はじまり

 髪を切る。そうすると少し、頭が軽くなって前より身動きがとりやすくなる。この身動きがすこしでも良くなるというのを個人のレベルで普通の生活のなかでどうやって実践していくのかが実は大切な気がするわけで。こんなへんちくりんな文章を書くのも僕のささやかな実践の一つというわけだ。ある方向性にむかって書き出すというのはあんまり好かない。なにかを見て感じたことをアーカイブするとか、目に見えるかたちに置き換えてみようとか、そういう欲望に駆動されているわけで。実際書いていたら、何かをおもいだしたりしたして、そっちに乗り移ったりできる。基本的に同じところにずっといるというのが性分にあわない。だから自分でもなにを書いているのか分からないし、なにをしているのかわからない。まあ、でもそれでいい気がしてきた。特定の方向性に縛り付けられて一直線に走ってゆくっていうのは確かに立派で世間さまは褒めてくれる。そうじゃないと枠組みとして立ち行かなくなるし。まあでも、アップルのジョブスがいっているようにドットとドットは後でつながるし、意味付けなんていうのはあとでどうとでもなるというわけだ。これは意味の追求者になるか日々の実践家になるかという二者択一の問題というわけだ。
 ここはnoteなんだし、ものすごいかる~い文章を意識していこう。うん、そうしよう。内容さえ、つかめていれば、表面上の文体なんていうのは後でいくらでも変更できるんだから。たぶん。書く内容がないから、書かないじゃなくて、書いていると話がまとまってくるわけだ。きっと、それは話すこと(スピーキング)でも全くおんなじだろう。話すことなんてない、それでも口を動かす。アタマが先にあるんじゃなくてカラダが先にあるということ。そう、ダンス・ダンス・ダンスというわけだ。意味とか内容を最初に決めてしまうとはっきりいって効率がわるい。ペダルをこがなきゃ前には進まないということ(いや別に「オレは前に進みたくなんかない、ここで居座っているんだ」という人はしなくていいけど、友達にはなれないな、きっと。だって話ができないんだもん)。
 だんだん書いていると次から次へとぼくの内側にあって眠っていたものが文字になっていく。何度もいうけど、こういうのを書くというのは僕にとって、ご飯を食べるとか風呂に入るとかそういう生活の一部なわけだ。
 すこし、友達について書いてみよう。最近僕のなかでわりかしはっきりとした基準のようなものが芽生え始めた。そうは、その人と一緒にいた「後」(Afterです、After!)に自分自身が元気で気分が良かったら、その人とは今後も長い付き合いをするべき。反対にその人と一緒にいた「後」にどうしてか落ち込んでたり、気分が悪くなる場合は距離を自覚的に置こうというわけだ。言葉にしてみると当たり前にみえるけど、つまらん人と我慢してでも一緒にいる自分がどこかにいるわけで(そういう人多いんじゃないのかな)。仕事でどうしても顔をあわせなきゃいけないとかってのはこれとは全く別問題ですよ。それはそれでいかに消耗せずにやりすごすかという話だから。で、そういう会ったあとにお互いが元気になれるような関係をいくつもっているかと聞かれれば、かなり少ない(あるっちゃあるんですけどね)。だから、友愛を描く、小説とか映画なんてくさるほどあるわけで。
 ざーと1400字くらい30分くらいかけて書いたけど、結構つかれる。集中して何かを(こんなへんちくりんな類でも!)書くのにはエネルギを要する。
 話にまとまりがないし、ずいぶん飛躍しているところもある、でもいいのそれで、と自分に言い聞かす。仕事でもないし。はっはっは。
 これは初回だし、気張りすぎると三日坊主になることが目に見えているのでここらへんでお開きにします。


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