第十話 「癒されてなにが悪いの?」

 忘れられない一言というのはあるもので、その一つが僕の場合、記事名にもした「癒されてなにが悪いの?」であった(もっとも、一字一句正確な引用ではない。後述を参照)。

 それは『網状言論F改』に収録されている、東浩紀・斎藤環・小谷真理ら三人によるシンポジウム「ポストモダン・オタク・セクシュアリティ」(2001、東京池袋メトロポリタンプラザ)のなかで、小谷真理が東浩紀に対して放った言葉だ。

 ちょうどその前段で、東浩紀は『動物化するポストモダン』でやおいを扱わなかった理由について、事後に我ながら明確になった、それは90年代のやおいは癒し系のジャンルに傾いていたからだと発言している。

  僕がやおいを論じるのを避けたのは、まさにこの「癒し」が引っかかったからだと思うんですね。僕としては、オタク系二次創作というのは、シミュラークルの戯れをシニカルにぐるぐる回転させるメディアだと思っているし、また八〇年代のやおいはその最先端を切っていたと思うんだけど、それがいつのまにか癒し系になってしまっていた。

『網状言論F改』所収、「ポストモダン・オタク・セクシュアリティ」


 それに対し、小谷真理は猛然と反発している(ように見える)。

 小谷 癒し系がラディカルではない、という意見は、まったく理解できないけどね。癒されてなにがよくないのかもわからないわね。わたしにはそういう言い方そのものが「しょせん女こどもの傷のなめあいですからなぁ」という男のテクハラ風に聞こえる。わたしとしては、「癒し系」そのものをさげすむ言い方にすでにして女性嫌悪的な匂いを感じる。そういう紋切り型で安心して思考停止してはまずいのではないかな。

同書


 これはなかなか虚を衝かれた思いだった。
 かくいう僕も、インテリ青年()にありがちな「癒し系を一段低く見る」癖を無意識に身につけていたからだ。
 しかし、なぜ「癒し系」が一段下なのかきちんと自問したことはなかったのだった(とはいえ正直なところ、小谷のいうような女性嫌悪が関係しているのかどうかは疑問だが。というのはこの場ではたまたま「やおい」が遡上に載っているだけで、少年マンガであれその他の男性文化であれ、癒し的なものはいくらでもあるからだ)。

 *

 「癒されてなにが悪いの?」と問われて我々がぱっと思いつく理由は、だいたい次の三つくらいだろう。

  1.  芸術批評的な立場から、癒し文化は公約数的なものにならざるを得ず、したがって凡庸になりがちという理由。

  2.  啓蒙主義的な立場から、癒しはスピリチュアルやオカルト、ひいては疑似科学や霊感商法等々に傾きがちという理由。

  3.  政治的な立場から、癒しは現実逃避であり、抑圧された現状を容認するための一種の「阿片」であるという理由。

 しかしこれらのリスクをわかったうえで敢えて「癒し」を導入するぶんには、ようするに「気をつけて癒される」ならば別に構わないのではないか?
 
とくに1.については東-小谷の議論に見られるように、なにをもってラディカルとするかは永劫不変のものではなくつねに転覆の可能性を孕んでいるし、彼らの議論自体によってすでに部分的に転覆が実現しているとも解釈できる。

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 私事を語らせていただくと、先月あたりからお香だのアロマキャンドルだの多肉植物といったものに惹かれてゆく自分がいる。
 あるいは間接照明やアンビエント/環境音楽などは前からかなり好きだったり、ゲームに没頭する時間などももう少し欲しいな、とも思っている。

お香をはじめてみたり


多肉を置いてみたり


 それらについては個別に書く機会もあるかも知れないが、そうしたものと戯れている昨今、あの「癒されてなにが悪いの?」という声が記憶のなかから甦り、日々に大きくなってくるのである。

 正直なところ、僕のなかで「癒し系を一段低く見る」癖は完全にはなくなってはいないのだが、今後はその感情が起こるたび、つねに「癒されてなにが悪いの?」という問いに直面することになるだろう。
 そして、いつか決着がつくというか、結論を見出すのだろうか……?




【参考文献】

 東浩紀編著『網状言論F改』


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