彼と彼女と僕の思い出
仲の良かった女子がいた。
中高生あたりの話だ。幼馴染と呼ぶには関係の始まりが遅すぎる気がするが、当時を思い返す今となっては誤差の範囲と言えるのかもしれない。いずれにせよ、僕は僕の思春期の大部分を彼女との関係の中で過ごした。彼女もそうだったことだろう。
どのようにしてそのような関係性を構築したのか覚えていないが、とにかく僕と彼女はおよそあらゆる個人的な情報を共有していて、僕は彼女に初めて恋人ができたのがいつのことで、その相手がどこの誰なのかを当然のように知っていた。彼女がその男とどのようなデートを重ね、どのくらいの恋人期間を経て彼らが初めて唇を重ねたり、ぎこちなく触れてくるその男の指先の感触を彼女がどのように感受したのかも、僕たちの間にはすべてがつまびらかにされていた。
それは僕の方も同様だった。僕はいったいどのようにしてかつて童貞だった純朴な少年が青年ぶったちょっぴり背伸び男子に変貌するかの過程を逐一彼女に知らせていたし、自分の男性器を覆う包皮がその癒着をじわじわと捨て去る1日1日の変化を夏休みの課題のようにレポートしていた。ひょっとしたら僕の男性器は植木鉢に咲く朝顔の気持ちが誰よりもわかるのかもしれない。
事前に相談をしたり意見を聞いたりすることはしないが細々とした報告をすべて行う。思い返すと何とも妙ちくりんな関係だけれど、当時の僕たちにとって、それはとても自然なことだった。
この関係性の構築にはインターネット黎明期の特殊な環境が大きく関わっていたものと思われる。当時の中高生に携帯電話などというものは普及していなかったけれど、PC自体はある家にはあるといった具合であって、僕の家にも彼女の家にもそれぞれPCがあり、貧弱とはいえインターネット環境があり、幸か不幸か僕も彼女もそれぞれがある程度自由にそのPCに触れられる家庭環境にあったのだ。僕たちは、今となってはそのプログラム名も思い出せない太古のチャット・ツールを用いてお互いの情報を投げ合った。
おそらく比較的新しいもの好きなのだろう僕の親たちも彼女の親たちも、自分たちが与えた最先端の文明の利器を駆使して自分の子供たちがあらゆる性情報をギブアンドテイクしているだなんて考えもしていなかったに違いない。人の親という立場になった今思い返すと眩暈がするような状況だ。ネットリテラシーなどという概念はこの世に存在しておらず、そこはほとんど完全な無法地帯だった。
しかしそのようなインターネット荒野も次第に整備がなされていって、それもあってか、彼女と連絡を取る頻度も次第に減っていっていた。なにぶん僕らはお互いに思春期だったので、おそらく1年前や2年前に自分がどのような行動原理でどのように行動し、その結果がどのようなものに終わってきたかを知られている異性と変わらず接することを、小さなプライドや自我が許してくれはしなかったのだ。この年頃の少年少女にとって数年前の自分自身という存在は羞恥心を刺激するものでしかないのだろう。
そして携帯電話が普及した。もはやハンドルネームを用いてチャット・ツール越しにコミュニケーションを取る必要はなく、僕らは次第にメールを使うようになっていた。すると、プログラムを閉じればその日のやり取りが消し飛ぶなんてことはなくなり、会話の履歴が保存されるようになったのだった。
「おちんぽしゃぶるとベロの裏が痛くなるのってなんとかならんの?」
「舌伸ばしすぎだろ。どんなリクエスト聞いてるんだよ」
「この舐め方って普通じゃないの!?」
こんなやりとりを行うことなど僕らにはもはやできなくなっていた。
そんなわけで、連絡の濃さや密さと同期するようにして、僕と彼女の奇妙な関係性も次第に希薄に、あるいは常識的なものへと変化していった。
○○○
彼女のほかに、当時の僕には親友と呼んでも良いのではないかというレベルで仲の良い男子がいた。当時の僕の学校内での娯楽は板垣恵介漫画について彼と話すことでそのほとんどが構成されており、刃牙シリーズと漫画餓狼伝についての知識が一通りなければ僕たちの会話に加わることは非常に困難だったに違いない。
ある日そんな彼から申し出があった。例の彼女と遊びに行きたいのだと彼は言う。別段隠していたわけではないので、僕と彼女が仲良しであることは知る人は知っていたし、僕らの間に恋愛関係がないことも知る人は知っていたのだ。彼もどこかからそのあたりの情報を手に入れたのだろう。
彼がわざわざ僕にその願望を伝えてきたのは、親友の女友達にアプローチをかけるにあたって事前報告をしたわけではなく、もちろん僕に何らかのセッティングのようなものを望んでいたからだった。僕はその意を汲み取り、ついでに久しぶりに彼女に会おうという気にもなり、彼女にその旨のメールをしたためることにした。
彼や彼女に名前がないと以降の内容を書きづらいので、仮に彼の名前を内藤、彼女の名前をツンとする。ついでに僕の名前はドクオにしよう。僕ことドクオはツンにメールをその晩送った。
「久しぶり。内藤ってわかる? ツンと遊びたいと言っている」みたいな感じの内容だ。
「あらお久しぶり、もちろん内藤くんはわかるわよ。遊ぶのはいいけど、ドクオはいったいどうするの?」
「邪魔じゃなければ、邪魔になるまでは僕もご一緒しようかなと思ってる」
「それならよかった。ちょうど最近新しくできた友達がいて、いい子だから、あんたに会わせてあげてもいいんじゃないかと思っていたのよ」
「まじで。かわいい?」
「かわいいかわいい。ま、でも、この流れでかわいくないとは言わないでしょうよ。あんた今まだ彼女なし?」
「超彼女なしだよ。いつにしようか?」
「めちゃ食いつくやん」
みたいな流れだ。名前を与えたことで、いつも僕が書く彼らにグッと寄ってしまった気がするが、それほど大きな影響はないと考えよう。とにかく僕と僕の親友は、女の子たちの前で板垣知識を前提とした受け答えを繰り返さないよう誓い合って予定を組んだわけである。
そうして彼女は僕に女の子を紹介してくれて、僕は彼と彼女を引き合わせた。その女の子は実際いい子でかわいらしい見た目をしており、僕とその後付き合うことになったのだけれど、それはまた別の物語なので、いつかまた別の機会に話すことにしよう。
一方、内藤くんとツンちゃんはというと、彼らは彼らでしっかりその後付き合いはじめたようだった。そういう意味ではこの催しは史上稀に見る良質なダブルデートだったと言えるのかもしれない。ただ、今にして思えば、その付き合いはじめることになった報告を、僕は内藤くんの口から聞かされはしなかった。僕は彼と親友と呼んでも良いかもしれないほどに仲が良く、彼女と引き合わせたのは他ならぬ僕であるというのにだ。
当時は気にも留めなかったことだけれど、僕たちの物語における伏線のようなものはこのあたりに張られていたのかもしれなかった。
○○○
最初は小さな違和感だった。
些細なことだ。たとえば僕が彼に送ったメールに対する反応が遅くなったとか、鈍くなったとか、彼からメールが送られてくる頻度が減ったとか、あるいは彼から遊びの誘いがもたらされなくなってきたとか、そんな程度のことである。
僕はそれらをさして大したことだと思っておらず、どころか当時は気が付いてさえいなかったようにも思える。ちょうど彼とも同じクラスではなくなっていたので、僕には僕の新しい生活があったし、彼には彼の新しい生活があるのだろうと思っていたのかもしれない。さらに、その時僕にはいい子でかわいい恋人ができていたわけだから、それも無理がないというものだろう。
そんな彼の変化に僕が気づいたのは、彼と僕の共通の友人にこんなことを訊かれたからだった。
「なあドクオ、お前内藤と何かあったん?」と、ある日その友人は訊いてきた。
おそらくそれなりに気を遣ってそんな質問を寄せてきたその友人に、僕は気の毒なほどのアホ面で対応していたことだろう。
「何か、って、何?」
「いやだからそれを訊いているんだが」
なんせ僕にはまったく身に覚えがなかったのだ。
いや、あった。気づいていなかっただけである。いざ言及されて彼と自分の関係性について思いを馳せると、前述したような、微細というには明らかな変化が彼からの僕への態度には生じているように僕にも思えた。
そのような回想と思考をフル回転で行いながら、その友人と余力で行うふわふわとした会話の中で、僕はその友人にこう訊いた。
「ねえ、なんで僕たちこんなことになってるんだろう?」
「知らねえよ、俺がお前に今訊いてんだ」
まったくもってその通りである。何の結論も出すことができず、やがてそのふわふわとした会話を僕たちは打ち切った。
○○○
「ああ、そりゃまあそうでしょ、そうなるよ」
新しい恋人との会話の中で、やがて僕はそんなことを軽く言われた。この子が事情を知っているなど予想だにしていなかった僕はとても驚き、そのプリティなフェイスを凝視した。
しかし考えてみれば当然で、この子は元々ツンの友達だった。だからこそ僕と巡り合うことができたのだ。僕の知らない彼と彼女の間の事情をこの子が知っているのはとても自然で、ありえることだ。
「あまりドクオくんの友達の、良くなさそうな内容の噂話をするっていうのも気が引けるけど」
そのような前置きをした上で、その子は対局前の棋士が将棋の駒を並べるように、ひとつひとつ丁寧に彼らの情報を僕に与えた。
どうやら僕の親友こと内藤くんは、ツンちゃんが生まれて初めての恋人だったそうで、当然彼女と初体験を済ませるまで彼はれっきとした童貞であったらしい。刃牙シリーズでいうところのSAGAを経た彼はきっと何倍も強くなっているに違いないぞ、とまで呑気なことをその時の僕は考えられていなかったと思うが、いずれにせよ、彼は彼女とのピロートークの中で、僕と彼女との付き合いの長さや深さを知ることになったのだった。実は彼女が僕に対して恋心のようなものを抱いていた時期がかつてはあったといったようなことも耳にしたらしい。これは僕にとっても初耳だった。
「それでまあなんというか、内藤くん、ちょっとおかしくなっちゃったんだって」
「おかしく?」
「なんていうか、束縛? みたいなのをするようになっちゃって、携帯の連絡先から男の子のデータを全部削除させたりもしたみたい。やることがちょっと極端だよね」
「なるほどね、でも、それだと僕もヤバくない?」
「ヤバいっていうか、たぶんあなたも、というより、あなたこそが連絡先削除の第一候補なんじゃない?」
「ほんとだ、ツンにメール送ってみたらデーモンメールが返ってきた。電話の受信拒否もされてるかな?」
「たぶんね」
「これはたいへんなことだね」と僕は言った。
○○○
実際、それはたいへんなことだった。
なにせ学生の世界は狭い。そんな狭い世界の中で、親友レベルで仲良しだった男の子たちがほとんど絶縁状態になったのだ。それは良いゴシップのネタで、大して僕らと仲良くなかった陽キャたちはこぞってその事情を聞こうとしたし、しかし僕から説明できることはほとんど何もないのだった。
「僕にもわけがわからなくて、なんなら教えて欲しいくらいだ」
訊かれた僕はそのような答えにならない答えを一方的に並べて会話を打ち切っていた。彼の方がどのような対応をしていたのか知らないが、おそらく似たようなものだったのだろう。
「今からでもいいから、ちょっと一体どういうことで、どういうつもりなのか、僕に説明してくれてもいいんじゃない? というか、どちらかというと、説明義務のようなものが君にはあると思うよ、人として」
くらいのことは僕も考えてはいたけれど、それを彼に突きつけ何かを言わせる気にはならなかったし、きっとおそらく彼は彼で僕に対して人としての説明義務があったのではないかと思っているのかもしれなかった。
そして、彼もまたそれを僕に突きつけてくることはなかった。こうして僕と彼との関係性はそのまま終焉を迎え、僕と彼女との関係性もそのまま終焉を迎えることとなる。僕は当時もっとも仲の良かった女友達と、当時もっとも仲の良かった男友達を、ほぼ一方的に一度に失ったわけである。
○○○
「諸行無常だね」
みたいな感想と共にこの思い出を再び固く梱包し、頭の倉庫の奥底に封印しても良いのだけれど、せっかくだからもう少し考えてみることにしようと思う。
しかしながら、考えれば考えるほどに、この当時の僕が理不尽な悲劇のように捉えていた出来事は、どうやったって回避できないように僕には思えてしまうのだった。
だって僕は、彼のことも彼女のことも好きだった。もし仮に人生をやり直せたとして、彼女とのあの太極図のように濃密な関係性を再び構築しないという選択肢はないし、彼と板垣話はするだろうし、そんな彼に彼女を紹介することも決して厭いはしないだろう。
「強くてニューゲーム」なら話は別かもしれないが、この記憶や経験を引き継げないのであれば、100回やり直したとしておそらく99回か100回くらいは同様の結末に向かって僕たちの物語は進んでいくことだろう。その場その場の選択において、僕に咎められる点があったようには僕にはどうしても思えない。僕はまったく反省してない。
では彼女に悪いところがあったのか? それも違うんじゃないかと僕には思える。肉体的ではないという意味でこう表現するが、精神的な繋がりの深い異性の存在を許容できない恋愛関係は良くないものだと僕は思うからだ。また、それをひた隠しにする必要も、強制されるものではないと思う。
では彼に悪いところがあったのか? それも違うのではないかと僕は思う。これは彼サイドの物語を読ませてもらわなければ何とも言えないところなのだが、おそらく彼は、最近言われる表現であるところの「脳が破壊された」状態になったのだろう。
考えてみれば当然で、僕と彼女のかつての情報共有の濃密さは明らかに異常なものだった。おそらく事前情報なしに想像することは不可能だろう。加えて僕は彼とはほとんど板垣関連の会話しかしておらず、女性関係や恋愛関係について話したことなどほとんどまったくなかったので、自分と仲が良かった筈の友人の、最近できた自分の恋人とも関係した理解不能な一面に関する情報を一気にいきなり注ぎ込まれ、それまでの常識や認識が破壊され、一言でいえば人間不信のような状態に陥ったとしても何ら不思議ではない。
というか、おそらくそうなのだろう。彼の物語においては彼はおそらく被害者側で、それが単なる可能性としての話だとしても、自分のどのような情報を僕にこれまで渡されてきたものか、どのような情報交換が僕と彼女の間で交わされていたのかを想像すると、絶叫しながら頭を掻きむしりたくなるような夜を彼は何度も過ごしたに違いない。実際のところ、僕と彼女の間にこの時情報のやり取りはまったくなかったのだが、それもまた隠蔽されているように彼には見えたのかもしれなかった。
なんなら彼の僕への態度は比較的穏やかな部類と言えたのかもしれず、仮に100回繰り返し実験を行えたとしたら、僕はざっと2回か3回くらいは彼から刺されていてもおかしくないような気さえする。
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この僕たちの物語を思い返すにあたって、自分自身についても発見があった。どうやら僕は、ある一定の程度を超えて好きになった人に対しては、その後のその人とのやり取りの中で、その好意度みたいなものがほとんど変化しないようなのだ。
これは増える方向にも減る方向にも同様で、だからたとえばある女の人とお付き合いをすることになった場合、たいてい1ヶ月後か2ヶ月後かくらいに
「あなたって、実はあまりわたしのこと好きじゃないよね?」
みたいな半分冗談めかした愚痴を言われることが多いのだけれど、これはお付き合いする中でどんどん増していく相手の好意度にまったく追随することができないからそんな印象になるのだろう。僕は変わらず相手が好きなのだけれど、それをわかってもらうのは難しい。
彼や彼女に対してもそれは同様で、僕はかつても当時も彼らのことが好きだったし、今も変わらず好きである。もはや連絡を取る手段がないのでこの気持ちを伝えることはないだろうけれど、おそらく僕はずっと彼らのことを好きだと思い、しかしあまり思い出さずに生きていく。
それはこの物語の中で新しくできた僕の恋人に関しても同様だ。この子は僕とかなりの長期間恋愛した後、結局他に好きな男を作って僕を捨て去っていくのだが、僕はやっぱり今も変わらずこの子のことが好きである。
この、僕が切り捨てられるに至るまでの一連の出来事はそれはそれで語るべきことがありそうだけれど、これとはまた別の物語なので、いつかまた、別の機会に書くことにしよう。
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