水俣学

     水俣から学ぶこと

 昨日(2012年6月24日)、仕事が一段落して昼食に入った時テレビを付けると、<水俣から学ぶこと>をやっていた。
 ギョヘー、何だよぉー半分終わってるんじゃないかよ!
それから後半を観た。

 戦後日本経済再生に向けて頑張る日本は、高度経済成長への道を歩き始める。
熊本県の最南部にある水俣市。(沿岸部が鹿児島県出水市、山間部が同県大口市と接する)
 昭和31年に水俣病の公式認定がされるが、その3年前には最初の水俣病患者が、後に認定される。
 「日本窒素肥料」の水俣工場が稼働したのは1906年だから明治何年になるんだろう。
最初の化学工場の進出は水俣に繁栄をもたらし地元住人の羨望の職となり、人気企業となったが、当時から海の汚染はあった。でも、その頃は汚染が分からないでいた。
 一流大学出のトップと工場の職工まで会社には厳然とした階級があり、外から赴任してくる社員たちは都会の最新で豊かな文化を水俣にもたらす。
 その時、「安全性を十分確かめないままに生産を重視した」と後の水俣病発生の企業体質を早期にみた指摘もあった。が、無視。
 海の汚染は戦前からあった。
水俣病の原因物質・有機水銀は、アセトアルデヒドの製造過程で誕生し、工場排水としてそのまま海に流され続け、食物連鎖により濃縮。
 それは、多くのの魚介を食べた人たちに感覚障害や視野狭窄などとして現れ、劇症の場合は数日で死に至った。
 胎児が母親の胎内で汚染さるという(胎児性水俣病)という人類初の悲劇を生む。
          水俣病 50年「過去に未来を学ぶ」参照

 この人類初は、日本の専売特許だ。
戦争、原爆、水爆、臨界、公害、原発メルトダウン、メルトスルー。
 でも、それらの失敗の、どれ一つとってもそれを生かすことが出来ないで来た。
原爆のその後のリサーチはアメリカに提出させられ、日本が独自でその経過記録をきちんと調べてきていない。
 そこに希望をみるなら、国ではやってきていないが“肥田舜太郎”氏が、66年調べ続け、警鐘を鳴らし続けてきていることだ。(あー、こんな素晴らしい人が居るんだね~)
 水銀汚染公害は、水俣を手本とすることなく、新潟でも同様の公害汚染が起きる。
っていうか、それは“起きた”んじゃなくて知らんぷりを決め込んで“起こした”んだよ。
 それは、水俣の時だって気が付いた時に手を打てば確実に軽減することが出来たのに、
それをせず、隠ぺいと誤魔化しを続けたことで障害と殺人を続けて、性懲りもなく新潟に場所を変えて又やったんだ。
国民の安全を確保すべき国が当の犯罪者なんだから、それを明らかにして裁くことなんて出来っこないよね。
 確信犯の大罪は、企業と国が手を組んで犯した。
事実を明らかにしなかったら、失敗を次に役立てるなんてことが、出来る筈がない。
 高度経済成長に酔いしれ、産業正善説によって事実はねじ伏せられた。

それでも昭和45年の世論調査で反対は半数以上を超え。
昭和48年、チッソの<全面敗訴>を向かえる。
 熊本地方裁判所「地方住民は何もしらない。企業は安全確保の責任を負うべきである」という結論を出した。
 西田元工場長が、「みんなに迷惑を掛けて申し訳ない」という遺書を残し亡くなる。
知っていても暗黙の裡の了解で、誰も声にすることがなかった(出来なかった)。
「あの時はどうしようもなかったんだ」と当時の責任者達は言う。
 これが、国と企業の体質だ。

 誰だかが大飯原発の再稼働に向けて「私が責任を取る。政治生命を掛けて行う」ってなことを言っていた。
 あれ程の(って私はどの位か知らないんだけど)利益を上げた企業(日本窒素肥料)が莫大な慰謝料を払っても、誰ひとりとして償うことは出来なかった。
更に、その慰謝料も全く生活の足しになるものでなかった。という。
それは今なお払い続けられているというが、その時に壊れた身体と心、家族が改善されることはない。
 人の幸せを背負える者なんて、責任を負える者など居ない。と、私は思う。
例え命で償おうとも、起こしてしまったことは後戻り出来ない。

 テレビの最後に“石牟礼道子”氏と“原田正純”氏が、話していた。
私は、自分は何をやっているのか、と最近道に迷いだしていたが、元気が、勇気が出た。
 出来ることからやれることからやって行こう。

 それにしても、人生ってのは、何かに導かれて行くんだろうか。と思う。
子共の頃から春と夏におかしな状態になってきた。
 46歳の彼岸にその最上級の状態になり、(あー春の彼岸の頃と夏のお盆の頃におかしくなってきたんだ)とようやく気が付くこととなった。
 小学生の時だった。
夏の薄暗い部屋に寝かされていた。
何とも言えない心細い身も心も置き所のない状態になっていた。
母が言うには、「おまえは時々おかしなことになって、何もいらなくなって食べなくなって
そういう時は手が付けられなくて、ほらほらして無理にでも食べさせないと大変なことになるんだ」と言っていた。
 3月10日の東京大空襲。8月の長崎、広島原爆、終戦。が、東日本大震災、原発人災事故と、私のおかしくなる時が重なってくる。
 高校生の時、夏休みに体中の力が抜けて10キロ近く体重が減ったことがあった。
母親は厳しく怒りっぽい人だが、愛情が深くて勘が良い。
 その時は赤ん坊の飲む粉ミルクを買ってきてお湯で溶いて私に飲ませた。
それが功を奏してか、体重が40キロを割るには至らずにすんだ。
 高校の時に有吉佐和子の“複合汚染”に出会い、短大の時1973年に石牟礼道子の“苦海浄土”に出会う。
 1986年のチェルノブイリの原発人災事故の前に暗示的な夢を見た。
それから、人間は核を持つ動かす資格はないと確信した。
 だったら、何故神は人の手に核を渡したんだろう?
アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」と言っている。
 サイコロを持ったら、どうしても振りたい人間の欲望。
動かしたら止めることも、完全には管理することもままならず、その始末もできない代物。
 その欲望にブレーキを掛けることが、人間のテーマなんだろうか。

 まあ、私は生まれつき鬱的傾向にあるのだろう。
子共の時から、死について考えない日はなかった気がする。
 だからといって、死ぬことが怖いわけではなく、死について考えていると、何故か懐かしいような気持ちになってきた。
人はどう生きるべきなんだろう?というのも、死ぬことと同時にずーっと続いている私のテーマ。
 始まりは、終わりの始まり。
生まれて生きることは、死への始まり。
 いずれ終わりが来るということは、空しいことではない。
空しいのは、今を空しく生きること。かな。

 そして、より良い明日を向かえるには、過去を背負って今を生きることだ。
日本は過去を背負わない国だ。
 犯罪者が、法律を作る国だ。
戦争にあった事実を隠ぺいし、国民に知らせないようにして責任を取らずに今に至る。
 原爆の事実を把握せず、被爆者のデーターもきちんとしたリサーチもせずにきた。

 話を本題に戻すと、<水俣病から何を学ぶか>だ。
学ぶタメには、事実の把握をしなくてはならない。
①水俣病では、「そんなことはないだろう」と事実を認めようとしなかった。
②分かっていても、誰も発言出来る状態ではなかった。
③そして、出た患者に金をつかませ、示談にして「今後、一切文句は言いません」という
念書まで取っている。
④被害者が差別を受け、更なる被害を受けることとなってきた。
⑤工場排水が水俣病の原因だと分かってからも、認めようとせず、工場の運転を続けた。
⑥水俣病患者のデーターを取らずリサーチをしていないので、被害状況を正確に分からない。
その全てが、被害者を更に追い詰め、汚染被害の拡大に繋がっていった。

 じゃあ、どうしたらいいか。だ。
①先ずは、事実を明らかにして公表することだ。
②そして、誰もが、何かを気にして思う事を話せない仕組み重圧を取り払う。
③金や力でもみ消そうとする体質を止める。ちゃんと、保障はする。
④事実確認、リサーチ、経過記録、を他人事としてではなく全体で見守り保障していく。
⑤ダメだと分かった事は、すぐに止める。止める。
⑥起きたことのリサーチ、データーを取り続けて行く。
 それが、本当の意味での償いであり、失敗を重ねないタメに失敗を生かしていくということだ。

 水銀汚染と放射能汚染は、国と企業の不正癒着という構造だけでなく、物質の構造が似ている。
拡散(拡大して散らばっていく)と、凝縮を繰り返していくだけで、自然界にはない物質だという。
これらの物質は、消えてなくなることはない。
 一度は広い海に流れ出て薄まったかのように見えても、魚介に入って凝縮したものを人間が食べて内部被爆する。
 野菜なども降り注いだ放射能は、洗えばある程度落とせるが、地上に落ちたものは、その野菜の中に取り込まれ、それを食べることで内部被爆となる。
 原発建屋から出た放射能は、除染しても移動しただけのことで消えることはない。
何故原発施設は塵チリ一つなくしているか、塵(チリ)に放射能が付くからだ。
これから風で土埃の日は、外を歩かない方が良い。
もう、放射能という悪魔は檻から出てしまった。
そして尚且つ、今回の人災事故の比でないほど山ほどイッパイの悪魔が、壊れそうな檻(一部壊れた)に虎視眈々(こしたんたん)と待機している。
 原発を再稼働しようなんて能天気なことを言っている場合じゃねえべ。

 なーんで、分かんねえかなぁ。
なぁー。


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