ラプンツェルが合気道に出会ったら➀
居着く、囚われるとは?
合気道の練習をしていて、この言葉って私にとって大切な言葉になるかもと感じる。居着くの一般的な意味はいつづけるとか、帰らないという意味で、武道的な意味とは似ているけど、少し異なる気がする。練習で相手に手を持たれた(と思う)状態はすでに居着いている、またその手を力で何とかしてやろうという気持ちも相手が更に硬直するという事態に陥り、これもまた居着いている状態と言える。だからその反対に、相手に持たせるという表現を使ったり、気持ちを吸収するという言葉を大先生は使われるのだと思う。
そして、これは多分合気道だけでなく、私の日常生活にも同じことが言える。ラプンツェルじゃないけど(急に?囚われの身と言いたい)、私はずっと母と確執を抱えてここまできた。そして母以外でも対人関係や仕事、家族から日々の生活に至るまで、居着き、囚われ要素の多いこと。回数で言うと、練習の時よりも日常生活における居着きの方が多いと思う。私にとって自発的な行為ってほぼない。今日も仕事だ、眠いけど起きないと叱られる。子供達にご飯を食べさせて、学校へ送り出さないといけない。フワフワした仕事しかさせてもらえない。仕事ではまたクレームの電話がかかってきた。なんで私ばっかり面倒なこと押し付けられるの?今日の会議嫌だな、変なこと言って笑われないかな?逆にそうじゃない時ってあるんか?探す方が難しいわ。そりゃあ、しんどいよね。
このことに合気道を始めるまでは気付かなかった。なんでだろう…多分身体的な感覚がなかったからかな。普段の生活で家族以外の誰かに手を握られるってそうそうないよね(遭遇したくないやつ)。精神的な慣れもあるのかな。生まれてからずっとそうだった。常に誰かと比べられ、常に誰かが加害者と被害者になる、それが当たり前。
私は合気道の練習だけしていればそれで良かったのかもしれない。練習は毎日でも練習したいぐらい楽しいし、自分で言うのもおこがましいけど、始めた頃と比べて動けるようになっているのが分かるから。あとは合気道の練習をしている時は頭の中は合気道のことしかない。他の人にとっては目の前のことに集中することは大したことではないのかも知れないけど、私は常に頭の中がとっちらかっているので、大変貴重な時間である。でも合気道は合気道の時間だけで本当にいいの?って誰かが私に聞いてる気がする。今日はここまで。
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