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「スペース飲み」がヤバい


 『日本全国酒飲み音頭』、あれちょっと変なんですよね。「一月は正月で酒が飲めるぞ」「二月は豆まきで酒が飲めるぞ」「三月はひな祭りで…」と続いていくわけですが、酒ならべつに毎日飲めるじゃん、と思った事はないですか。
 でも本当はべつに変なわけじゃなく、ようするに日々の晩酌は数に入っていないわけです。そりゃお勤めしたあと、寝るまえに手酌でちょっと飲むということはあったでしょう。しかし「酒が飲めるぞ」というのはあくまで大勢で集まってワイワイ飲むことを言っているわけです。柳田國男も次のように述べている。

 元来は酒は集飲を条件として起ったもので、今一つ以前は神と人と、ともに一つの甕のものに酔うという点が、面白さの源をなしていたのである。今日の目から見れば、実に煩瑣ないろいろの酒礼というものがあって、それがまた容易に得られぬという楽しみの理由でもあった。

柳田國男『明治大正史世相篇』、太字は安田による。

 さいきん柳田國男を読み慣れてきたら、もしかしてなにかにつけ古い信仰の名残りを見出す癖があるんじゃないかこの人は(子供の遊びの解釈にもこのパターンが頻出していた)と思えてきたんですが、それはさておき。

 ルイス・フロイスは桃山時代の宴会について次のように述べている。

 われわれの間では、誰も自分の欲する以上に酒を飲まず、人からしつこくすすめられることもない。日本では非常にしつこくすすめ合うので、あるものは嘔吐し、また他のものは酔払う。
 われわれは食卓についている時に、談話はするけれども唄ったり踊ったりはしない。日本人は食事の終りまでほとんど話をしない。しかし暖まってくると唄ったり踊ったりする。

ルイス・フロイス『日欧文化比較』

 かなりワイワイしていますね。日本人は昔からいったん飲むとなると泥酔するまでとことん飲む、というのは柳田國男以下、多くの識者が指摘しているところであり、こういう宴会をして「酒が飲めるぞ」と言ったのでしょう。

 そんなわけで『日本全国酒飲み音頭』でいうところの「酒が飲めるぞ」とは「みんなでワイワイ飲めるぞ」という意味であること、宴会と晩酌との違いを確認したところで話は現代に飛んで、スペースです。

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 スペースというX(旧Twitter)のサービスについて、この記事を読んでいる人には説明の必要はないかと思います。で、僕は晩酌をするとき、いつもスペースをするんですね。
 というか、シラフではわざわざ不特定多数とワイワイ馬鹿話に興じたり、なんか議論っぽいことをしたり、そういうことをやるテンションではない。いっぽう酒が入ると読書もゲームも、およそ頭を使うことはなにも出来なくなり、また気が大きくなって他人に物怖じしなくなるので、じゃあいっちょスペースするか、となるわけです。テンション降臨。

 しかしこの「スペース飲み」とか「ツイキャス飲み」というのは凄いもので、先ほど述べた宴会/晩酌という二分法を崩すんですね。つまり毎晩、自宅にいながらワイワイできる、「酒が飲めるぞ」というわけです。そういう、見ようによってはめちゃくちゃ便利な文明の利器なわけですが……
 おかげで、飲み過ぎてしまう。昔ながらの晩酌ならほどほどで済むのが、スペースでワイワイすると興が乗ってしまい、気付いたら適量をはるかに越えていた、ということが頻出。
 翌日が仕事だというのに空が白んでくる頃まで語りあかしたり、机で寝落ちしたり、二日酔いで朝吐いたり、医者に肝臓の数値の悪化を指摘されたり、まあなかなかまずい事になりがちです。

 わざわざいなるかな、彼らは朝早く起きて、濃き酒をおい求め、夜のふけるまで飲みつづけて、酒にその身を焼かれている。

『旧約聖書 イザヤ書』

 そういう「スペース性アルコール中毒」が近頃、国会でも取り上げられるような深刻な社会問題となっている……という話はとくにありません。が、僕のなかでそこそこ問題になっています。
 かくいう今日も、友達とタコスのお店に行くので昨晩は飲み過ぎないようにと思っていたのが、案の定バカスカ飲んでズタボロの状態で待ち合わせ場所にたどり着き大顰蹙を買ったところです。なにがハイエクだ新自由主義だ。いま飲んでる酒の本数も数えられない奴が経済学語ってどうする。

 かてて加えて、昨夜も机で寝落ちしている時にキーボードの上にビールをこぼしたらしく、いろんなキーがネトネトしてうまく文章がタイプできないんですね。そんなわけでこのnoteは通常の二倍の時間をかけて書いています。
 あまりに打ちにくいのでこれで終わります。おわり。

 
 
 



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