反復と幻想


 絶えざる情報の生産と、それを消費するだけの人間という関係が極限まで引き延ばしていく力学がはたらいているのが僕たちの住処なのかもしれない。終わらない情報のつまり主に記号を媒介とした信号を僕たちは引き受け続けることで思考をつくり、思考は行動をつくり、行動はさらに思考を確かなものにする。

僕の住んでるのはそういう世界なんだ。港区と欧州車とロレックスを手に入れれば一流だと思われる。下らないことだ。何の意味もない。要するにね、僕が言いたいのは、必要というものはそういう風にして人為的に作り出されるということだ。自然に生まれるものではない。でっちあげられるんだ。誰も必要としていないものが、必要なものとしての幻想を与えられるんだ。簡単だよ。情報をどんどん作っていきゃあいいんだ。住むんなら港区です、車ならBMWです、時計はロレックスです、ってね。何度も何度も反復して情報を与えるんだ。そうすりゃみんな頭から信じこんじまう。住むんなら港区、車ならBMW、時計はロレックスってね。ある種の人間はそういうものを手に入れることで差異化が達成されると思ってるんだ。みんなとは違うと思うのさ。そうすることによって結局みんなと同じになってることに気がつかないんだ。想像力というものが不足しているんだ。そんなものただの人為的な情報だ。ただの幻想だ。

村上春樹 「ダンス・ダンス・ダンス」p436

 

 しかし、情報を生産し続けるひとが全知全能で、それ以外が従順な群衆というように現実を引き受けることは間違っていると思います。あくまで現実をより芳醇なで立体的なものとして浮かび上がらせるために、一時的に二項図式を用いるべきだということです。この場合だと、情報を生み出すものと情報を消費するもの、という対比です。

 身の周りを冷静に見渡せば、さまざまなものが奇妙に映る。例えば時計。
時計の役割は現在の時間を知るということ、あるいはそれに基づいて未来に対して予定を打ち出すということです。つまり、時刻を指す針が的確な位置を指し示してさえいれば、それで問題なしということです。しかし一度、貴金属が時計の淵に配置されればそれは多くの人々がこころから希求するものへと変化する。一度、時計にシャネルやらロレックスの印が押されると、それが「本当に価値のあるもの」だと思い込む。

 情報の絶えざる反復によって人間の意識下に定着されたとき、それは情報の勝利であり、経済の勝利であり、なによりそれらをひっくるめたシステムの勝利である。

 しかしこのシステムの勝利に甘んじている人がいかに多いことか。住むなら港区。車ならBMW。時計ならロレックス。学歴なら東大。職業なら医者か弁護士。情報のラットレースで繰り広げられる、果てしない闘争は人をかなりの確率で間違った方向へ導く。そしてたとえ、ラットレースの勝者になったとしても、あなたを覆いつくすのは寸分先の見えない虚無感だけだろう。

 人間の意識と無意識の大部分が言語としての記号が幅をきかせているのだから、特定の人間に記号を反復して与え続けるというのは実に理に適っている。記号の反復によって「本当にそうだとしか感じられない」人間をつくったとき、人間は力を失う。記号的な反復とそこから―運がよければー得られるかすかな自己の確からしさ、しか手元に残らないからだ。

 勝ち組になれば、つまり記号の反復としてのラットレースの勝者になれば
もっと単純にいって、東大を出て、金持ちになれば、幸福になれるかというと、ノーということです。なぜそのようなことが分かるか?そういう人は身内でもいたし、そういう話をきくことが多いからです。

 それならば、どうするか?それは個人の経験と人との関係によって個人的にうまくいく方法を模索する以外にないと思います。


 きみの立っている場所を深く掘り下げてみよ。泉はその足元にある。
 ここではない何処か遠くの場所に、見知らぬ異国の土地に、自分の探しているもの、自分に最も合ったものを探そうとする若者のなんと多いことか。
 実は、自分の視線が一度も向けられたことのない自分の足の下にこそ、汲めども尽きせぬ泉がある。求められるものが埋まっている。自分に与えられた多くの宝が眠っている。

超訳 ニーチェの言葉 p194

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