豊かさについて


「豊か」というのは、私財についてではなく、公共財についてのみ用いられる形容詞であるべきだと私は思う。仮にメンバーのうちの誰かが天文学的な富を私有して、豪奢な消費活動をしていても、誰でもがアクセスできる「コモン」が貧弱であるなら、その集団を「豊かな共同体」と呼ぶことはできない。身分や財産や個人的な能力にかかわらず、メンバーの誰もが等しく「コモン」からの贈り物を享受できること、それが本質的な意味での「豊かさ」ということだ。

内田樹の研究室2024-05-01 コミュニズムのすすめ

 うんうん、本当にそうだと思いますよ。「豊か」ということは多くのもの(なんでもいいんですよ、お金でも知識でも家でも車でも)を所有していることではない。それらを多くの人々(別に人だけじゃなくても環境とかでもいいんですけど)に差し出したり、共有することができること、それこそが「豊か」だというわけだ。
 だから思うわけだ、東京と別府だったらどちらが「豊か」だろうか。東京は経済、政治をひっくるめた日本の心臓であることは間違いないし、大規模な資本がうごめいている。タワービルディングが立ち並び、数秒の遅れも許さぬ電車は毎日きっかりその役目を果たす。そして華奢で明らかに値を張る服に身をつつみ大都会を闊歩する勝ち組たち。でも、それらが自発的で健全な連帯のうちに営まれてないのなら淋しく、空しいものと感じる。
 別府には高層ビルディングはないし、バスは時間を守らないは、財政が貧しいは、高齢化がすすんでいるはで、結構「さびれた」町だけれど、そこには「豊かさ」がある。よそから来た者に対して排他的にならず、私財を投げうってでも受け入れ、歓迎してくれる。
 別府は温泉が有名だけれども、温泉は誰でもがアクセスできる「コモン」なのだ。近くの銭湯に毎日いくと、だいたい顔見知りになるし、そういうのが実にいい。

 ちょっともう少し丁寧に書くべきだけど、まあ、いいや。

 豊かさにまつわる有名なエピソードがある。「善きサマリア人のたとえ」

<10:25>するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

<10:26>彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

<10:27>彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

<10:28>彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

<10:29>すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

<10:30>イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

<10:31>するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

<10:32>同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

<10:33>ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、

<10:34>近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

<10:35>翌日、デナリ二つ[注釈 1]を取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

<10:36>この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

<10:37>彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

ルカの福音書10:25-37

 祭司もレビ人(古代イスラエルの族長ヤコブの子レビを祖とする、古代ユダヤ教の祭司一族)も金も彼を癒す場所も十分にあったはずである。だけれども彼を助けたのは偶然そこを通りかかった、祭司よりもレビ人よりも金も実際的な権力もないサマリア人なのである。サマリア人は彼の傷口にオリブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をし、宿屋につれてかえる。そして、さらに余計にうまれる費用はあとで工面するという。
 サマリア人は祭司とレビ人より豊かである。豊かさを示す寓話でこれほど有名で分かりやすいものはないんじゃないかな。
 繰り返すけれど、「豊かさ」とは多くのものを持っていることではない。自分の持っているものを(たとえそれが相対的に少なくとも!)差出し、あるいは共有するができることなのだ。

 これはそのまま愛の話にもつながる。なぜなら与えるということは非常に愛と密接だから。例えばフロムは次のようにいっている。

しかし、与えるという行為のもっとも重要な部分は、物質の世界にではなく、ひときわ人間的な領域にある。では、ここでは人は他人に、物質ではなく何を与えるのか。それは自分自身、自分のいちばん大切なもの、自分の生命だ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなく、自分のなかにいきずいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているものすべてを与えるのだ。

エーリッヒ・フロム 「愛するということ」


 詰まるところ、どんなに素晴らしいものをもっていたとしても、それを仲間のために使えないような人間は大したことのない人間ということ。以上。ピリオド。

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