『天気の子』とセカイ系の話

映画『天気の子』を観た。公開後の様々な感想に耳を塞いでいたが、時折Twitter上で上がってくる、「00年代のエロゲ」や「セカイ系」の単語に惹かれ、予定のない盆休みに一つ映画をわざわざ観に行くという計画を入れた。

先に出た関連キーワードがやたらと刺さる人たちとの共有が観に行く動機づけになった。アラフォーの身で今更エロゲの話をする機会もない。社会人になってエロゲをやることもテキスト系のゲームをやることもなくなった。というかゲーム自体をやる気力が生まれない。ゲームが仕事のタスクに見えて現実逃避の道具として扱えなくなったのが理由か。

それはそれとして話は映画に戻る。観てきた感想はまあよくあるボーイミーツもので好みの設定であった。絵は相変わらずの美麗で、新海誠の話だなあって思った。泣くほどではなくとも感動はした。声優たちの演技、RADの音楽も良かった。音楽で感情を説明するというやり方も十分効果ありだった。(君の名は。の時はPVかと思うくらいだったが、今回はそう感じなかった。慣れたか。)

終わってからネタバレ込みの考察、感想を読み漁った。その中で「セカイ系をひっくり返した」ような話があり、そこでなるほどと感じた。

映画ラストの選択で、ボクはキミを救い、セカイを救わずにいた。だけどセカイはもともと狂っているという。新しい解釈であり、セカイ系をアップデートとしたと。

なんというかそういう時代になったのだと思ったが、そう考えていたかつての自分もいたのを恥ずかしげもなく書いておく。昔、私が書いた小説のラストもそんな感じだった。キミを救ってセカイは変わらない、なんかモヤモヤするラスト。別にパクりやがったとかそういう物騒な話ではなく、新海誠という偉大なアニメ監督によって、その共感が世に出て、万人に広げたということがすごいなと。あの時の自分に教えてあげたいとも思った。

言いたかったことは全然違うかもしれない。ただセカイ系というジャンルに惹かれておきながら、それを否定するような鬱屈したかつての自分を思い出させてくれたのだ。それはあの頃誰かさんに「永遠はあるよ」と囁かれていたという記憶とともに。

私情が強い話になってしまったが、『天気の子』とそこで盛り上がってくれた回顧話のおかげで、文章を書こうという気になった。

新海誠になれなかった男の話でした。

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