うんうん、本当にそうだと思いますよ。「豊か」ということは多くのもの(なんでもいいんですよ、お金でも知識でも家でも車でも)を所有していることではない。それらを多くの人々(別に人だけじゃなくても環境とかでもいいんですけど)に差し出したり、共有することができること、それこそが「豊か」だというわけだ。
だから思うわけだ、東京と別府だったらどちらが「豊か」だろうか。東京は経済、政治をひっくるめた日本の心臓であることは間違いないし、大規模な資本がうごめいている。タワービルディングが立ち並び、数秒の遅れも許さぬ電車は毎日きっかりその役目を果たす。そして華奢で明らかに値を張る服に身をつつみ大都会を闊歩する勝ち組たち。でも、それらが自発的で健全な連帯のうちに営まれてないのなら淋しく、空しいものと感じる。
別府には高層ビルディングはないし、バスは時間を守らないは、財政が貧しいは、高齢化がすすんでいるはで、結構「さびれた」町だけれど、そこには「豊かさ」がある。よそから来た者に対して排他的にならず、私財を投げうってでも受け入れ、歓迎してくれる。
別府は温泉が有名だけれども、温泉は誰でもがアクセスできる「コモン」なのだ。近くの銭湯に毎日いくと、だいたい顔見知りになるし、そういうのが実にいい。
ちょっともう少し丁寧に書くべきだけど、まあ、いいや。
豊かさにまつわる有名なエピソードがある。「善きサマリア人のたとえ」
祭司もレビ人(古代イスラエルの族長ヤコブの子レビを祖とする、古代ユダヤ教の祭司の一族)も金も彼を癒す場所も十分にあったはずである。だけれども彼を助けたのは偶然そこを通りかかった、祭司よりもレビ人よりも金も実際的な権力もないサマリア人なのである。サマリア人は彼の傷口にオリブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をし、宿屋につれてかえる。そして、さらに余計にうまれる費用はあとで工面するという。
サマリア人は祭司とレビ人より豊かである。豊かさを示す寓話でこれほど有名で分かりやすいものはないんじゃないかな。
繰り返すけれど、「豊かさ」とは多くのものを持っていることではない。自分の持っているものを(たとえそれが相対的に少なくとも!)差出し、あるいは共有するができることなのだ。
これはそのまま愛の話にもつながる。なぜなら与えるということは非常に愛と密接だから。例えばフロムは次のようにいっている。
詰まるところ、どんなに素晴らしいものをもっていたとしても、それを仲間のために使えないような人間は大したことのない人間ということ。以上。ピリオド。