とある宗教の親に育てられた自らの半生⑦

またしても更新が途切れてしまった。前回の更新が去年の4月だった。どうもこの話題になると物を書く意欲があがってこない。自分の黒歴史と向き合わなければならないからなのだろうか。

先日、わたしのこのテーマを読んでくれているという方に直接お会いする機会があった。その際に「⑥で止まっちゃてるじゃないですか」なんてケツを叩かれた。こういったことが何回かあった。とてもありがたいことだ。なので今回久しぶりに続きを書いてみようと思う。

前回までは、わたしがバプテスマを受けることになった経緯までを書き綴ったので、今回はバプテスマを受けた後、どういった暮らしをしていたかを記述していく。

わたしがバプテスマを受けたのは、1996年3月3日。成田市に現在もある千葉大会ホールで受けた。中学1年の終わりの時であった。あれから30年近くが経とうとしているにもかかわらず、日付がしっかりと脳裏に焼き付いているものだ。それだけエホバの証人にとってエホバへの献身の表明は、重大イベントなわけである。

前回も少しふれたように、わたしの場合はその時に完全に信仰を抱いていたかと言えば、正直それは微妙である。おそらく他のこの宗教の2世だった人もこの状況を理解してくれる人は少なくないのではないだろうか。いわゆるひとつの承認欲求みたいなバイアスもかかっていたのであろう。なんとなく兄弟同時って劇的だし、バプテスマを受けたらみんな喜んでくれるし、何よりも誰よりも母が嬉しそうにしてくれているし、そんな勢いで受ける決意をしてしまったのだ。若干13歳で。

ここが非常に重要なのだが、まだ社会にも出ていない右も左もわからない未成年の少年が、バプテスマを受けた。献身の選択をした。この決断が今も尚、わたしたち家族を分断する最大の障害となっているのだ。この点についてはもっと後にじっくり説明したいと思う。

さて、バプテスマを受けて何が変わったのか。バプテスマを受けるとその日からわたしは、他の信者から「小松兄弟」と呼ばれるようになった。会衆内での仕事も割り当てられた。わたしは、この辺の記憶はあいまいなのだが、たぶんステージ係というのやっていた記憶がある。ステージ係とは、集会中、目まぐるしく話し手や、舞台のセッティングが変わるのでその都度話し手のマイクの高さを調整したり、転換時のステージのセットを変更したりする係だ。熟練になると、会場内の後方の席に座りライブで言うPAのような仕事も任されるようになった。

PAの仕事は楽しかったし飽きなかった。話し手によってイコライジングをいじってみたり、録音をしたり、当時はカセットテープだったので半面録音が終わって、すばやく裏返して録音を再開させたり、集会の区切りのタイミングで出席者全員で歌う賛美の歌を流したり、集会が終わったあとに希望者に録音したカセットテープの貸し出し作業をしたり、結構せわしなく動くので眠気が襲ってくることはなかった。

さらに年齢が重なってくると、会計係なんてのもやったりした。この仕事は、王国会館に設置されている寄付箱を2人で開け、集計する係だ。会計係をやるのは、特に信用度みたいのが高くないと任せられないのだから心して努めるように、なんてくぎを刺されたものだ。
こうした様々な集会運営に欠かせない役回りをいくつも兼任していたのもあって、わたしは常に会衆内で誰よりも早く王国会館に来て、そして誰よりも遅くまでそこに残っていた時期もあった。当然車の運転免許も当時ないわけだから、わたしは自転車で雨だろうが雪だろうが、王国会館に足繁く通っていた。親は悠々と後から車で来て、そしてわたしより先に帰っていくわけだが。

信仰が徐々に芽生えるにつれて、こうした仕事を任せられることが快感になっていくのが分かった。だから誰よりも若く、誰よりも早く様々な特権に預かりたかった。これが出世欲というものなのだろうか。少しは今の仕事に出世欲を出したいくらいだが、今の会社で全くそんな気が起きないのだから不思議なものだ。

もう少しバプテスマを受けたらどんな変化が生じるかを記述していきたい。それは輸血拒否カードを作成することだ。それまでは親が記入し、子供が持つ簡易版のようなものだったのが、たとえ13歳であろうと、自筆の署名入りの、目撃証人のサイン入りの信者全員が肌身離さず携帯することを要求される非常に責任と重みのあるものに変わるということだ。これをもってして不慮の事故などによって自らの意思表示を直接できない場合でも、確実に輸血を回避した治療を、医療従事者にお願いできるよう常に備えることが要求されることになるわけだ。わたしは学校であろうと、プライベートであろうと確かにそれを首からぶら下げ携帯していた。正直に言うと、そんなに信仰を持っていなかった頃は、忘れてしまったこともそれはあった。

学生生活においては、特段劇的な変化があったということはなかった。もっと言えば、学友たちにはバプテスマを受けたことなんて報告もしないし、その意味すら分かる人間なんて皆無に等しいわけで、わたし自身も知られたくもなかった。だから、程よくわたしは世の子たちといい関係を保っていた。スクールカーストの中でもとにかく底辺にはならないようにも絶妙に気を配っていた。なんなら喫煙も経験していた。恋愛ごっこも経験した。普通ならこれだけでエホバの証人の組織内では排斥の対象になる事案だ。

でも、ばれなかったのだ。おかしいな、エホバの前ではすべてが明らかと教えられているのにな…。そんなことを思いながらも中学時代はそんな風にして過ぎ去っていった。

中学卒業を迎えるころになっても、わたしはそんなに強い信仰を持てずにいた。それでも普通の学校で陰と陽を分けるような生活に嫌気がさしていたのだろう。勉強することもそれほど好きじゃなかったし、高校は通信制の高校を選択した。そう、この時もみんなが何となく喜んでくれるからというバイアスが働き、独特の承認欲求とも言うべき、当時教団内においては、高等教育を否定し大学なんて持っての他、普通高校に進学せず、通信制の高校を選ぶ子は異常に称賛されていたのだ。何よりも誰よりも母が嬉しそうにしてくれるし、そういった動機でこうした選択をしていくのであった。

次回は高校生活について、述べたいと思う。なるべく期間は開けずに。

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