見出し画像

人に読まれる文章とは?

 うん、それはいいんだもちろん。好きで書いてる、それは否定しない。気持ちの整理で書いてる、それもいいと思う。防備録として書くことも当然ある。限られた身内に向けて書いてる、それも否定しない。
 とにかく、読まれるかどうかとは別の目的がある――そういう文章にケチをつけるつもりはない。本当にない。よきライティングがあなたと共にあらんことを!

 *

 さてここから話すことは、自分の文章を他人に読んでもらいたい人向けの、「他人が読む価値のある文章」についての僕なりの考えだ。あくまで僕なりの考えなので、もし違うとか自分には関係ないなと思ったらそっ閉じして欲しい。さて、

 テクストの価値とは「差異」である。


 これでわかる人は話はお終い。お互い頑張ってゆきましょう(・ω・)ノ✨

 以下はピンとこない人のための説明。
 「テクストの価値とは差異である」ことについての典型的な例を一つ挙げると、二十世紀初頭、あるアメリカのゴシップ紙の編集長が、イギリスの上流階級の執事に次のような依頼をしている。

 あなたはわたくしに、あなたが勤められます家々に、お客として滞在されますイギリス社会の名士について、長いおしゃべりの手紙をお書きくださることによって、あなたが、あなたの利益のために、その時間を利用されたいものです。わたくしは、それに対して、毎月のはじめに、ちゃんちゃんと、お支払いいたします。わたくしは二、三のアメリカの新聞のために執筆していますが、こういう新聞の読者は、ロンドンの名士にかんする、実際の社交のおしゃべりを、知りたがっております。

フックス『風俗の歴史 第九巻 性の商品化時代』


 つまりイギリスの上流階級の執事ならアメリカ人の知らないさまざまな噂話・ゴシップを知っているはず――それが依頼主が目をつけた価値=差異であった。

 少し話が逸れるが、噂・ゴシップというのは卑しむ人も多いけれど人間にとってかなり根源的なものである。アンデシュ・ハンセンは『スマホ脳』のなかで「人が噂やゴシップ、陰口が大好きなのは遺伝的習性として当たり前」(大意)と言っている。何故なら、人類の歴史において死因の多くが他殺であった時代が長く、誰が誰を恨んでいるとか仲が悪いといった情報は、自らの生存や共同体のゆくえに大きく関係していたからである。
 鍵つきの扉すら数十万年の人類史のうち末尾の1%の期間もないわけで、もちろんまともな捜査などない。強く恨まれていると誰でも人気のない場所で、あるいは夜闇にまぎれて殺される危険があったが、犯人もまた多くは憶測によって決めつけられたことは想像に難くない。

"Etiquette" is the one word that aptly describes life during the reign of Queen Victoria.


 他人の噂、評判というものが人類にとっていかに重要であったかについては、ここここここなどでも傍証を挙げているので興味のある方は参照していただきたい。
 話を戻すと、差異が価値を生み出すのはそれが欲しい人にとって手に入れにくいからである。逆にそこに相対的に楽にアクセスできる、「仕入れやすい」者にとっては利益の源泉となる。
 またどんなに有益な情報あるいは興味をそそる話であっても、手に入れやすければ差異にはつながらない。裏庭で採れるニンジンは誰も市場で買わないのである(裏庭で収穫できない時期やブランド人参は別として――それも差異だ)。岩井克人いわく、

 すべての人が共有できる情報とは、それがどれだけ世の役に立つものであっても、商品としての価値はゼロなのです。たとえ技術者がいくら労力をかけて便利な技術を開発したとしても、それと同じ技術がすでにほかで開発されているならば、それを商品として売ることはできません。広告とはほかの商品との違いを語りつづけることですし、娯楽とは日常とは異なった活動をすることです。教育にかんしてはいまだに幻想をもっているひとがおおくそう言い切るには抵抗があるのですが、やはり資格や学歴といったほかの人間との違いを売っているのです。そしてもちろん、通信とはコード化された情報をひとつの場所からべつの場所へと伝達することにほかなりません。
 

岩井克人『資本主義を語る』、以下太字は安田による


 というわけで、もし不特定多数に読まれるテクストを書きたければ自分の持っている差異を発掘し、それを活かすのがセオリーなわけです。

 それは職業知だったりスキル、経験、趣味で培った何かや、もう少し広くとれば知性や感性、想像力、センスといったものも含まれる。ただし後者は前者と違って、ほんとうにそれを持っているかどうかがかなりわかりづらい。一応受賞歴やファンの数、あるいはマネタイズ出来ているかどうかといった基準もあるが、そういうものが全くなくても「世間が見る目がないだけで自分には才能がある」と信じることも主張することも出来るし、さらにはそういう基準自体が不純である、と否定することすら可能である。
 だが「それでも自分には才能がある」という人は、そこにある差異を信じて勝負に打って出るのも、もちろんアリである。

 *

 ところで岩井克人は上の文章でヴェニスの商人の例を挙げている。
 彼らはヴェニスの港で金銀を積み込み、はるばるインドのカリカット港までたどり着くと、その金銀でコショウを買う。インドではわずかな金銀で買えるコショウが、ヨーロッパに戻るとその二〇倍三〇倍といった値段で取引される。だから膨大な旅費がかかっても、また途中で海賊や難破や船員の反乱やシーサーペントなどさまざまな危険があっても、充分に見返りがあるというわけだ。
 ここではヨーロッパとインドの、金銀とコショウに対する稀少性の違い、そしてそれに反映された価格差が利益の源泉となっている。いわゆる前近代的な商業資本主義(Marcantile Capitalism)ですね。

 経済圏とは、つねに間・経済圏であり、何らかの形で外部(他国・他の社会)との差異を内部に繰り込むことで活力を得ている抽象的な場のことである。大航海時代の商人は、外部を求めて海上を彷徨い、途方もない遠隔地を経済的に結びつけ、大洋に経済圏を確立した。コロンブスだって、ただ馬鹿みたいに冒険していたわけではない。新大陸の発見は新たな市場の発掘を意味していたのだ。

『人はなぜゲームするのか』所収、澤野雅樹「「商人トルネコ」と魔物たちの経済学」


A voyage from hell: how Magellan’s circumnavigation of the world changed history


 これを先程の話に引きつけると、あなたが持っている差異というのはあなたにとっては相対的にアクセスしやすいけれど、他の人にとってはアクセスしにくい何らかの情報ということになる。航海は危険で大変だけれど、まったくの未経験者よりは熟練の商人-船長のほうがカルカッタ港にアクセスしやすい。
 そうした差異がなにも思いあたらなければ、これはもう作り出すしかない。取材、調査、行ってみましたやってみました的なレビューの類いはそれですね。続けてるうちにそれがほんものの専門性やスキルになってゆく、ということもある。
 
 *

 さて本題はここまでで、最後に僕自身はどうなんだという話をすると、ブログが何回バズったとか、アクセスやランキングがどうだったとか、どこそこの商業媒体から寄稿依頼があったというような、あってないような実績の話は割愛し、とにかく僕には特別な才能といったものはない――本当にあるかないかはさておき、ないという前提で考えるべし――と思っているので、自分が持つ差異を考えると、まあ何十年も買い集めてきた、取捨選択にも自分なりの関心が反映されている人文・社会科学系の蔵書、ということになるだろうなと。

 ゆえに僕の書くものというのはだいたい、一定間隔で書物からの引用が出てくるわけです。できるだけ関心をそそる、それでいてあまり知られていないような事物・事例を紹介する。またあまり他では指摘されないようなテクスト間の関連性を指摘する。これが僕にとってテクストの最低限の価値を担保することなわけですね。
 かつてフレイザーは「私の理論は滅びても私の集めた資料は不朽である」(大意)と自負していたそうですが、これはかなり近いことを言っている。もちろん自分をフレイザーに喩えるのはおこがましいけれど。

 念のために言うと知性や感性を捨ててるわけではなく、このようにテクストの価値を担保することによって、はじめて心置きなく、自分なりの思考や感性をぶつけることが出来るみたいな感じです。

 *

 さてだいたい書きたいことは書いたので、今回はこれでお終いです。
 それではまた(・ω・)ノ
 




もしサポートしていただける方がいたら、たぶん凄いやる気が出て更新の質・量が上がるかも知れません。いただいたお金は次の文章を書くために使わせていただきます!