地獄に対する考察

座右の銘なるものを持ち合わせていないのだが、強いて言えば「人には人の地獄がある」になる。だが、こんなに後ろ向きなものを座右の銘と言うのも違うよなと思い、今のところは空席にしてある。
人に聞かれたら、大体は「ん〜〜〜、まあ『千里の道も一歩から』ですかね〜」みたいなクソも面白くないことを言うことにしているが、親密な間柄の人には地獄のことを伝えることもある。
ただ、そういうと「私にはその感覚ないな」と言われることもあって、「そうか、これはみんなが持ち合わせている感覚ではないのだ」ということをその時はじめて気づく。
この言葉の何が、俺の大事なものであり続けているのだろうか。俺はそれを上手く言語化できなくて、ずっとぼんやりしたままにしていた。

先週、青松輝 (ベテランち) がタイムリーな note をあげていた。
(青松輝は Youtuber 兼 歌人 であり、僕が大好きで追い続けている人の一人である。俺は、青松輝のことは短歌の文脈で話す時以外基本「ベテランち」と呼んでいるので、以下敬称略で「ベテランち」と呼ばせていただくことにする。)

ぜひ読んでください。数多の地獄の存在可能性が、地獄の測量の不可能さが、絶望が、鋭利に、グロテスクに、綴られています。

折角なので、地獄についてどう考えているかを自分もここで整理しておきたい。

結論

自分は

  • 自分が感知し得ない地獄が相手の中に存在する可能性を想像する

    • 地獄の中身を想像する訳ではなく、地獄が存在する可能性を想像することに留意したい

  • 他者の地獄の中身を勝手に推測しない / 他者の地獄を勝手に測量し、比較の土台にあげようとしない

    • 大衆の理解を得られないような「つらさ」であっても、その人にとっては地獄であるかもしれないことに、思いを馳せる

をポリシーにしたいと思っている。

それぞれについて、もう少し詳しく綴っていく。

「地獄」の定義

俺は、全ての人に何らかの地獄が存在していると思っている。
ここでいう「地獄」とは、僕なりに平たい言葉で定義するならば「自分だけが抱えているつらさ」のことになる。(「地獄」という言葉が含む輪郭のない絶望や閉塞感を失いたくなくて、普段は「地獄」を使っている。)
「自分の判断ミスで、また恋人を傷つけてしまった。こんなことばっかりだ、自分が不甲斐ない」「休学して、なんともいいようのない不安を感じているが、自分で決断しておいてそんな弱音吐けない」「教授のアカハラで学校に行くのがつらい」「僕はどれだけ頑張ったって、あいつよりドリブルが上手くなることはない」。それぞれ質は違えど、上の定義に則せばどれも地獄ということになる。
ここで重要なのは、俺が「地獄」について話す時、つらさの程度の話ではなく、そのつらさの固有性の話をしている、ということだ。
これらの「地獄」は、他者から見れば「そんなの大したことない」と一蹴されてしまうものかもしれない。けれど、ここではそんなことは関係ない。全ての人が異なるつらさを抱えている、という点が重要である。

感知し得ない地獄

簡単には人に話せない地獄もある。地獄について話すことは、とてもこわい。自分の「地獄」を他者に評価されることになる可能性を大いに孕んでいるからだ。
自分の地獄なんてものは、他人にとってはなんてことないかもしれないし、場合によっては天国でさえある。

 無理して出てきた東京も地獄だった。大学の全員がぬるく見えたから、ほとんど誰とも友達にならなかった。躁鬱の恋人と同じベッドで眠った。ぬるいはずの同級生がどんどん外資に就職して金持ちになった。そいつらはスカスカの笑顔で卒業アルバムのクラス写真を撮ったが、その日も僕は家にいた。僕だけがずっと同じところに取り残されていた。
 両親のおかげで金はあったから生活費と学費と家賃に困ったことはなかった。今の日本で金を持っているやつには、自分が地獄にいることを主張する権利がない。僕の地獄のことは誰にも話さなかった。僕は恵まれていた。誰もが僕の人生を羨む。

青松 輝『もたらされる地獄の複数』

自分の一番脆くて壊れやすい部分晒した挙句、「お前はそんなことで弱音を吐いているのか、恵まれた立場なのに」と言われるかもしれない。
だから俺は、自分の地獄についてありのまま話したりすることをためらってしまう。俺は恵まれている。

そして重要なのは、俺と他者の関係を入れ替えてもそのまま成立するということである。他者だって簡単に自分の地獄について話したりはしないのではないか

他者の地獄を測量することの傲慢さ

にもかかわらず俺は、自分が見える部分 / 相手が話してくれた部分 のみによって相手が幸せかどうか、恵まれているかどうかを判断しようとしてしまうことがある。

以下は、俺の傲慢さについてのささやかな記憶である。

===

俺が大学院にいた頃、とても優秀で人格も非常に優れている超人みたいな先輩がいて、俺はその先輩のことを尊敬していた。
その人は常に論文を書いていて、就活もしっかりやっていて、長期インターンも並行してやっていた。なのに、あまり忙しそうなそぶりを見せない人だった。一方で、俺は研究に向いていなくて、全然成果を残せずにいた。「要領が良くて、研究の能力もあって、羨ましいな」と思っていた。
ある日、その先輩がスーツを着て研究室に来た。「今日なんかありましたっけ」と聞いたら「奨学金をもらっている団体に研究のプレゼンみたいなのしなくちゃいけないんだよね〜」と、さらっと言っていた。俺は、この人が奨学金をもらっていることをその時初めて知った。
その先輩には、就活相談などでもお世話になった。詳しくは省くが、色々な話を聞かせてもらった。その人は、「この選択が正解か分からないけど、とりあえずやりたいことを頑張るよ」と言っていた。すごい人だからどこに行ってもなんとかなるんだろうな、と俺は感じていた。

俺はその人のことを「すごい人だ、羨ましい」と思っていた。でも恐らく、俺には見えていない面が無数にあった。
俺から見えたのは、「奨学金」「優秀さ」「就職先」の3つだけだった。それらのみから、半ば無意識でその人の地獄を測量し自分と比較していた。
その人が、「自分には地獄が存在する」と思っていたかは分からない。ただどちらにせよ俺は、その人の中に存在する地獄の存在可能性に思いを馳せられなかった。

===

俺は、俺のことを傲慢だと思う。

再: 結論

俺は、他者の地獄をどうこうしたい訳ではない。「この人は、こういうつらさがあるだろうな」と勝手に推測して同情したい訳でもないし、他者の地獄のことを詳しく知って寄り添いたい訳でもない。そもそも他者の地獄の全てを感知することは出来ないのだから、他者の地獄に勝手に介入することには意味がない。(何か特定のつらさについて相談を受けた場合などは勿論寄り添いたいと思う。俺は、介入の話をしている。)
ただ、それぞれに固有の地獄がある可能性に、思いを馳せたい。自分が感知し得ない地獄の存在可能性に想像力を働かせたい。見えているものだけで判断したくない。

地獄の存在に想像力を働かせたところで、誰のことも救えない。別に何も起きない。自己満足だ。

でも、せめて自分はそうあることをベースに他者と関わりたい、と思っているから「人には人の地獄がある」を大切にし続けているのかもしれない。

おわり。


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