在り方のラフスケッチ



1.導入、掴みとして

 そこに2つの生き方があるとしたら、あなたはどちらをたぐい寄せたいだろうか。いろんな装飾を端折っていうと、こういうこと、つまり、ひとつはツマラナイ在り方、もうひとつはワクワクする在り方。これじゃなにをいっているのかさっぱり不明なのでいろんなパラフレーズ(言い換え)と経験をもとにスケッチしていこう。ツマラナイ在り方とはどういうことか、それは社会が採用する価値を過剰に取り込み、それを意識の深層で駆動させる在り方ということ。言葉で覆いつくされたスーパーフラットな空間でしか認知を働かせることしかできない「言葉の自動機械」、共通感覚の喪失ゆえにお互いが疑心暗鬼なので明文化された法とルールにへばりつく「法の奴隷」、ものごとをすべて「得か?損か?」でのみ判断する「損得マシーン」という在り方(@宮台)。
 結構長いので、「初めから読むのかったるいわ!」って人は脱・ツマラナイの在り方の模索から読み進めるのもアリだと思います。


2.社会って何だろう

 このラフスケッチは個人の実存(今ここにいるワタシ)に照準を向けて書かれています。ワタシは気づいたら社会の中に放り込まれていて、なにやらめんどくさいことがどんどん持ち上がるという形をとって生が進んでいくという風になっている、というのがざっくばらんな僕の認識です。なので社会がどういう風になっているのか、そもそも社会ってなに?みたいのを確認していくことがこのラフスケッチではとても大切になってきます。

 だから社会とは、ただ生命の維持のためにのみ存在する相互依存の事実が公的な重要性を帯び、ただ生存にのみ結びついた活動力が公的領域に現われるのを許されている形式にほかならない。(『人間の条件』6)(強調は私によるもの)

 要は、社会とは生存のため(飯を食うとか、そういうこと)の枠組みとして、公的な意味をもった形式にすぎない、ということをアーレントはいっている。そういうただの形式、言い換えれば枠組み、約束事、取り決めに乗っ取られていいのかということ。

 社会を支えるエリートについて。男は特にエリートになればokみたいな価値観を抱いている人が多いけれど、果たしてそうなのだろうか。
 自分の身近な例で恐縮だけれど、祖父は東大出て会社の社長になったし、父親も有名な大学を出て社会的地位のある職についているし、兄も北大出て、院までいって弁護士になろうとしている。身近な男の多くは社会のエリートとエリートの卵だ。でも身近で接していて感じるけど、なんか楽しそうじゃない。いってしまえば結構苦しそうだ。エリートなのに幸せそうじゃない、これが結構大事なポイントなってきます(1995年のサリン事件とかもこういうところから言及出来るけれどここではいいです)。
 競争を勝ち抜いたエリートが幸せじゃない、というのは結構ポイントです。エリートが抱えるツマラナイ日常ということです。エリートは何かと力(PowerではなくEnergy)が足りていない。社会の中での垂直的上昇だけではツマラナイ存在になってしまう。これは実にツマラナイ/ワクワクの在り方と近接したものです。インチキな承認とここは繋がります。外的な確からしと内的な確からしさ。そしてここでは厳密な記述はできないけれど、何年かかけてやっていこうとする部分になる。

 ツマラナイ/ワクワクの対比は歴史(タテ)を参照するといいかもしれない(タテは歴史、ヨコは比較、地理、それとデータ=算数 @出口)。ツマラナイ/ワクワク=キリスト教的/ギリシャ的という図式です。キリスト教はif-then構文を採用していました。どういうことか。if(もし) 善き行いを実践すれば,then(そうすると)死後、救われる。このような、プログラム的に、内側から湧き出るものではなく、外圧によって行動を決定する在り方を推し進めるのがif-then構文。そして、そういう在り方を徹底的に糾弾したのが、ギリシャの人々。そういう条件プログラム的な在り方はツマラナイ。そういう力を失ってしまう在り方にしっぽは振れない人々。「世界はそもそもデタラメなんだから、神はお前など見ていないぞ、馬鹿垂れ」と言い放つ人々。
 19世紀に活躍したプロテスタント神学者シュライエルマッハは、<エジプト的>思考を「主知主義」intectualism、<ギリシャ的>思考を「主意主義」voluntarismと呼びます(@宮台)。
 話を本線に戻そう。まだまだ細かい歴史的経緯とかはあるんだろうけど、ひっくるめていうとツマラナイ/ワクワク=閉ざされ/開かれ。何に閉ざされるのか、言葉(ロゴス)と法と損得。それでいいのかという問題意識であって、それはギリシャまでさかのぼれるし、歴史を参照する必要に迫られる(※ロゴス/エロス=切り離し/結びつき)。



 だれもが「充実した生」を望む、そして美しい理想と動くことのない現実のあわいのなかでもがき、それでも生をつないでいる。「なんとかもがきながらも、それでも生をつなぐ」行為そのものが、ご飯を食べるとか、人とコミュニケーションをとるとかから成る生命維持としての日常、そしてその規模が臨界値(ダンバー数参照)を超えた先にあるスーパーフラットで公的な機構としての社会。フィクションを共有して成り立つ集団(想像の共同体)。
 そしてそのなかで私たちは自分らの意思とは関係なく投げ込まれて生きてゆかなければならぬ、条理と不条理、運命と意思のはざまで規定される生がそこにはある。そういうものが人であるかぎり影のようにつきまとう「いかにして充実した生は可能か」という根本問題と近接している。表層を眺めれば皆違う表情をしているけれど、表題の「在り方」というのはこの生への向き合い方のことを指す。ツマラナイ/ワクワクという実に人間感情に乗っ取った形での対比された生への在り方を指す。不規則で、さざ波のような人間感情を、可能な限りその交際圏を広めること、つまり共感と同時に反論を呼び起こすための「手段」としての言葉への翻訳がそこにはある。それが実際、先人たちが試みてきたことであり、それが学生のうちの出来る最大の「なんとかもがきながら、それでも生をつなぐ」行為と思うわけである。最も留意すべき点は現場は違えど、小説家だって芸術家だって、サラリーマンだって主婦だってもしかしたらネコちゃんだって意識の浮き沈みに違いはあれど、生活者として自覚している限りは皆、盟友なのだ(ランナーなのだ)。「あなたの日常はどうしてそんなにつまらないのか」=「あなたはどうして充実した生を営むことができないのか」という通史、歴史のなかで問い続けらてきたOpen-Question(開かれた問い)に閉ざされの態度で殻にこもっていていいのかという問題がそこにはある。
 このOpen-questionはしかし、人を傷つける。実存(いま、ここにいる私)に風穴をあける。それはそうだ、だって、「おまえはどうしてそんなにツマラナイことをしているのか、馬鹿なのか?」というQuestionの衣を纏った批判だからだ。と同時に、それが人々を連帯させる力学への活路を見いだすこともできるはずだ(してきたはずだ)。つまり、どうしたらワクワクの状態に持っていくかを集団的に実践するということ。厳密にいうと、どうしたら集団体な恍惚状態(=祝祭と性愛)は実現できるのかを模索していく力学(動機づけ)にもっていゆけるはずだ。
 この文章はまさに暗中模索のさなかで書かかれている。自分が書いたことに、ある程度、納得することは出来ても、全体がさっぱり見ないがゆえに生まれる自分への懐疑心が含まれている。まあ、そういう類の感情は何か作ろうとか、何かを転換していくという意思に悖る行為をしようとするなら、必ず陥る心理過程だと思うし、99パーセントはきっとそういう曇天のうちに行われる。はじめに直感と示唆があり、そのあくまで個人的な直感と示唆とを人々に共有可能な言葉への翻訳がある。そう、それはまさに翻訳なのだ。アモルファスなものを言葉に打ち立てていくこと、それ自体、愉悦的な行為なのだ。世界とそこに身をおく人間の身体と精神は実に多くの直感と示唆に溢れている。


3.ワクワクの在り方ー出生~小6ー

 自分の経験を振り返りながら、ツマラナイ在り方と対比しながら書き進めていこうと思う。まず大枠として、小1~6/中1/中2~高3
=ワクワクの在り方/移行期/ツマラナイ在り方と分類する。

 まずは小1~6のワクワクの在り方から。ワクワクがどういうことかは僕のエピソードを参照すればおのずと浮かび上がってくる。
・放課後は(ほぼ)毎日、公園か友達の家で遊ぶ
・人の家の窓をサッカーボールで割ってしまう
・つかみあいのケンカをする
・山を駆け巡る
・とにかく怪我が多い
・秘密基地を作る
・先生に怒られるのが仕事

 こういう社会化以前のワクワク期は毎日、力がみなぎり、暇があれば友達と悪さをする。走る。けがをする。先生を怒らす。懲りずにまた悪さをして怒らす。しかし、仲間と共に共犯的にこういうのをやっているので自然と絆が出来る。そして女の子にもモテる。そりゃあそうだ、だって側にいれば力を享受でき楽しい時間が過ごせるのだから。だから話が脱線するけれど、モテるモテないの本質的な部分は力の受け渡しの過程にある。それはまあいまはいいや。同じフローに乗って遊ぶことが出来る。まとめると、ワクワクの在り方とは内から力が湧く状態=面白い状態=同性と共犯的な関係を結べる状態=異性にも力の受け渡しが出来るがゆえにモテる状態。これが基本的にワクワクの在り方だと思う。

4.転換期においてー中学1年生ー

 小学生を卒業して中学に入るとガラっとおおきく身の周りが変わる。制服の着用とかいろいろあるけれど、もっともおおきな変化は内申点制度への適応だ。5教科から始まり副教科も5段階で成績付けされる。その結果が高校入試に直結するというのだから、なんとなくだけど危機感をもつ。細かいことは覚えていないけれど、一番最初に受けた内申点はCランクだった。これを受けて僕は担任の先生も親も「きみはもっといい成績をとれる」とケツを叩かれながら、勉強した(のだろう)。すると次の内申点はAランク(これが最高ランク)を取得。当時のことはよく覚えている。僕の心のなかでは、「今回はいい成績をとれたけど次同じ成績がとれなかったら親と教師を落胆させてしまう」。そういう将来しかイメージ出来なかったので不安な気持ちで押しつぶされそうだった。でもなんとか、次もAをとれて「出来るやつ認定」されるようになる。これが本当に大きな分岐点だった。最高成績を維持できると、親も教師も喜んでくれる。だから自分の役割は最高成績をとり続けることだと思い込むようになる。つまるところ「社会化」がそこにはあったわけだ。つまりツマラナイ社会への適応がそこにはあった。でもそれは実存的にはツマラナイ在り方への移行そのものだった。

5.ツマラナイ在り方ー中2~高3ー

 中1の社会化を通じてシステムに順応してさえいれば、親も教師も良くしてくれることを知った僕は、それにのめりこむ(=ツマラナイ在り方へ)。学校のお勉強が出来ればいい思いができるので、完全にそっちの方向に突っ走る。中2も全学期Aランク。中3も全学期Aランク。実力試験も常に上位。ゆえに多少の心配はあったけれど、一番難しい公立校を受けて問題ないと。しかし、なんと不合格!内申システムと試験とを通じて自分を作り上げていた僕としては大変苦しい。試験に落ちることよりも、そういう実存(いま、ここにいる私)が否定されることのほうがよほど苦しい。そして別の高校の進学コースに入学するのだけれど、こんなにツマラナイことがあるかってくらいツマラナかった。高校だって中学と同じ論理で動いているわけで、成績が良好だと(インチキな)承認が得られる。内申システムとあらゆる試験から得られる確からしさ=承認(=自分はokだと思えるか)は相対的なものである。まわりに出来るやつが多ければ、得られる承認も少ないに決まっている。中学でつかまされたインチキな承認を頼りに高校でも同じことを試みようとした。このインチキな承認を「外的な確かさ」という。内から揺らぐことない確かさではなく、常に相手に確かさの手綱を渡してしまっている状態のこと。これ環境が変われば余裕で苦しくなります。
 話が少しずれるけど、いわゆる学歴厨はいつか掴まされたインチキな(=外的な)承認を手放せずに自己を規定するインチキ野郎のことを指す。他にも何かあれば偏差値がいくつだとか、肩書を持ち出したりする輩がいるけれど、そういうのはまったくインチキなので近寄らないようにしよう(自戒の念をこめて)。インチキな野郎とは外部にそれもツマラナイものに自分の確からしさを明け渡してしまっている人を指す。
 本線に立ち戻ると、僕は思うように承認が得られない不全感を克服しようとなんとかするわけだ。人によっては音楽をするとか、スポーツをするとか。僕の場合は、本を読むことで、承認が得られない、空虚な時間、ジブンという透明な存在を埋め合わせようとした。本の世界はうるさい規則もないし、好きなときに行って好きなときに帰ってこられる。だから学校の授業中も隠れて本を読んでいたし、学校が終わったら、離れにある図書館に直行する。学校の勉強はたいした承認を得られないことに気づいていたので、たいして身にならない。濃密な時間を読書を通じて獲得して、なんとか生きながらえようとした。数字と指標で埋め尽くされたスーパーフラットな空間としての学校的日常に避難所としての役割を本に見出していたわけだ。

 つかまされた外部の承認を持ちうる全能力と労力を注ぎ込み獲得していくもの(=エリート志向)と、つかまされた外部の承認が頓挫したのでほかのもので濃密な時間を確保していくもの。

 勉強さえ出来ればそれでokと盲信させる多くの学校的な価値観は間違っている、と思う。でもそれはまた別の話だ。
 多くの本を読んでいたので、だんだんこのツマラナイ在り方に直観的に疑問をもつようになる。なんか腹が立ってくる。高3くらいからそういう風になっていった。たまたま、弁論(原稿書いてスピーチするもの。起源はギリシャまでさかのぼる)のサークルに入っていたので、それなら!と書いたのが以下の原稿。

6.不完全な主張


彩を為すグレー (題名)

「生と死はその対極ではなく、その一部として存在している」
 小説家、村上春樹の代表作「ノルウェーの森」に登場する台詞です。この台詞を見た時、私は混乱しました。なぜなら私は死ぬということは生きることの真逆にあるものだと思い込んでいたからです。しかし、ある出来事を境にこの台詞が私にとって特別な意味を持つようになりました。
 それは私が高校二年生の冬、私の家で飼っている犬が出産を終え、四匹の新しい子犬たちを迎え入れようとしていた時の出来事です。誰もこんな経験をしたくはないでしょうが、その日、一匹のまだ名前すらない子犬が私の掌の上で死んでいきました。今となってはなぜ死ななければならなかったのかは分かりません。しかし、少しずつ失われていく体温や止まらない身体の硬直の感触は私に、生きることと、死ぬことは対極にあるのではない。ということを直観的に伝えたのです。
 私たちは生まれてから死ぬまでの過程を「一方通行」として捉えることを当然として生きています。今この瞬間も着実に「死」へ向かっていて、その流れには決して抗うことができないと考えています。しかし、私はこう主張します。私たち人間は生と死を行き来する存在であり、ある時点では「生」に、そしてある時点では限りなく「死」に近ずくグレーゾーンな存在なのだと。皆さんにも「もうあの時の自分に戻ることはできない」と感じることはありませんか。それはある時点で皆さんが一度死んで、生まれ変わったからに他なりません。
 そして私たちは生と死がその対極にあると思い込むように、男と女、健常者と障がい者、大人と子供、自分と他者といったものが、その対極にあると勘違いしていると思うのです。しかし、それは集団的な思い込みに過ぎません。先程の話のように私たちは二つの対極にある概念を行き来するグレーゾーンな存在だからです。男女差別や、環境問題、それにマイノリティへの配慮が行き届いていないといった社会問題はこの二項対立で語る無意識のクセが端を発していると思います。この二項対立を乗り越えるためには、やはり、「私たちはグレイゾーンな生き物である」という認識が必要不可欠なのです。
 「そんなのは机上の空論だ」と思う人も中にはいると思います。私もこの考え方を夢想家の理想論で終わらせたくはありません。より実践的な形で私たちの生活に取り入れないと意味が無いからです。そこで提案します。もう少し自分や周りの人たちに寛容になれないでしょうか。ここで言う「寛容」とは他人の悪事を見逃すといった類のものではありません。ここでいう「寛容」とは、今まで見たことも、聞いたこともないものに出会ったとき「まあ、そういうのもありだよね」と言えることです。寛容さを失った社会は悲惨です。それは歴史が証明済みです。かつてドイツは寛容さを失い、罪の無いユダヤ人を600万人虐殺しました。そして同じ頃、日本でも犬養毅総理大臣が殺害される所謂「五・一五事件」があり社会は混乱を極めました。「働けば自由になる」、いいえ、そこにあったのは絶望。「話せば分かる」、相互理解の望みをかけた犬飼氏の言葉を「問答無用」と切り捨てた海軍青年将校。グレーゾーンを無視した後に待っているのは暗黒時代そのものです。
 「歴史は繰り返す」哲学者であるカール・マルクスはそう言い残しました。ウクライナ侵攻然り安倍前総理大臣の殺害然り。歴史の教科書でしか習わない悲劇が繰り返されている今だからこそ、わたしたちにとって必要なのは卓越した科学技術などではないはずです。
「まあ、そういうのもありだよね」と言える寛容の精神のはずです。
 最後に。もう一度、いえ、何度でも繰り返します。生と死や男と女、教師と生徒それに、肯定と否定といった二項対立で語られる白黒テレビみたいな殺風景な世界は終わりにしませんか。そしてグレーゾーンを認めあってカラーテレビのような彩のある世界に塗り替えてしまいませんか。(1611字)

 「なんだ、ただの長いポエムじゃん」と思われるのが嫌なので説明を付け加えるておくと、この原稿は第67回文部科学大臣杯全国青年弁論大会(全国最大規模の弁論大会) 青年の部で二位になったもの(結果はどうでもいいとしてアクションに移したことを強調しておく)。

 最後の「白黒テレビみたいな殺風景な世界は終わりにしませんか。そしてグレーゾーンを認めあってカラーテレビのような彩のある世界に塗り替えてしまいませんか。」に当時の思いがすべて託されている。
 スーパーフラットな価値観が覆いつくすツマラナイ在り方からめちゃくちゃで彩のあるワクワクの在り方への意思がうかがえる。文字にはなっているけれどまだ、自覚的になっていないのがこの時期(高3の11月)だったわけだ。しかし、ここに書かれたものは相対主義的な、逃げの姿勢で書かれた感が否めない。不完全な主張と言わざるをえない。

7.ツマラナイ在り方の例

 ・ツマラナイ在り方=力(Energy)が奪われている状態なので、その人、場所に行ったあとにドッと疲れる。それは肌感覚の問題に近い。学校が基本的にツマラナイのはそういう理由。あそこは集団的に力を失う場所。
 ・「インチキな承認」をつかまされて離せずにへばりついている例。学歴厨、肩書厨など。男性優位な社会ゆえ、男に多い。
 ・「勉強できないと立派な人間になれない」と信じ込んだバカな親が子供に少しでも高い社会的地位がつくように受験勉強ばかりさせる。受験の低年齢化へ。
・「未成年だから、酒は、たばこは絶対だめだ」と神経症的にいってくる人
・とにかく細かい人
・不機嫌な人(まわりをげんなりさせる時点でアウト。力を奪っている存在。)
・言葉の背景とか発言の背景に目を向けず、ぎゃあぎゃあ言う人
・人間関係に損得を持ち込む人

8.脱・ツマラナイ在り方の模索

 正直言ってこれまで書いてきたものはこのチャプターを書くための準備に過ぎない。このパートがメインだという認識で了解されたい。ここにひとつの世の摂理みたいのがある。それは「人を幸福にする人間が幸福になる」というものだ。なにをもって人を幸福にできるかについては見定まっていないけれど、幼少の記憶を遡ると、「人を笑顔にすることができる状態は『ワクワクの状態』である」ということがわかる。こういうのが実は本当に大切だったりする。

「もらうために与えるのではない。与えること自身がこのうえない喜びなのだ。だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かがうまれ、その生まれたものは自分に跳ね返ってくる。本当の意味で与えれば、かならず何かを受けとることになる。与えることは、他人をも与える者にする。たがいに相手のなかに芽生えされたものから得る喜びを分かちあうのだ」

愛するということ p44,45 エーリッヒ・フロム 鈴木昌=訳 紀伊国屋書店


 ツマラナイ在り方からワクワクの在り方への移行には必ず自尊感情に傷が入るうえ、そのまま社会に順応できるのなら、戻ってくる必要に迫られない(でも本当にそれでいいの?)。それでもツマラナイ在り方はいやだ、ワクワクの記憶があり、つまり参照点が記憶にあって、それを辿ってゆきたいという意思があるのなら、何年かかろうとやる価値は十二分にあると思う。
 そういう記憶がない、あるいは身の回りにワクワクの在り方をとる人がいないというなら、それは過去の善きアーカイブを参照するしかない。
 正直いって、ツマラナイ在り方からワクワクの在り方への移行の道筋は個別の事情を多分に含むため、千差万別である。なので、こうすればこうなる的なノウハウは全くといってない。だけれども、そういう個別の事例の裏には一貫とした摂理(に近いようなもの)が隠れている。それは他者の喜びを自分の喜びに反転する感受性である。そうここがポイントなのである。他者の喜びを経由し再帰的に喜びを享受する方向性、が大切だということ。ジブン→ジブンへの喜びの創出は個人差はあれどすぐに頭打ちになる。一方、ジブン→他者→ジブンというように他者を媒介とした再帰的な喜びの創出には、限度がない。多くの人は自分大好きだから、つまり「自分可愛さの檻」の中で自己満足して周りの人に意識が向かない。でもそれじゃワクワクの在り方にはなれないじゃないですか。自分が可愛いのはわかる、それはもう生存上の本能の部分とも関わってくるから、そういうものだと受け入れる。問題はそこからジブン→ジブンの喜びの流れ(=ツマラナイ在り方的)を採用するのか、ジブン→他者→ジブンの流れ(=ワクワクの在り方的)を採用するかということ。「自分可愛さの檻」の住人でいるのか他者性に開かれた尊敬される人間になるかの分岐点がそこにある。はっきり言って、こういうことはまず間違いなく学校で教わらないし、教科書にも載っていない。自分の経験とかから学ばなければいけない。大切なことは経験とそれを言葉に起こすこと。
 そして、何より大事な質問だけれど、友達あるいは恋人にしたいのはどちらのタイプの人間ですか?自分のことしか考えられなくて、なんかフラフラした人か他者を喜ばせようと動機づけられて、善きことをしてくれる人。明らかです。で、この話には続きがあります。前者の喜びの流れを採用する人は友達とか恋人がいないので、不安になります。人ってそういう生き物ですよね、他者から「you=あなた」として眼差されないと苦しくなります。「お前なんかいてもいなくても変わらない」と言われるほどきついことはないです。ここら辺は条件的承認と関わってきます。勉強が出来れば学校と親から承認されます。でも、勉強が出来るやつは死ぬほどいます。だから入れ替え可能です。人の入れ替え可能性は人をハッピーにしてくれません。逆に家族、友人、恋人の関係性においては「あなたじゃなきゃだめ」という確固たる承認が得られます。「明日から佐藤さんの息子になりますから、では」というのは無理です。つまり、人間関係における承認は入れ替え不可能性を前提にされています。これは人をハッピーにしてくれます。  
 承認がないと、つまり繋がりがないと人は苦しいです。苦しいと人は神経症的になります。神経症的になると、ささいなことにキレたりして最終的に人を憎んだりします。「オレ/ワタシが苦しいのはお前らが承認してくれないからだ」とか言い出します。言わなくてもそういうオーラが出始めます。そういうのは即座に分かります。Twitterのクソリプとかネットの炎上は神経症ぎみの人たちが相手を攻撃することで仮想のインチキ仲間意識を育んでいるのです。そうした架空の貧しい仲間意識で正気を保っていると思うのです。だから、クソリプしてる人とか炎上サイドの人たちは心が寂しい人たちなのです。そして、問題はもっと大きなものへと繋がっています。前者の流れ(ジブン→ジブンの喜びの創出)をとると、恋愛がうまく出来ません。だって他者の喜びを指向する営みが出来ないんだから。僕が最も納得する恋愛の定義は「他者を幸福にするプラクティス」です。だから基本的に贈与の力学の中で営まれる人間関係ということです。そしていい恋愛ができないと、ツマラナイ結婚しか出来なくなります。ツマラナイ結婚なので子供ができても、その子を思った行為がなかなか出来ません。ツマラナイ両親の元で育ったツマラナイ子供という連鎖がここで生じます。そしてツマラナイやつだらけの酷い世界が出来上がります。これは一応は結婚して子供がいるパターンですけど、そもそも一生、結婚しない人が増えます。だって恋しないんだから。生涯未婚率はぐんぐん上がります。2020年の統計では男性28%、女性18%でした。「自分らしく自由な人生を送れる」というのが、彼らの言い分のようですが、自分が最後死ぬ時にそばにいて、手を握ってくれる人がいなくて本当にいいんでしょうか?孤独死の問題です。死んだ後、誰も自分が死んだことに気付いくれなくて、お葬式もしてくれない。だからどんどん身体の腐敗だけが進んでいく。僕はそういうのが嫌です。少子高齢化もこの観点から説明できますね。子供が産まれないのは結婚しないからで、結婚しないのは善き恋愛が出来ないからで、善き恋愛が出来ないのはジブン→ジブンのツマラナイ在り方を採用してるからです。先進国でずんずん人口が減るのは、他にも多くの理由はあるだろうけど、一つの大きな理由にそうしたことがあると思います。少子化は小手先の政策では決して止まりません。
 だから、何回も言うけれど人を幸せにする人が他者を媒介として再帰的に幸福感を享受できる。独りよがりにこう思っているわけではなく、こういう記憶があるし、頭数はかなり少ないけれどそういう大人がいることを知っている。これがなんというか、世の摂理みたいなものだから、「そういうものだ」と思って、実践に乗り出そうと思う。じゃないと、一人寂しく死ぬはめになる。その上社会全体が良くない方向に走り出す。社会をガバっと変更するのはマクロの視点からは出来ない。結局、社会は人と人との重層的な機構なのだから、人がよくならないとダメだよねということ。で、人が良くなるってどういうことかっていうとツマラナイ在り方からワクワクの在り方へ近づくことだよねということ。社会を回すには大部分の人間がツマラナイ在り方でなければいけないのだけれど、社会という空間と実存の空間をはっきり分けた上で、社会の外で生きていけないのでなんとかその空間をやり過ごす方法を考える。
 そもそも社会自体ツマラナイ空間だから、社会の重力圏から脱出してふんわりとしたまったり空間を指向しようということだ。これは社会の空間を仮初めの姿でやり過ごすことにつながる。だから、もうジブン→ジブンの幸福観念をやめよう。ジブン→他者→ジブンの幸福観念でいい。だって、嬉しいじゃん、周りの人が自分に手を差し伸べてくれれば。それを自分がすればいいだけじゃん。以上。ピリオド。助けてくれれば嬉しいです。なので、困っている人を助けましょう。それだけで個人は充分に幸福になります。社会も良くなります。次世代へ繋がります。それだけです。贈与の経済はグングン回ります。だから、長ったらしく書きましたけど、お金がある人はお金がない人を支援すればいいし、体力がない人は体力がある人を助ければいいし、というようにデコとボコが噛み合えばいい。みんな勉強が出来ればいいとか正直バカバカしい。みんなが皆んな上位大学を目指すとか正直意味不明です。塾でアルバイトしてるから、よく分かるけど、「うん、君はお勉強より違う方向の方が絶対、君にとって幸せだし周りも良くする」という子はものすごい多い。なんで、君勉強してんの?親の家業から学んだほうが良くない?とかよく思う。でも親が「いい学校、いい会社、いい人生」を目論んでいるから問題の根は深いのである。もう本当に歴史的な問題だから根は深いのである。
 より実存の方面からいうと、ツマラナイ在り方に自己が無意識的にハイジャックされる思春期的課題を乗り越えよう!というわけだ。大人という大人がみんな幼児的なのは抱える思春期課題に取り組まないでいつまでも生活の地盤がないからです。 
 子供はスゴイ。彼らもう、めっちゃおもろいじゃん、存在自体が。声はやけに大きいし、走り回るし、人の目なんかまるで気にしない。そういうワクワクの在り方は(多くは)学校の論理が押し付ける〈インチキな承認〉を媒介としたツマラナイ在り方へ変わっていく。でもそれは自己の自然に反することだからいろいろ面倒なことが持ち上がる、で苦しくなる。それが思春期的課題だというわけ。そもそも学校とか基本ツマラナイでしょ。会社とかもツマラナそう。でも、信じられない規模の人が決まった場所で生活する(=大規模定住する)わけだから、そこには人の実存なんか無視せざるを得ない論理が持ち上がるわけだ。こう言ってよければ近代の論理が立ち現れるわけだ。その論理が全面的に行き渡った空間をさして「社会の重力圏」といっているのである。そのなかでボーと過ごしてたら本当に本当にすぐ、社会の重力に従わざるを得ないように巧妙に作られているんだよね。普段、重力なんか気にしないのと一緒のこと。でも宇宙の空間に占める、重力がある空間なんてありえないくらい小さいように、「社会の重力圏」なるものが発生したのも人類がアフリカで誕生してから500万年という人類の歴史の中で本当に小さな局地的な現象だと言わざるをえない。せいぜい300年くらいでしょ。歴史に占める割合は0.00006%です。そういう奇妙な時代に私たち置かれてます。残りの99.99994%は全く異なる空間だったと思います。こういう視点を獲得せずに、すんなりツマラナイ在り方を推奨する社会なる装置に適応していいんですか?っていうのが僕の問題意識なわけです。
 交換/贈与っていうのを軸に語ると、社会は基本的に交換原則の世界です。コンビニで弁当を500円で買えるのはその制作費と利益を含めて500円が適正価格だという市場の論理が働いているからですよね。でも、人間関係は贈与の関係であるべきです。一番わかりやすいのは親と子の関係です。親が子を育てるのは育てた後に教育費や食費などを請求するためではありません。そんな話聞いたことありません。親は子を(基本的には)愛着を持つが故に「なんでもしてあげたい」と思うからこそいろいろ手をかけるんです。でも「社会の重力圏」の中ではそれはなかなか推奨されることではありません。なぜなら、全てが交換とそれに連なる交換による、つまり交換の終わりなき連鎖こそ「社会の重力圏」のモチーフであり日常であるからです。社会で暮らしている限り、この交換原則の魔の手から逃れることは不可能です。だから、いつか贈与ベースの人間関係も交換ベースのツマラナイ在り方へと侵食されていきます。例えば、マッチングアプリ。恋愛(今は恋愛結婚が採用されているので、結婚にも繋がりますが、それはあとでいいます−*)が交換ベースで行われたらお終りだと思いませんか?恋愛映画を見ていて、ある男がある女を好きになって、色々してあげたとします。で、三年後別れることになりました。男は女に請求書を差し出す…そういう交換ベースの人間関係に魅力を感じますか?マッチングアプリは年収とか年齢とか趣味とか学歴とかそういうステータスで判断して「マッチ」=「おんなじくらい」だったら、交際がスタートするという仕組みですよね(使ったことがないから詳しくはわからないけれど)。そういうのってツマラナイ関係です。人間の関係、特に恋愛は一括りでなにかいうことは出来ないけれど、それでもツマラナイ臭いがする。イコールで始まる人間関係はたいていツマラナイです。自分と他者の落差に驚愕することがワクワクじゃないですか。自分は元来、Aだと思って過ごしてきたけれど、相手はずっとBだと思ってた時、人はその落差に愉悦を見出せる。裏返していうと自分と同じような考え方をして、自分と同じような服装をして、自分と同じように話す空間に身を置きたくないということです。それはそうとして、とにかく結婚につながる恋愛が交換ベースの侵食の波に飲まれようとしています。すると結婚生活も(当然、目に見えて)交換ベースで行われることはないでしょうが、それでも交換を意識したツマラナイ関係の出来上がりです。何か自分の思っていたのとは違うことが起こると即離婚です。実際3組に1組は離婚するようです。ひとくくりでは言えないけれど、これはツマラナイ臭いのする関係です。ツマラナイ家族はツマラナイ子供を生み、学校でツマラナイ在り方を身につけ、ツマラナイ社会をせっせと作る(ー*)。こういう構造がこの先見えています。というかこういう構造がずっとあったと思うのです。だから、令和はツマラナイんです。だって、令和はツマラナイのトップランナー、最先端を行っているからです。そしてこれから先もっともっとツマラナイ時代が来るとおもいます。だからこそ、このツマラナイ日常をなんとかしなければいけない。でもそれは誰も代わってあげられないです。つまり自分のツマラナイ日常は自分でなんとかしなければいけない。それは別にずっと一人孤独になにかするというわけでは決してなく、むしろ周りの人々を巻き込みながら自分のツマラナイ日常をなんとかする方向。でも第一に優先すべきことは「一人でいられるようにすること」だと思います。一人でいられることと孤独であることは全く違います。一人でいられるとは、一人でいても不安を感じることなく、それ自体を楽しめる態度のことです。孤独は違います。孤独は人の心を内側から溶かしていきます。じわじわと。心が麻痺してくると、どんどん自分に意識が向いていって、他者という他者が主観から排除され、もっと孤独になっていきます。孤独はツマラナイ。でも一人でいられることはワクワク、という対比です。他者はジブンに孤独を与えると同時に尊厳も与えるという多義的な存在です。
 一人でいても機嫌よく深く呼吸しながら不安を感じずに過ごせる技術(そう、これは技術なのだ!)の獲得を目指す。自分の場合は基本的に本を読んだり好きな音楽聞いて、外に出たくなったら、走る。そして書きたくなったらこうして書く。こうすることで余裕で一日、大きな不安とかなく一人で過ごせます。退屈を感じずに過ごせます。つまり、ワクワクです。こういう技術を徹底していくと死にたいとか全く思わなくなります。脱ツマラナイ在り方の第一歩はひとりで余裕で大した不安なく過ごせる技術の獲得ということで一応結論づけておきます。当然、技術の獲得には訓練がいります。サッカーボールを初めて渡されてリフティングが出来ないのと同じです。初めから出来たら苦労しません。でもそんな難しいことではなさそうです。自分が深く呼吸できるように、自分の心と身体にあったことをすればいいだけです。料理が好きなら料理すればいいし、刺繍が好きなら刺繍をすればいい。僕の場合だったら本読んでて楽しいと思えるから読む。それだけ。
 合気道には「先を取る」という大切な教えがありますが、ワクワクの在り方は「先を取った」状態だといえます。一方ツマラナイ在り方は「後手にまわった」状態だといえます。後手に回るということは自分に主導権がないということです。なので盲目的に社会の論理(=ツマラナイ論理)をジブンの自然にどんどん吸収・合併していって、もっとツマラナイ在り方になっていきます。ツマラナイ在り方の究極形は自殺と孤独死です。でもそれは次の項で扱います。
 とにかく、自分がやってて飽きないことを継続しようということです。初めから高い目標とかあるとそれはそれできついのでとにかく好きなことを継続することが鍵になってきます。そうしたら気づいたら、全国で何番とかそういうふうになる。つまり結果とか実績みたいなのは、「ご褒美」ってわけです。結果を最初に意識すると結構きついと経験上いえます。逆に、「まあ普通にたのしいな~」ぐらいのことを続けていると意外といいことがある、というのも経験上言えます。

9.規範としての在り方

 ワクワクの在り方はいわば規範に近い。規範というのは行動原則です。ノルウェーの森の永沢さんの言うとおり、人生に必要なのは目標ではなく行動指針です。目標達成したかしないかでいちいち右往左往するのってカッコ悪い。人間一人だと弱いので、すぐ変なことするし人に迷惑をかける。それに目標が達成出来なかったら、へこたれる。でも行動指針があればどこで、何をしてようが基本的には安定していられる。規範≒行動指針というわけだ。西洋の人がどしんと生きていられるのは規範に満ちているからだ。現実にいちいち右往左往しない。一方の日本人というと、ひょろりとしてだらしない。ベタに現実に右往左往して周りを気にする。
 宗教の一つの役割が規範の共有である。キリスト教を含めた一神教は絶対神の視座から自分を見下ろすことで背筋を正すのである。「神が見ておられる」ので他人が見ていなくても善くないことはしない。日本には一神教がない。その代わりアニミズムがあった。アニミズムとは人間以外の生物を含む、花や木などに魂が宿っているという信仰のこと。他人が見ていなくても、あらゆるものが自分を見ておられるというので善くないことはしない。でも、今の日本人にはそういう感受性は到底ないので、誰からも見てられていないゆえに、好き放題やる。誰からの視座も意識できないがゆえに現実の微妙な出力の違いにアタフタするのは僕は嫌なので、ワクワクの在り方という規範=行動基準を意識しようというわけだ。昨日言っていたことと今日言うことが違うというのは本当にどうしようもない劣等性でしょう。三島由紀夫は日本人は空っぽと表現したのはそういうことらしい。
 だから僕が尊敬に値すると判断する唯一のポイントはそこにある。金をどれだけ持っているとか、地位がどうとか関係ない。むしろ、その人の中に一貫された行動・発言の筋のようなものがあるなら信用に足りて尊敬に値する。それらは発言と行動すべてから読み取れる。だからこんなこと書くのはどうかなとは思うけど、岸田首相は僕からしたら屁でもない。偉いんですね。はい、それで終わり。ピリオド。その先はない。

10.なぜラフスケッチなのか

 なぜラフスケッチなのか、それは(1)まだ細かいことが分かっていないことと(2)ツマラナイ在り方からワクワクの在り方への移行は生活の中でのみ行われるからです。(2)は当然なので省略して、(1)について。(1)の細かいことが全然わかっていないといないというのが今後の課題、というか追及する価値のあるところです。なんというか、このnoteは大雑把な知識と自分の経験とを照らし合わせて、大胆にこういう感じかなという風に書いたものなのでこの先へのスタートラインでありガイドラインみたいなものです。そういう意味でラフスケッチなのです。

11.出発点としてのラフスケッチ

 ここで書かれたものはツマラナイ/ワクワクを基調とした素描にすぎない。ノートの構成や記述には力不足でここでは描けないことのほうが圧倒的に多い。しかし、そのノートを暫定的な本営として先に進めるぶんには十分であるとも思っている。読み、感じ、そして適切な言語への翻訳を通じて
<心のある道>をずれることなく展開していくには適当なことが描けたと思っている。

12.おわりに

 こういったことを書いていると、わりに引いちゃって僕の元を去るみたい人が現れる。実際にそういうことを経験したことがある。僕のことを嫌いになる人もいる。でも、それと同時に僕が書いたことに興味を持って近づいてくる人も前者と同じくらいいることも知っている。実は、僕は書きたいから書いているのではなくて、書かなければいけないから書いているのである。自分の欲求の発露の側面もあるけれど、それ以上になにか切迫した強い衝動のようなものが僕に文章を書かせているということだ。どうして、在り方のラフスケッチなんて書こうと思ったか、それは結構の割合で自分の問題(=なんか日常つまんなくね?)をなんとかしようと試みてきて数年かけて、ある程度こういう感じで解決されるなと、納得したのでそれを書き留めたという意味合いが大きい。自分の問題を解決することが出来ないと、周りに意識が向かないツマラナイ奴になる。だから、在り方のラフスケッチは一言でいうなれば、自分への処方箋みたいなものだ。そして、このラフスケッチには、一つの願いも込められている。それは、ツマラナイ在り方に陥って苦しんでいる友人たちと接してきたから、彼らに届いてほしいというものだ。彼らは、というか自分自身も学校とか親とかそういうのがーたとえそれが無意識的であれ善意の意の元であってもー押し付けてくる様々なことをなんとか受け止めて、だんだんツマラナイ奴になった。すんなり、受け止めて適応できる人はそれはそれで実存的に幸福なことかもしれないけど、自分の自然とそれとがあまりにも乖離しているとその落差に耐えられず苦しむひとがなかにはいる。要はなんか、日常がツマラナイことからくる漠然とした不安とか焦燥感といった感情をなんとかしよう!という感じで書かれたのが在り方のラフスケッチです。ラフスケッチなのは、あくまでこれは説明みたいなもので、これを読んで日常が輝きだすというわけではない。生活は生活の中でのみ変更可能だからだ。だから、私たちは徹底した生活者にならなければいけない。「何者かになりたい」という欲望もわかるけれど、それは生活の延長線上にあることだから、一旦無視しよう。
 最後に、(ここまで初めから読んでくれた人がいるのなら)僕としてはとてもうれしいことです。ありがとうございます。すこし長かったと思います。あなたの日常が少しでも輝きだすことを願っています。



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