つまらなさ=入れ替え可能

 つまらなさの根源の一つに入れ替え可能性がある。平たくいうと「自分でなくてもいいんだ」という感覚のこと。ここにいるのは〈わたし〉でなくてもいいんだ、という感覚はつまらなさ、やるせなさを誘発する。条件的承認と全面的承認はこの文脈において峻別される。「あなたは顔がいいから/金があるから/地位があるから…私はあなたを必要とし承認する」という条件的承認において「それって私じゃなくてもよくない?」を誘発する。なぜって、自分より顔が良くて/金があって/地位がある人間は腐るほどいるからだ。顔とか金とか地位といった記号に実存が押しやられフラット化した時空を生きる時、人はつまらなさを感じる。実はこのつまらなさは多くの場合家庭で育まれる。「あなたはお勉強ができるから/運動が出来るから…承認する」親が多い。鋭い子は、私よりお勉強が出来て、運動が出来る人がいることを知っているので、そこに至上の喜びは見出せない。鈍感な奴は「お!褒められた!どんどんやろう!」とラットレースに参入し相対的な時空を果てしなく漂う。一方の全面的承認はカテゴリーという相対的なものではなく、「〈あなた〉だから〈あなた〉を尊重し承認する」という絶対的なものとなる。自分より優秀な人間がいようが、そんなことは関係ない、〈わたし〉という一人の人間が何の理由を負うこともなく承認される。全面的承認は純粋な生の拠点の肯定であり、条件的承認はシステム的な生の肯定である、といえる。条件的承認は所詮、入替可能であるが全面的承認は入替不可能なのだ。社会=入れ替え可能な時空に対する、愛の共同体=入れ替え不可能な時空という対比。
                                                                  2024.7.22
 

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