第40回 またいつもの凡庸な気づきだけど
人に少し前に送ったメッセージを読んだ。
なんでその時の自分はこんなことを書いたのだろう、と思った。
これは別に、「前の僕はなんてバカだったんだろう」という気づきではない。(いや、そう感じはするけど)
それよりも、そもそも感情の表現として、あまり長くそこに留まっているような表現方法、たとえば文字のような形式は、正直なところあまり適していないからこういうことが起こるのではないか、と思った。
声や、表情や、態度など、感情の発露が終了した時点でそれがたち消える表現形式こそ、感情の発露としてあとあとの不整合みたいなものを感じないで済むのではないか。
だからといって、感情を文字で表してそれを人に送る、ということをすぐさま止めるわけでもないのだいけど。
それに、その不整合性をうまく使いこなして、良い方に持っていく、ということもできなくはないだろう。手紙なんかは、その例だと思う。一時の感情をわざと少し適していない方法で伝達することで、より静かな形で伝えられたり、残しておいて、あとで双方の反省にもできるようになるから。
しかし、その不整合を包んだ形で、いつでも文字を落とすようにしなければならない。でないとまたこうやって、いつでも後悔が顔を覗かせるのだ。
まぁ、自分で書いた「話」なんかだって、やっぱりこれは、あとで読み直してみて、まるでその動機に必然性を感じないようなことも多々あるよな。
この文章だって、時間が経てば、きっと不整合を感じることになるのだ。
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