わけあり様

 恋が崎ハイツの二階の部屋は、一階の部屋よりも家賃が五千円安い。なぜかといえば、道を挟んで向かいにある駐車場が、窓からよく見えるからだ。夜になると決まってそこに奇妙な人物が立つのである。
 詳細不明のその何者かは、パトロールでもお祓いでも追い払うことができず(具体的にどんな闘争があったのかはわからないのだが)、日が暮れるといつの間にか看板の下辺りに立ち始め、朝になる前に姿を消しているのだという。
 もっとも、そこに立つだけで何をするわけでもない。それでも詳細不明の人物の気配がするというだけで落ち着かない人は多く、とうとう二階に入居するひとがいなくなったそうだ。そこで、仕方なく家賃を安くしたらしい。
 幸いわたしはそういうことに無頓着で、おまけに懐事情がかなり厳しい。だから恋が崎ハイツの201号室に入居を決めたのだが、なるほど謎の人物は引っ越しの当日、さっそくその姿を現した。仮面なのか何なのか、生肉を貼り付けたような顔をして、全身黒ずくめだ。なるほど謎の人物と呼ばれるに相応しい、とわたしは納得した。しかし家賃が五千円浮いているのは彼(彼女?)のおかげなので、わたしはその人物に感謝し、心の中でわけあり様と呼ぶことに決めた。
 晴れた夜も雨の夜も、雪や台風の夜でさえも、わけあり様は駐車場に立っていた。ひびの入った看板の照明に照らされ、何をするわけでもなく直立不動のまま、そして夜が明ける前にどこかに消え失せている。何が目的なのかはわからないが、きっと真面目な人なのだろう。常に変わらないその姿はわたしに安心感をもたらした。わたしはわけあり様の姿を見かけると、手を合わせて拝むようになった。

 ある日、近くの動物園からライオンが逃げ出した。幸い翌日には捕獲されたのだが、その日からわけあり様の姿を見かけなくなった。
 わたしだけでない、おそらく近隣の皆がもしかして、と思っている。わけあり様はライオンに食べられてしまったのではないだろうか、と。だってあんな生肉みたいな顔をしていたんだし、肉食動物がまっさきに狙ってもおかしくない。ただそのことをはっきりと口にしてしまうのが、ひどく不吉なことのように思えて、わたしも皆も、誰もがその件に触れずにいるのだ。
 わたしは毎晩寝る前に駐車場を確認する。もうそこにわけあり様の姿はない。いつも立っていた場所には、なんの痕跡も残っていない。まるで最初からそんなひとはいなかったみたいだ。
 でもわたしの部屋の家賃は、一階よりも五千円安いまま据え置きになっている。引き落としの金額を見るたびに、わたしはわけあり様の姿を思い出す。

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