃から雑なアプローチを受けてきた覚えもあるし、今日に到るまで彼が生者の側にいたのもこれが理由だろう。当然、こんなことを彼女に伝えられるはずもなかった。
 それを今、ココロは別の形で利用しようとする。
「これ、ラブレター?」
 ここで自分が彼を拒絶したら、彼は生きる希望を失ってしまう。そうなれば、彼は家族と一緒に死者の国へ旅立つだろう。
「どうだった?」
 そして彼は、死者の国で彼女と出会ってしまう。
「嬉しいよ、でもこれって――」
 それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。ココロはそう思う。彼女が彼と同じ場所で楽しく過ごすなんて。
「ココが書いたの?」
 決意を込めて一歩、彼に近づいて耳元に口を近づける。ここから先は、胸ポケットにいる彼女には聞かせられない。囁きかけよう。彼以外の誰にも聞こえないような小ささで。
「そうだよ」
 彼の耳が熱くなっていく。それを感じ取ったココロが薄く笑う。これは熱平衡ではない。生と死のバランスが崩れている。
「だから、一緒に生きようよ」
 だって、こんなに冷たい囁きなのに。


 どれくらいの月日が流れたのだろう。
 既に世界は完全に静止してしまったようで、生きて動いている人間を見かけることもなくなった。屍体工学によって作られた街だけが、半永久的に動き続けている。
「もしかして、この世界で生きてるのって私たち二人だけかもね」
 ココロは台所に立ち、培養肉に延命薬と栄養剤を打ち込んでいく。彼のための手料理だ。喜んでくれるはず。
「食欲もなくなってるし、病気もなくなってるっぽいよ。だから本当は、死のうと思わない限りは死なないんだよね」
 薬剤によってドロドロに溶けた肉のスープを皿に盛り付けつつ、ココロは嬉しそうに振り返る。生田家のリビングで、彼は静かに食事が運ばれてくるのを待っている。なんて亭主関白なのだろう。
「ほら渚、残さずに食べてね」
 彼の両腕は後ろ手で椅子に縛りつけられている。目隠しは余計なものを見ないためで、口枷は舌を噛み切らないようにするためだ。
「唐揚げ、いつか作ってあげたいけど。ま、気が向いたらね」
 ココロは彼の口に皿をつける。液状の肉が彼の喉に滑り込んでいく。一気に食べさせると吹き出してしまうから、少しずつ飲ませてあげる。この生活が始まったばかりの頃は失敗したけども、最近はこの作法も上手くなってきた。
「それじゃ渚、私でかけてくるね」
 ココロは空になった皿を放置したまま、血に染まったエプロンを外す。可愛らしいキャラクターの絵は染み込んだ血の色と相まって、どうにも悲しげだ。
「デートしてくる。渚は良い子で待ってて。死んじゃダメだよ」
 こくり、と彼が頷いた。すっかり元気はなくなってしまったけれど、まだコミュニケーションが取れているだけマシだ。
「今日は良い日」
 ココロの表情は明るい。
 玄関を開けて外へ出れば、死者だらけの静かな世界。壁に埋め込まれた屍体の呻きにハミングし、柵のように飛び出た無数の手に次々とハイタッチを決めていく。スキップだってしてしまう。
「もうすぐ会えるよ、詩子」
 今日はいよいよ、彼女が帰ってくる日だ。
 咎める者が誰もいなくなったから、ココロは彼女の遺骨を全て回収することができたし、勝手に動く培養肉プラントを自由に使うこともできた。あとは死者蘇生の実験を始めればいいだけ。
 時間の感覚がなくなった世界で、何年もかけて研究を続けたのだ。もとより魂のようなものは帰ってきているのだから、あとは肉体を作りさえすれば良い。
「詩子、まだかなぁ!」
 ココロは駅前で彼女の到着を待つ。屍体時計が体を折り曲げて時間を示す。この世界にあって、時間の概念を持っているのはココロだけだろう。
「ああ、詩子!」
 ここで屍体を組み上げて作られた自走車が近づいてくる。その荷台には一つの巨大な肉塊があった。
 肉塊には不格好な腕が何本も生え、巨大な目玉が左右についている。肥大した下部には歯のようなものが並び、その奥に臓器が詰まっているのか、どくどくと波打っている。フォルムだけは潰れたホタルイカにそっくり。
「会いたかった、会いたかったよ」
 車の荷台から肉塊が落ちる。それは器用に四本の腕と歯を使い、ズリズリと地面を這ってくる。
 小波詩子は復活を遂げた。
 彼女は肉体を手に入れた。これで彼女の手を取れる。見つめて貰える。キスだってできてしまう。死者と生者という境界はあるけれど、二人が愛し合っているなら乗り越えられる。
 きっと彼女は聞いてくるだろう。「渚君からラブレターの答えあった?」って。だから「まだ保留中だって」と答える。もはや時間なんてないのだけど、彼女が諦めてくれるまでは何度だって答える。
 そしてココロは、愛する彼女のもとへ駆け出す。

                           (了)



画像2

柴田勝家先生の最新作、『ヒト夜の永い夢』はハヤカワ文庫JAより絶賛発売中!