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CwCの第7回公演について

※この記事は、ジャグリング【その2】 Advent Calendar 2019 によせて書かれたものです。

2月に公演をやります、Circus without Circleという団体を率いています。
ジャグリングカンパニーです。ジャグリングを舞台でやります。
今日はその話をします。


ジャグリングを舞台でやるっていっても・・・

「舞台でジャグリングをやる」って、結局どういうことなのよ?

例えば演劇は、その概念の射程に最初から上演が入ってるので、「演劇を舞台でやる」というのはごく自然なことですが、
対してジャグリング(やダンス)は、概念の射程に上演までが入っておらず、単なる運動の性質をあらわしているにすぎないので、
したがって「舞台でジャグリングをやる」といったときには、常に「どうやる?」「なぜやる?」という問いがついてまわります。

ここでジャグリングを「走る」とか「ジャンプする」とかに読み替えてみるとわかりやすいと思います。「舞台上で、走る」って言われても、どういうこと?となるわけです。

素朴なモデルでは、本来はやりたいことが最終的にあり、その手段として走るということを選択するように思えます。では最初からジャグリングという手段をとっているわれわれはアプローチが逆であるということになります。ここに引っかかっている人は多いのではないでしょうか。

素材に着目するアプローチ

とはいえ、「表現される主題」がまずあって、それに対して適切な手法やマテリアルを選択するよというのはあまりに素朴すぎるモデルです。

逆にマテリアルから出発して主題が後からついてくるというアプローチも古来より存在します。ミケランジェロが石から掘られるべき姿を見出していたことは有名です。

たいていの創作物には「着想」というものが存在します。それは主題の次元(環境問題をテーマにしました、など)でもそうですし、動きの質感やギミックの次元(雪が降る姿から着想を得ました、など)などもあるでしょう。

素材から出発するアプローチは、主題から出発するアプローチと着想ドリブンで動いているという点では共通しており、ただその着想を得る元が扱う素材そのものであったという部分が相違しているとみることもできます。

素材とは? 

さて、ここでいう「素材」とは、具体的には何になるのでしょうか?

まあ、ジャグリングの運動自体が素材であるというのはわかります。

あとは、ジャグラー自体という考え方もあるでしょう。例えば、レゴなどのマニュピレーションの考え方や、単純に道具を並べたいという美意識、ネガティブスペースや「固い技」「柔らかい技」などの身体感覚など、他と比べてもジャグラーという素材自体が面白いということも十分考えられます。

なんにせよ、どういう素材を使うか、そしてその素材のどのような性質に着目するか、などによって、「舞台でジャグリングをやるとはどういうことか」が決まるという側面はあるかなと思います。

そして、素材とは出演者だけにとどまらず、演出や照明、音響などアウトプットにかかわる関係者すべてでありえます。

全てのアウトプットが、その人の価値観のフィルターを通したものになる以上、ジャグラーの考え方価値観カルチャーはあらゆるところに反映され得るわけです。

「ミス・ユー・オール(再演)」

さて、CwCの話をします。

2015年3月に上演された「ミス・ユー・オール」の再演をやります。

「ミス・ユー・オール」は、素材としてジャグリング自体をまず使っています。

続いて2015年8月に上演された「たくさんの喪失について」のワーク・イン・プログレス的な位置づけの作品で、どちらもジャグリングのパターンの「儚さ」「寂寥感」のようなものに着目しています。

一時期のwes pedenのような、「宇宙的な音楽で淡々とジャグリングを繰り出すことのエモーション」に少し近いかもしれません。

「たくさんの喪失について」におけるジャグリングのパターンの特徴については、ひるめり氏がブログで語ってくれています。すこし引用します。

だから最初にその記録映像を見たとき、僕は朗読を中心に鑑賞してしまった。僕は色んなものを見るときにどうしても物語を探してしまう傾向にある。物語という時間形式は「語」の示すとおり言葉と分かちがたく結びついている。朗読とはまさに「語り」の行為だ。そういうわけで、朗読を鑑賞のよすがとしてしまって、ジャグリングのことはよく見ないままにその映像を見ていた。
ただその時、パフォーマーの動きだけを見ていて、感情が湧いた瞬間があったのだ。感情の中身はよくわからない。宙にあがり落ちる球、回転する円、交差する腕、ただそういうものを見ていて、それらをなんら理解することがないまま、それでも感情が生まれた瞬間があったのだ。感情というよりも情動という言葉のほうが適当かもしれない。emotionと言うよりもaffect。何物かに触れたということ。何もわからないままだけれど、その時ようやく、「見る」ことを始められたような気がした。

「ミス・ユー・オール」は、ここで触れられている「たくさんの喪失について」と同様に、ジャグリングの運動自体がもつ情動に着目して、どちらかというとそれを楽しむための背景として映像や台詞が配置されているものとなります。

また、重要な点として、演出担当である丹が、自身の世界観(本来の意味での)を通して作劇しているものである、ということがあげられます。

それはとりもなおさず、先程検討した、「ジャグラーの価値観フィルター」がバチバチに効いているものだということです。

もちろんそれがすべてのジャグラーと共通するものだとは言いませんが、「よくわからん、アートぶってる奴の自己満足」ではけっしてなく、ひょっとしたら同じジャグラーであるあなたの琴線にも響く可能性があるかもと思ってやっています。
もちろん、ジャグラーでないあなたにも。(ひるめり氏も非ジャグラーです、そもそも。)

いわゆる「芸術」はいつだって、わからないなりに生じる情動とともに始まる。たとえどれだけ理知的な作品であっても、理解以前に生じる情動のようなものが僕たちを引きつける(鑑賞者のタイプによるとは思いますが)。

「わかる」ことにそこまでこだわる必要もありません。

もっと原始的な、「なんかわからんが良い!」という情動を味わってほしいと思ってつくっています。

「靴を15回揃え、真後ろを向く 彼への電話が通じる」

ニブロール「this is weather news」、劉 慈欣「三体」 、映画「クローバーフィールド」などから着想を得た作品です。

ジャグリングの「緊張感」や、ジャグラーの体の面白さに着目しています。

試しにやってみてほしいのですが、静かな部屋でボールをちょっと高めに投げて、ゆっくりキャッチしてみると、ボールが空中に上がっている間だけ、静寂が濃くなる感覚がありませんか?

(家にボールが無い人向けに、Collectif Petit Traversの動画を貼っておきます)

この「静寂が濃くなる感覚」と、クローバーフィールドや「this is weather news」などから感じる「謎の静けさ」が響きあっているように感じる、というところから、災害や不確実性・予測不可能性をジャグリングを通して描くという試みをやっています。

こちらは「ミス・ユー・オール」や「たくさんの喪失について」のように、主題自体がエモーショナルというよりは、どちらかというと純粋に感覚的に楽しめる作品となっています。

こちらも、「ミス・ユー・オール」と同様に、「わかる」ことよりも、「楽しめる」ことに重きを置いています。

筋がわからないのは当然で、別にそれはあなたに学が無いからでも、バカにされているからでもありません。筋をわからせるためにしてしまう「説明」が、本来持っているはずのよさを損なってしまうのを恐れているだけであって、別に「高尚なことがしたい」と思っているわけでもありません。

ただ、シンプルに、「わかる」かどうかはさておいて、楽しんでほしいと思って作っています。
気軽な気持ちで観に来て、思い思いに楽しんでいただければと思います。

最後に:もっと作品を楽しむために

「ミス・ユー・オール」の項でも触れましたが、CwCの作品は基本的には丹のフィルターを通してみた世界、という側面が強いです。

そしてそのフィルターには、着想のもととなった他の作品、つまり書籍や映画などに由来している部分があります。

それらについて、わりとおしげもなくtwitterアカウント@Cie_CwCで解説しているので、こちらをチェックしておくと120%楽しめると思っています。

それでは、劇場でお会いしましょう。


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