ながめくらしつ その①

ながめくらしつ「誰でもない/終わりをみながら」大楽を見てきました。

もろもろを踏まえた上で今からハチャメチャなことを言いますけど、第一部は個人的にあんまり好きじゃなかったです。すごく繊細で微妙なバランスによって高い強度の作品として到達しようとしているのはよくわかったし、安易な空間構成(カノンとか、対称形とか!)の乱発に逃げないでいようとしているのは意義深いと思うんですけど、でも僕はその到達点が見えなかったです。たぶん、日によって調子とかがあったんだろうし、ほんのちょっとずれるだけで崩れてしまう繊細な作品だったんだろうとは思います。例えば初日とかのバージョンを見たら、きっと違った印象になるのかもしれない。

でも、少なくとも僕には、あれだけの技術をもった魅力的な身体がありながら、あれだけの物量で動いていながら、迫ってくるものがなかったように感じました。席が遠かったせいなのかな、視覚的にも面白くなかった。・・・ピアノの音との関係もよく見えなかったのが本当に残念で、たぶんあれはうまく行けばすごいことになっていたものなのかもしれない。

さて、「誰でもない」というタイトルだけが与えられていて、その上で作品を読む、という作業をしようとすると、やはり群舞であることが最初に関わってくるもので、第一義にはパフォーマーが共通の語彙によって動くことによる身体の交換可能性(当然、カスケードをはじめとするジャグリングのパターンに特有の「オブジェクトを交換する」という営みとも重なる)が浮かぶわけですが、もちろんそれとは紙一重の次元でフォーマットを統一することによる個の非均質性も出てくるわけで、それはソロパートをあえていくつも入れ、それぞれで(僕は個人的に彼らを知っているからこそこんなことが言える部分もあるんですが)彼らの「普段のジャグリング」が現れる=個が現れる、という構造がそこで指摘できるわけです。(「技」を揃えることによる微妙なフォームや本当に微細なリズムの違いが浮き彫りになる、というレベルでの「個」の出現、も忘れずに指摘しておかなければなりません。)それは衣装に関しても同じで、微妙に袖があったり、なかったり、襟がタートルネックだったり、Vネックだったり、基本的なテイストこそ一致しているものの、人それぞれに微妙に違う(よく見ると全然違う!)ところにも現れているといえます。その気になれば溶け込めるけど、その気になれば際立つこともできる、というような。

ところで「誰でもない」というタイトルには主語がないので、とりあえず実直に読むと「(パフォーマーひとりひとりは)誰でもない(何者でもない、特段重要なキャラクターを担わない)」というふうに、要するにひとりひとりがアノニマスである、というような読み方をすると思うのですが、ここで最後照明変化をしてまでソロを張った大橋君の存在を補助線にしてみると、「(わたしは)誰でもない((この中の)誰でもないのがわたしである)」ということもできて、それを考えてみると、「集団」というひとつの大きなごちゃごちゃしたものの中から、出てきては消え、出てきては消えるソロ・パフォーマー達、ひとりひとりが「誰でもない」いわば幽霊の依代のようなものとして、つかの間現れては消えていく(当然、冒頭で登場する「ボールを投げあげて(pop out of nowhereさせて)キャッチする」という動きとの関わりを考える必要があります)中で、その最後の降臨を大橋君が「引き受ける」という形で、いわば10人の作品の中に11人目の「わたし」を現れさせる、というものでもあったと考えます。とすると、第二部の結末での目黒さんのソロの動きが皆さん指摘している通りここでの大橋君と通底する、ということにも別の解釈が加えられるのではないでしょうか。

冒頭でも述べた通り、やはり迫ってくるものがない、というのが一番僕が残念だったところで、それはテンポの悪さだったり、音との関わりの弱さだったり、パフォーマーの呼吸だったり、いろいろなバランスが上手く行っていなかったからではないかと思うのですが、本当に残念でした。

確かに「群舞的な作品」ではあったのですが、普通の群舞だった印象が強いです。ながめくらしつの、あの強烈な、ため息をつくようなナルシシズムが全く見えなかった。めくるめく、という感じではありましたが、それがあまりにも途切れなく、テンポが変わらず続いていたために、物語が立ち現れることがなかった、という言い方で語りきれるでしょうか。

あと、あのピアノではあの物量、あのパフォーマー達を完全に突き動かすことができないのではないかと感じました。それは技術とか音楽能力とかではなく、純粋に音量とか、音圧とかの問題で。逆に、あのレベルの音の量をしっかりと受け取って強度を持って「突き動かされ」ることができるほど、パフォーマー全員が「群」として繊細かつ強靭ではなかったのではないかということもできるかと思います。

当然、言うまでもなく、この公演自体にしてもこの作品にしても、社会的にも作品としても技術的にも非常に大きな功績であり、マイルストーンであることは疑いようもないですが、意義深いからこそ、キャリアが長く、一流であるからこそ、作品についてとりあえずはニュートラルに向き合うという姿勢はあるべきであると思い、誰も得しないであろう、このノートを書き残す次第です。

また、肝心の評の部分が構造に関しての記述に終始しており、繊細さに欠けることをご容赦ください。

二部に関してはまたどっかで書きます。

ハッピークリスマス!

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