42.昭和21年6月25日からの大移動。ポセット港→北朝鮮 清津西港→古茂山へ
昭和21年6月25日 ポセット港着
引き込み線に入ってから少し進んだところが、軍港と商港を兼ねていたポセット港だった。列車が停止したら、同乗してきたソ軍兵が列車につないであった電話線を2人がかりでとりのぞき始めた。
下車してからあたりを見て驚いたことは、やはり堅固な軍備と、もうひとつはずらりと並んでいた患者収容のための天幕群。
左に行けば海、右手の方に行くと小さななだらかな斜面のある山で、そこには大天幕がずらりと並んでいた。
天幕のところでは蒙古系のロスケの通訳が何かとお世話をしていた。
この野営の地はシベリヤ最後の地となっただけに、送りだすソ連側も何かと手を尽くした。重患専用の幕舎もあるし、給与もよかった。
欲をいうなら、ここでの水は塩分が多くてやや塩辛い水だったことと、天幕での生活は昼は暑く夜になると寒くなり体が冷えた。
ここで船を待つ間に、海にいって、元気な者はこっそりと泳いだり「なまこ」を取ってきたりした。ここの海はずいぶんと遠浅で、海の中に入って50mぐらい歩いてもまだやっと膝の下までぐらいの深さだった。
消毒、入浴など一連の行程を機関車に連結してある消毒車の中でした。それの終了者より、今までいた場所とは反対側の斜面の天幕に移動。
私達のあとからもどんどんと、1日に2列車か3列車は入ってきた。そのために日ごとに天幕の数は増加。
このポセット港は昭和21年の6月限りで閉鎖されたそうだ。
その間に、働かされなくて困るような弱兵だけを選抜して、約3万~4万名ぐらい北朝鮮まで送りこんでいる。
(ポセット港を閉鎖したあと、日本への復員船はナホトカ港より出港)
また逆にいうと、私達とは入れ替えに北朝鮮より元気で働ける兵をシベリヤに移動させていたから、その数もまた3万~4万名という推察ができる。
昭和21年6月28日 ポセット港 抜錨
ロスケにしては今までになく手まわしがよく、たいして待ちぼうけをすることもなくて、第5回目の船だという【CAPTOB号】、2000頓ぐらいの船に乗船した。
2000頓級の貨物船に5000名もの人員が、乗ったというよりも、5000名もの人間というお荷物を積めこんだという感じで、兵だけでなく種々の荷物もいっしょだった。
船室は大入り満員である上に、暑いというので甲板で寝ていた者が、夜になってから雨が降ったといって船室に入ろうとしたが入れないため、階段のところで吹き雨にさらされた。
乗船してから、もらってもしようのない生米、生味噌、粉ミルクの支給があった。このあたりになるといかにもロスケらしいやりかただった。
船室の上のマストの下にいた警戒兵の給与はあまりよくはなかったらしい。煙草を吸っては、その吸い殻を偉そうに甲板上の日本兵の方に向って「ほら、吸え!」といわんばかりの身振りで投げていた。その吸い殻は、私達の吸い殻よりもまだまだみじめで、それを投げたときにはいつも小さい紙の折ったものだけが落ちてきた。
紙だけで煙草は全然見えなかったから、私達は「あのロスケ、だいぶ紙を吸っていただろう」とか「安月給だ」とか話し合っていた。
昭和21年6月29日朝 北朝鮮 清津西港 到着、投錨
乗船していた誰もが日本に帰国と思っていたが、それも、あわい夢。結局、着いたところは清津西港。
まだ明けきらぬ港の景色を見つめていた1人が「ここは間違いなく清津西港。」と断定し、どこの港かという論議のでるまでに地名探索の決着はついた。
港をみると戦場になったところらしく、いたるところに爆撃や砲撃された跡がそのまま残っていた。機械を取り外した跡や破壊した跡もあった。
岸壁に降り立ったら、暑さが急にやってきたような気がした。
港のまわりには人影もまばらで、そこら中の道路にも草がおいしげり、もと、清津に居住していた人が、全く昔の面影はないといっていた。
北朝鮮唯一の良港としての清津港の広さは分っても、1軒の家屋もない草のしげる荒野にたたずんでいては、その往年の繁栄を知るよしもなかった。
藤原氏三代の全盛を誇った中尊寺を訪れたとき「夏草や、つわものどもが夢のあと。」と詠まれた芭蕉の句は、日本だけのものではなさそうだ。
人の世のあるところ生存競争は絶えまい。
繁栄と滅亡、建設と破壊もあることだろう。
勝者があれば敗者もあること、世の無常を中尊寺の遺跡は物語っているのだと思う。
清津港の戦跡の物語る物質文明のもろさ、人の世のはかなさ。
しばらくの間、死亡者のことは聞かなかったのに、清津港に上陸した翌日「日本人が海に落ちた。2人だ。」と船の近くで怒鳴っているのがいた。
いそいで現場まで行ってみたがもう何もなかった。
栄養失調の2名の日本兵患者が、たった今落ちたばかりだというのに、その場所の海は実に無情にもすべてをのみこみ清算。
わずかに、古い防寒帽が1個、のたりのたりと波にまかせてただよっていた。
その落ちた人の戦友であろうか、波にただよっていた防寒帽を、せめても、遺品にするつもりか、ロップを投げてとりよせようとしていた。
栄養失調というのは、水におぼれたときにはその死体さえ浮いてこないもののようだ。
38度線(南北朝鮮間の国境)以北へ、転住の悲劇は、上陸の第1歩よりその「日本人が海に落ちた。……。」という悲鳴とともに始まることになった。
たった一昨日までは日本に帰国ということも心の底には秘めていたというのに、あわれというもおろか。
寒いか、または涼しかったシベリヤの6月から、1足飛びに白夜もない北朝鮮の6月末の暑さに直面。誰も体は身軽になり、昼の間は上半身シャツを脱ぎ裸で行動していたから、さんさんたる太陽のもとで肌は焼け、いかにも元気そうに見えるようになってきた。
清津港での滞在はそう長いものではなかったが、ここでもまた特別な意味で思い出を残した。
ここはシベリヤ以来の友との最後の集会所といったところになってしまった。
この清津港以後は、古茂山、富寧、平壌(ピョンヤン 北朝鮮人民共和国の首都、日本では、戦前これをヘイジョウといっていた。ロスケ側ではヒラジョウと呼んでいた)、咸興、新義州、鎮南甫、などと、日が経つにつれてちりぢりに行き先をかえた。
そしてそれら移動先の収容所でもまた、それぞれに不帰の友をだした。
古茂山、富寧の収容所では栄養失調の上に赤痢の追討ち。……私もかかった。
平壌※、鎮南甫の収容所で流行した【コレラ】などが、その命取りの親玉であった。
※平壌の収容所
正しくは平安南道大同郡秋乙津面(旧陸軍の自動車隊、貨物倉庫のあったところ)と同じく、大同郡三合里面(私が帰国前までいたところ)の2個所である。
この清津西港の荒廃した岸壁で野宿したときに、塩水で炊事し、ご飯も塩水で炊いて食べた。
また、草原を歩いて「あかざ」の先端の柔かい部分や、名の知れない雑草などで「したし」を作ったり、海草をとってきたりして食べた。
夜になると、夜露に濡れたら冬期に風邪をひかないということを聞き、誰も少々は肌寒いのをがまんして、毛布もかけずに星を眺めて寝たこともあった。
そのあとほとんどの者が冷えこみで下痢をした。
そのかわり、私も、体は衰弱しても風邪はあまりひかなかった。
生理的または医学的に根拠があるのかないのか、そんなことはしらないが、病気というのはある程度心の問題で、それの緊張感で多少は防がれるのではないかと思った。
興安嶺でソ軍との対戦中に、血便が1日に50回といった兵が、最後まで皆と行動を共にしていた。
また、水と野草しかないのに、それだけで2日間にわたり1日に17里(約68km)もぶっ通しという強行軍に耐え抜いて、ソ軍の戦車部隊に対抗もしてきた。
あるいはまた、日本軍側の軍医が話していた、1日に500カロリー※もないという給与のもとでも零下50度の極寒に耐えていたということ。
内地の土を踏んでからは、自分でも、そんなことが本当にあったのかいなと思うようなことがある。
※500カロリー
人間が生きていくための最低のカロリー数は、1日について2400カロリーだといわれていた
しかしこれらは、やればできたというだけのもので、その環境下にいた者の肉体的、精神的には、すさまじいばかりの変化をきたしていたことも考慮にいれないといけない。
肉体的な変化は外観で明白な事実として分かるが、精神的にはどのように感じとるものか外部からはうかがいしることはできない。
日本軍ではこの精神的な面だけの教育的効果を、あまりにも過大視していたように思えてくる。
これが強さにもなっただろうが、その反面に一大弱点にもなったのではなかろうか。
昭和21年7月1日 北朝鮮 古茂山 着
2日か3日の中に釜山に向って出発するとか、平壌に行くとか、復員船の来るのを待っているのだ、など種々な情報が乱れとびかっていた。
そんなことおかまいなく無蓋車に乗せられた。
汽車がトンネルに入ると、もう無蓋車の日本兵はそれこそ命がけ。
片手で台車に立っている棒をしっかとつかまっていたり、お互いに振り落とされないよう肩を組み、頭上より遠慮なく降り注ぐ火の粉交りのばい煙から身を守らなければならなかった。
蒸気機関車が遠くの方を煙をはきながら走っているのを見ると、それは力強くもありまた、田園地帯とか森林地帯を走り抜けている図を想像しただけでも一幅の絵。
しかし、それは遠方に見える蒸気機関車を眺めた景色のことである。
トンネルに入ったときに、その蒸気機関車の「火の粉交りのばい煙」様のお降りになる場所が、私達、無蓋車の上の日本兵の頭の真上とあっては、もうそんな詩的情緒などはみじんもない。
前の車の屋根の上から物すごい風速、風圧と共に吹きつけ、また降り注ぐ火の粉は、ただおそろしいばかり。
その生き地獄のような無蓋列車、それも、乗車までは暑さのため上半身裸の大将だった勇ましい限りの者も、へなへなの栄養失調兵にも、一様に火の粉を浴びせながらどんどん北上した。
その日の夕方、古茂山駅に到着。やれやれの思いで下車。
列車の後部の方に乗っていた者は、すすで黒くなっている私達と違って誰も涼しそうな顔をして下車。
下車するとすぐに、終戦の時からあったという日本軍の収容所に向った。
そこに行くまでの間、古茂山の市街のいたるところで『打倒日本』、『反日同盟結成』、『朝鮮独立萬歳』などと大書した看板やアーチがちらついていた。
古茂山にいるときは、戦時の遺物である防空壕で居住させられた。
ここにいる間にはよく雨に降られており、そのたびごとに雨の漏る穴から出て、先住者のいる宿舎で雨宿りをした。
また、ここ古茂山で、それまで私達と共にシベリヤから回送させられてきた朝鮮人の兵は、部隊より離れてそれぞれの故郷に向った。
もともと満洲国の興安嶺で、武装解除のあと、半島出身兵士は彼等だけで部隊を編制して自分の母国に帰っている。
それだから、朝鮮人は日本兵のようにシベリヤに行かなくてもすんでいたはずだった。「日本兵は日本に帰す」というふれこみを信じていて、日本兵といっしょにおれば日本に居住している両親のもとに早く帰れると思って、武装解除のあと半島出身だけの部隊には加わらなかったのだそうである。
これから皆と別れて帰国するという朝鮮人と、送っている日本人とがかわしている挨拶を聞いていると、そこには国境とか人種とかを全く感じることはできなかった。
そこで見られたものは1人の人間対人間の間での情だけ。
ここで皆と別れて出ていった朝鮮兵は、惜しまれて別れていき、無事に郷里にたどり着いたことと思う。
興安嶺での最後の戦闘のあとの夕方、2人連れだって逃亡した大川、宗本君という同年兵の半島人(出身が南か北か不明)のことを思いだした。
気の毒なことだが、彼等2人は、周囲の状況より察しておそらく荒野の露と化していただろう。