ジーン・シャープ

 20012年 11月26日、BS世界のドキュメンタリーで放映された。
“非暴力革命のすすめ”~ジーン・シャープの提言~
  制作、イギリス2011年

久しぶりに来た。書け、書きたい、書かねば。という感情動。

で2012年、12月に書いたジーン・シャープの話を載せよう。

興奮して眠れずAM4時に目覚める。1時間弱のビデオを観る。
 それから、ビデオ見ながら文字におこす。止めては書き、書いたものを巻き戻して確かめるという作業を繰り返す。
 終わったら9時。ということは、1時間のビデオを書き写すのに4時間掛かったのか。
 気が付くと猛烈に腹が減っていた。
冷凍の赤飯をチンして齧りながら、今度は山小屋に移動してパソコンに向かう。
 前回のシャープ1が書き終わったのは、午前中いっぱい掛かって丁度昼だったな。

 書きものをしているとあっという間に時間が経っていて、そうだったとこうやって書いてみて改めて確認する。

 さーて、これをどう書こうか。
大学ノート9ページに書きなぐられた他人には判読出来ないであろう文字の羅列。
 そこには、
①(ジーン・シャープ)が本をまとめた経緯
②それに賛同し実現してきた人の話。
③社会で起きてきた実際の話。  
④シャープの言葉。
分類別にまとめて要点だけを抜粋して書くか、ここに書きとめたものを全て書くか‥。
  と考えて、

よし、ワシの下手な査定なんぞ入れて短くまとめるより全部書いたろ。と決まった。

 ブー♪(映画が始まる音)
暗くなる。

 そこは、ジーン・シャープの研究所。ボストン
「あなたの仕事は何ですか?」
「私の仕事は、独裁政権を弱体化させる上で非暴力の持つ意味とその潜在的可能性の研究をすることです」

 著書「独裁から民主主義へ」は革命の手引書として密かに各国へと持ち込まれたり、
インターネットで何十万回もダウンロードされてきている。
 そして、南極大陸を除く5大陸でおよそ30言語に翻訳されている。
本には、非暴力闘争の方法が198通り乗っている。
 具体的に、例えば大規模な不買運動、政府の命令や法律への市民的不服従、抗議行動、非暴力闘争を誓い、色やシンボルを掲げ、英語のスローガンで世界中に知らせていく、など。

「これは軍事力にも匹敵するが完全に銃や爆弾を使わない闘争です。
しかし、人類はそういう方法をとらず、暴力と戦争を繰り返してしまいます。
これは、暴力に代わる闘争の手段です」と、ジャミラ・ラキープ(賛同者)は、言う。

 ジーン・シャープは、1983年 非暴力闘争の理論を広める為、アルバート・アインシュタイン研究所を創設する。
 独裁国家に苦しむ人々が、次々とここを訪れる。
 
 1950年~53年に朝鮮戦争があった。
53年、シャープはアメリカの徴兵を拒否し、刑務所に送られる。
2年の刑期が言い渡され、9か月と10日、入獄させられることとなった。
「あれがどういう意味を私にもたらしたかは分からない」とシャープは言う。
「しかし、私は常に正直でありたかった。
その時、会ったことはなかったが、アインシュタインに手紙を書いた。
 手紙で自分が刑務所に入る理由と、ガンジーに関する本を顕(あら)わしたことを伝えた。
 その本はガンジーの非暴力闘争の3つの事例を分析したものだった」
すると、アインシュタインから
「そんな事例は知らなかったが、私もあなたの意見を強く支持する」という返事がくる。
 更にアインシュタインは、シャープの書いた本の紹介状も書いた。

 シャープはオックスフォード大学中にある発見をする。
それは、市民が独裁者を倒す方法の新しい考え方だった。
 政府の権力の源を特定することが出来れば、独裁政権が何に依存しているか分かる。
 それは、何らかのせいとうせい(正統性、政党制、正当性)だったり、大衆の支持かもしれない。
「政府が市民の服従や組織の協力により成り立っているとすれば、やるべきことは極めてシンプルだ」と、彼は言う。
「政府からそういった権力の根源を奪えばいいのです。
そうすれば政権を弱体化させ倒すことが出来るのです。
その発見にたどり着いた時、私は胸をなで下していました。
そのお蔭で理論構築が出来たわけですから」と、シャープは言う。

 シャープがハーバード大学で教鞭をとっていた頃、ボブ・ヘルベイ大佐(ベトナム戦争の英雄)と巡り合うことになる。
 ヘルベイが大学のキャンパスで非暴力闘争の抗議があるとうポスターを見つけその教室に行った。
 彼は、ベトナム戦争で勲章を授与されたが、その体験は彼の考えを変えるものだった。

 ボブ・ヘルベイは言う。
「私は心を打たれました。
武力闘争の限界に気付いたのです。
私達には“人殺し”に代わる解決方法が必要だと痛感しました。
そして、シャープの理論を世界中に広めなければと思うようになりました」

シャープは言う。
「非暴力闘争は武装闘争と言えます。
暴力を擁護し正当化する者たちから暴走闘争という言葉を取り戻さなければなりません。
社会的、経済的、政治的な武器です。
これは、最終的に抑圧や独裁に対し、暴力よりも大きな力を発揮します」

ボブ・ヘルベイは、その後ミャンマーの反体制派のキャンプを訪れる。
 キャンプには“自由を与えよ、さもなくば、死を”の看板。
そこで、軍事独裁政権によって迫害を受けているカレン族にシャープの「非暴力闘争論」を話す。
 カレンのゲリラ族は言った。
「こんな情報は何処にあったんだ!俺達は20年も前から人を殺してきた。
何故この方法に気付かなかったんだ!」と。
 やがてビルマの人達が、シャープに民衆主義に移行する方法について何か書いて欲しいと頼んだ。
 それがきっかけとなってシャープは、執筆をすることになる。

 シャープは言う。
「私は実のところビルマのことをよく知りませんでした。
常々、よく知らないことにつては書いてはいけないと言われていました。
その為一般的な話として書くしかなかったんです。
<どうすれば独裁体制の崩壊を目指す運動を実現出来るか>といった内容です。
そして、バンコクを拠点とする新聞社が記事として連載し、その後英語とビルマ語で出版されました。
それで終わったと思っていました」と。

1989年
 天安門広場でのデモを見たシャープは、<計画的に戦略を立てる>ことの重要性を痛感することになる。
「当時抗議行動が起きていたのは北京だけではなかったんです。中国の350の都市で同じようなことがあったと言われています。
しかし、すべて、何も計画されたものではありませんでした。
広場にどの位留まり、何時撤退するかなど、何もきめられてはいなかったのです。
学生達はその場の思いつきで移動していたんです。
後になって分かったことですが、通りで声をあげていた市民の多くが射殺されていました。思いつきで行動した方がより大きな成果があげられるというのは間違いです。
自分の行動をしっかり把握していないと大きなトラブルに巻き込まれやすいのです」

2000年 セルビアでミロシュビッチ退陣
 この時はオトポール(抵抗)がスローガンで、拳(こぶし)がシンボルとなった。
独裁から民主主義への反政府運動のリーダー、スルジャ・ポポビッチ
 このリーダーを決めるということが大事だという。
そして<細分化に負けるな>
 戦争が起きた時、独裁の時、人を弧立させようとしてくる。
人は弧立した時、不安で本音が言えなくなるとういう、家族や友人であっても信じられなくなって言わされた通りのことしか言えなくなるのだという。
 オトポールでのデモは仲間が居る、一人ではないという勇気を持つことになったが、手ごたえのないデモはやがて飽きる。
 次に行ったのは時間を決めて7時半から8時、抗議の騒音を立てることだった。
拳を描いたポスターを貼った。拳のТシャツを着た。
 そうした中、高校生がオトポールのТシャツを着ていただけで警察に逮捕される。
が、その警察官は妻や子から抗議される。
「何故、何もしていない友人の子を捕まえたのか!」と。

 ボブ・ヘルベイは言う。
「政府を支えている柱を1本1本外しことで体制を崩壊させることは出来る。
しかし、柱を壊さずに民主化に移行することが本当に正しいやり方だ。
柱も自分の側に引き入れることは可能だ。
 オトポールでは、民主化運動の中で警察官も同じ犠牲者だと呼びかけ仲間になっていく。
 グルジア、ウクライナでもうまくいった。
犠牲者同志が争う必要はない。
 一方が青い制服で、一方が青いジーンズを履いていたとしてもどちらも同じだ。
警察官に石を投げても無意味だということです」と彼らが気付く。

<暴力に抵抗せよ>
「しかし、抵抗に暴力は絶対に使わない非暴力を徹底します。
2万人デモでたった一人でも窓ガラスを割ったら、そのデモは弱体化します。
 良い方法があります。若い女性か高齢の女の人に先頭を歩くのです。
平和的な横断幕や音楽、花を持つのも良いでしょう」とシャープは語る。

 ミロシュビッチ10年の闘争は、非暴力の革命となって、セルビアからグルジア、そしてウクライナのオレンジ革命からイランへと波及して行く。
 そこには、暴力も辞さないという人も居るが、シャープの本は一万人の人に読まれ数十万人の人によって実践されている。
 それは、リーダーたち(名を馳せない)が知っている。

 今84歳になるシャープは、ボストンで賛同者であり娘であるかのようなジャミラと研究の傍ら趣味である蘭を育てている。
 美しく咲いた蘭を見ながらシャープは言う。
「きちんと世話をすれば、奇跡を期待しなくても花は咲く。
その方法を知って、行うだけだ」と。

 シャープは、イラン(緑の旗革命デモ)でCIAの工作員で偽装組織であると疑われた。
 しかし、政治的柔術によって体制側の形勢は不利になっていく。
「それは何かというと、体制側が市民を無残に殺害したりそのことによっての脅しが逆効果となっていったのです。
 その時、効果的であった筈の武力はかえって人々の支持を遠ざけます。
 そして、多くの人が抵抗勢力に動員され、体制自体が弱体化する」と彼は言う。
 反動効果で、抑えつけようと残忍な行動に出ると協力服従していた組織まで離れていくことになり、統率力が薄れ抵抗運動へと移って行くことになった。と彼は言う。

 イアソン・アサナシアディス(ジャーナリスト)は緑の革命で逮捕される。
 スパイ容疑、革命に加わった者たちもシャープの本を100以上実行したとして逮捕される。
「この本は、人間は自分の自由や将来に対して、自分で責任を負わなければならないということを示しています」
「皆、自分自身で解放し始めています。
外部の力に頼る必要がなくなっているのです。
オトポールもその人々の達成感が自分達の力で成功を収めることが出来たのです。
それはどれほどのものか、だからこそ手法を広めることが大事なのです。分かりますか?
アメリカには、どんな国も、占領する権利も、ありません。
政府を変えようとする国民が存在するなら、その人たちに任せるべきです。
私達はその為に必要な方法を伝えればいいのです」と彼は語った。

2011年 カイロ、タハリール広場、ティファヤ、革命始まる。
 反政府運動リーダー、アハマド・マヘールは、その前から戦略を練っていた。
2006年シャープの下を訪れその5年後新しいグループの要請をし、ウェブサイトで表明し、フェイスブックやスカイプを使って世界中に広く発信していく。

 抗議運動は、子供、女、楽器が使われ、チュニジア、エジプトから発し、リーダー達は軍も一緒に抗議行動を支持するように呼びかけた。
 そして、最終的には軍も味方した。
「兵士も私達と同じエジプト人だから」
 警察が選挙の不正に加担し、政治腐敗を覆い隠すことに必死だったのは、自分自身を守り何とか生き残る為だった。
 そして、政見放送が流れる。
『慈悲深い神の名において、我が同胞の国民に伝えます。
我が国が経験しているこの困難な状況において、ムバラク大統領は
大統領職を辞任することを決めました』と。

2011年 シリア 15人虐殺
 反政府運動リーダー、オサマ・モナジェドもシャープの下を訪れ、独裁から民主主義への実践は出来るんだ。という勇気と確信を得て、隠しカメラ、フェイスブック、ユーチューブで世界に発信していく。
 彼は、シャープに会って、実に謙虚で穏やかで、地に足の付いた人であることに驚いたという。そして、そのオフィスが小さいことにも。

「チュニジアやエジプトから学べることが一つあるかもしれない。
大きな間違いは、支配者は辞めなければならないという考えです。
辞める必要はないのです。
支配者を支えている柱をすべて取り去ってしまえば支配者は倒れるしかないわけですから。
つまり、これが非暴力による“強制”と“崩壊”の違いです。
支配者が強制的に辞めさせられるのと政権が崩壊するのとは、違います。
政権が崩壊すれば、独裁者の後継者になるような人間を一人も残さずにすむのです」

 最後の質問
「あなたに夢がありますか?」という問いにシャープが答えた。
「ええ、あらゆる抑圧から解放される為に、非暴力という方法があるということを世界中の人達に知って欲しいのです。
戦争や暴力に代わる手段があるということを、過去の例や自らの経験から学んでもらいたいのです。
そうすれば、テロとの戦いはなくなります。
何故なら、人々が悪政から解放される方法として、テロリストになる道でなく非暴力闘争の道を選ぶからです。
それより、世界中の政治体制が変わるかもしれません。
これが私の夢です」と、シャープは微笑んだ。


 ジーン・シャープ“自由を生み出す天才”
諦めなければ、必ず達成出来る。
自分の力で、愛の為せるわざで、人の行いによって。


   ブー♪


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