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島宇宙とアテンションエコノミー

 きょうは今後の思考のための、ちょっとした覚え書きです。

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 このところ東浩紀の初期のテクストを読み返していた。そこでしきりに彼は、次のような話を繰り返している。
 僕なりの言葉で要約させてもらうと、いわく、今は「大きな物語」(リオタールの言葉で、人々が共有する世界観や価値観のようなもの)が失われ、文化全体を見渡せるような特権的な視点が不可能になった。浅田彰の『構造と力』は、あたかもそのような視点が可能であるかのような幻想を人々に与えて熱狂的に支持されたが、83年時点では可能であったそうした幻想も、今日(99年)ではもはや誰もが不可能であることに気付いてしまっている。
 かくして人々は、てんでばらばらの「趣味の共同体」に分断され、それぞれに興味深いトピックはあるものの、相互の連絡がないため良いものも限定的にしか拡がらず、没コミュニケーション化が進んでいる。自分は批評活動を通じてそうした状況を打破したい、云々。

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 それはそれで興味深い提言なのだが、さてそこから25年が経ち、不思議なことに(?)今日ではむしろ「誰もが同じ話をする」ことの閉塞感のほうを強く感じている自分がいる。
 そう、アニメ絵のポスターがどうしたこうしたとか、初デートサイゼリアはありやなしやとか、チー牛がどうのこうの、トランス女性が女性用スペースに入ってくるとかこないといった話題(誤解のないように言っておくと、これら個々のテーマの重要性を否定するつもりはない。ただ、なんで猫も杓子も同じ話ばっかり延々と繰り返してるの、とは思う)。そして参照されるのもお決まりの露悪的アルファだったりIT長者的ご意見番、お笑い芸人、迷惑系ユーチューバーというような面々だったりする。

 そう、アテンションエコノミーのしわざだ。
 みんな、特定のいくつかの話題にむりやり注意を奪われているのである。
 シナン・アラルはこれを「トレンド独裁」と呼び、注目される情報とされない情報の格差が広がっていることを指摘している。
 というのも、広告収入に依存するSNSでは注目される話題にブーストをかけ、さらに注目されるようなアルゴリズムを駆使することが合理的なためである。アラルはSNSのこうした性質を「ハイプ・マシン」(誇大宣伝機械)と読んでいる。
 彼によれば、ハッシュタグはSNS運営側が話題になっている、あるいは急上昇中のトピックを効率よく発見するために活用されており、そうして拾い上げたトピックをリスト化することでさらに注目され、人々がそれに言及するというサイクルが生じる。こうしてトレンド独裁と呼ぶべき状況が作り上げられているという(『デマの影響力』)。

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 いやでも、そんなに話題が寡占してるか? という声が聞こえてきそうだ。確かに、僕の家族や職場の人たちはべつに男女論とかそういう話をしない。
 ただそれでいったら、前世紀末の東浩紀が問題にしていた「文化全体を見渡したい」という欲望を持っている人――『構造と力』の読者となったり青山ブックセンターを定期的にチェックするような人じたいが、どんなに多く見積もってもせいぜい数十万人であり、そういう層がそれぞれの島宇宙へと吸収されていっていよいよ文化全体を見渡すという幻想が潰えたのであって、それに比べるとやはりSNS(まあ僕の想定してるのはXなんだけど)ははるかに「猫も杓子も同じ話をしている」し、あたかも此処こそが世界である、と言わんばかりに政争・ポジショントークに明け暮れている人が相当多いように見える。

 二つの時代。みんなが島宇宙に分断された時代と、みんなが同じ話に注目「させられている」時代。対称的のようにも見えるがじつはあまり対称的ではない。この対称性は歪んでいる。
 したがってこれは、一長一短という話ですらない。令和の今は、アテンションエコノミーと無縁の場所で繰り広げられるトピック・活動は構造的無関心にさらされモチベーションを枯渇させがちであり、いっぽうで注目されるものはますます無内容、悪くすれば顰蹙的なものにならざるを得ない。
 そうやって見ると、東浩紀の描く前世紀末の文化状況のほうが、どうせみんな島宇宙なのでそのなかで豊かにやってゆくことに戸惑いがないぶん、まだしも良かったのかも知れない。

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 近頃アテンションエコノミーについて語るときほど無力感を感じる時はない。その弊害をわかっている人は多いが、どうやっても生理的・心理的に注目してしまうように出来ており、それに対してネットデトックスをしようとか、アテンションエコノミーの仕組みを知って賢明なユーザーになろうといった個人レベルへの訴えかけはあまりにも微力だからだ。かといってこうした状況が当分変わる見込みもない。SNSがこの世にある限りはずっと続くようにも思える。

 そして、記事のしめくくりに無理矢理とってつけたような希望を書くつもりもない。
 あーでもそうね、強いて言えば、個人的には古書マニアという、アテンションエコノミーとはまったく無縁な話題かつ居場所かつ過ごし方を持っていること、それから若い人とオフ会などで会うと「なんでみんなああいう(男女論とかの)話ばっかりしてるんですか?」と不思議そうにしている子がけこういる、というのが希望かも知れない。
 とりま、まだまだ勉強が足りないし、注意深く動向を探ってゆきたいところである。



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