「制空権」
*キャプション
完全なソ軍の制空権
壕がそのまま墓穴となる友の数知らず
一〇七師団最後の戦斗
不寝不食
一昼夜の五重台高原
開戦の前日、8月9日、五叉溝の部隊にあと1里だからというので入隊のための荷物を網棚より降ろし、下車の準備をしていたら、ソ軍機の襲撃を受け、汽車は急停車した。
これが、開戦前の丁重なご挨拶だった。そのくらいだから、開戦より武解に至るまで、日本側に制空権なんかあったものではない。
戦闘の間、日本軍の飛行機には、とうとう1回も出合うことはなかった。
満洲国という日本の植民地内での上空だというのに、終戦直前の関東軍の戦力は、このように、もう往年の姿はなかった。
ようよう味方の飛行機と思ったのは、8月28日の朝、ジャライトッキで107師団の師団司令部へ停戦の大命を連絡するため、通信筒を落した、満軍のマークの入った飛行機を見ただけである。
しかし、その後を、おなじみのソ軍の戦闘機がぴったりとついていた。
我がもの顔に五叉溝を爆撃し、宣伝ビラをまき、夜があけると暮れるまで超低空で撃つ銃撃は思いのままというソ軍機に対し無力の上、8月14日の終戦も知らなかった。8月末迄の間、ソ軍に制空権を握られていながらようこそ命があったものと思う。
8月25日の銃撃は、特別にすさまじかった。
五重台高原で上空からの銃撃をかわすべき何らのものもない場所、大平原、上からはこんないい標的はまたとないと思っていたことだろう。
たこつぼだけが唯一の隠れ家になった。
至近弾の炸裂の瞬間、顔にひどい衝撃を感じた。すぐ顔に手を当て、おそるおそるその当てた手を見た。
血がついていない。
再び顔を押さえ、もう片方の手で、上衣の裏より繃帯包を出し、結び目を歯でかみ、ひっぱり包をといた。
中のガーゼでそっと顔をおおってから又とってガーゼを見た。やはり、血は出ていなかった。
その中に、そのことは忘れていた。
26日の朝、分隊長が、「おい、後地、その顔はどうした?」と言ってくれたから昨日のことを話した。
すると、関分隊長は、「運が悪かったのは、その弾の落ちた所に石があったんだなあ。」と、それから更に言葉をつなぎ、「でも、運がよかったのは、眼の下だったことだなあ。もう1cmか、2cm上だったら、眼はつぶれていたな。」と言っていた。
草原ではめったにないことだが、砲弾の破片が石ころをはじくことがあるそうだ。その破片の当てた石ころのため、翌朝になり、内出血の跡が生々しく黒ずんで、誰にでもすぐ分るようになっていた。
1番痛い個所は、頬骨の上だった。
もう1尺ぐらい、着弾地点に近かったらどうだったろうか。
真っ黒になり、傷だらけで私の生涯は終了していたはずである。
この内出血の跡は、シベリヤに行っても当分の間は残っていた。
日本に帰ってからは、シベリヤの病棟で、両腰骨と、尾骨の上にできた床づめの紫色の傷跡が25年頃迄もまだくっきりと残っていた。
“傷跡”、それは、どんな場合でも、いいにしろ、悪いにしろ、本人にしか覚えのないものなのだろう。
それには、心の場合もあろうし、体の傷もあろう。
戦傷病として認定され、その証明書の交付を受けたマラリヤは、夏ともなれば24年、25年になっても、まだもとの主人を慕って挨拶に訪れてくれていた。
頼まざる来客、離れて欲しい傷跡の一つ。
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