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正しい狂人のなりかた

 百目鬼恭三郎『奇談の時代』は、なかなか直接読むのは敷居が高い古典文献を膨大に読みこなし、そこから現代の読者に向け、面白い奇談をテーマ別に次々紹介してゆくという、大変お得な本である。
 これ自体で楽しむもよし、ちゃんと各話に出典がついており、巻末にはそれらの出典の簡単な解題も乗っているので、自ら古典世界に分け入るガイドにするのもよし、ぜひ座右にお勧めしたい一冊だ(ちょいちょいタネ本にするのであまり教えたくないまである)。

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 さてその中に「奇行」という一章がある。タイトル通りさまざまなエキセントリックやご乱心が紹介されているのだが、百目鬼恭三郎は奇行にたいする好みがあるらしく、たとえば、

 例の鳥獣戯画の作者に擬されている鳥羽僧正が、遺産分配の遺言状を書くように弟子たちに再三すすめられて、「遺産は腕力でとりあえ」と書き残して入滅したという話(『古事談』)

百目鬼恭三郎『奇談の時代』p.20、以下太字は安田による

 などは、百目鬼的には「不気味な面白さではなくて、厭味になってしまう」ということでダメなようだ。
 また三条天皇の母后が出家するさい、増賀上人が剃髪を仰せつかったのだが、それが終わると大声を張り上げ、

 「どういうわけでこの増賀を召されて剃髪させられたのか、さっぱりわかりませんぞ。私の陽物が大きいことをお聞きになったためでござるか。たしかに人よりは大きいが、今ではもう、練絹のようにくたくたになっておりますわい。昔はこんなに役立たずではなかったものを、残念じゃ」といったあげく、御殿の廊下から尻をまくって下痢便をひき散らした

同書p.20

 という『今昔物語集』に載っている逸話を紹介しているが、「ケタ外れの奇行」とは認めつつも、いかんせん派手すぎたのか、不気味さという点ではいまいちなのだそうだ。

 ではどういう奇行を百目鬼は好むのか。彼が「殊に私が好き」と言っているのは『仮名世説』に出てくる、上州大原の鋳物師惣左衛門という博覧強記を自慢とする男のエピソードである。
 それによると、ある日にわか雨が降り、菰をかぶって走ってゆく人々を見て、妻が「『枕草子』に、みのむしの様なるわらわ、と書いているのもあんな格好だったのでしょうか」と言ったのに対し、惣左衛門は「その言葉は『枕草子』ではなくて『源氏物語』須磨の巻に出てくるのだ」(大意)と言って口論となった。はい鏡の中のアクトレス状態ですね。


 で、確認したところ出典は『枕草子』、つまり妻が正しかったのだがこれに惣左衛門はブチ切れ、本を妻に投げつけるとそのまま家を出て、鳥山村の聟(むこ)のところへ行き、妻がたびたび連れ戻しに来て詫びても一言も口をきかず目も合わさず、そこから二十四年間、死ぬまで穴を掘っては埋めることを毎日繰り返したという。
 百目鬼いわく「この話で私たちを驚かすのは、ささいな論争に負けただけで、鋳物師が古典といっしょに自分の人生も捨ててしまった、その自律のすさまじさ」(p.24) なのだそうだ。
 まあちょっとこれに肯定的側面を見出せる現代人は、少ないのではないだろうか。だがこれに比べると、遺産は殴り合って決めろだの、皇太后にセクハラ発言して下痢便をひき散らすだのといったことは、長い歳月が必要なわけでもないし、確かにパフォーマンスが浮き出る感じはするのである。

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 さて百目鬼の好みがわかっただろうか。正直「わかるようなわからないような…」というのが僕の感想だった。一応、これみよがしな、わざとらしい奇行を嫌い、一見地味だがじわじわ来るような奇行が良い、というようなことは本人も書いているし、そうっちゃそうとも読めるけれど、いま一つ「そういうことなんだろうか」という腑に落ちない部分もある。

 「インターネット狂人」という言葉があるが、奇行というのはうまくやれば注目が集まる、お金になる、周囲に配慮せずとも逆に周囲がこちらを配慮するようになる、等々の利得があるもので、純度100パーセントの狂気というものはないとすれば、自ずと作為が混じり込むのも当然と思われる。迷惑系youtuberなどは「作為的奇行」の最たるもので、内実は計算高く厚顔無恥な、悲しいくらいの常識人であろう。

 だがどんな場合も作為的な奇行が悪いとは思わない。逆に「つねに常識的でいる必要なんてあるの?」ということも言えるからだ。そちら側に立てば、常識の枠内で振舞おうとすることこそが作為の最たるものであり、その作為をやめれば、意のままに振舞っただけで自ずと奇行と呼ばれる領域にはみ出すことになる。
 ロジャー・ローゼンブラッドだったと思うが、僕の好きな言葉に「周囲が合わせてくれないのはあなたに〝変さ〟が足りないからだ。充分に変なら周囲が合わせてくれる」(大意)というのがあるように、時に敢えて空気を読まないことは、生き抜く上での知恵といえる。

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 そんなことをつらつら考えつつ、オチがわりにあと二つ挿話を紹介して終わることにしよう。
 この二つの挿話は互いに似ているが、一方は百目鬼が気に入り、もう一方は気に入らなかったようだ。どちらが彼の心に適ったのか、予想しながら読んでみてください。
 まず一つ目。

 江戸初期の京の医師有馬涼及(りょうきゅう)が、往診の帰り、嵯峨野で桜の大樹をみかけて買ったところ、庭がせまくて植える場所のないことに気づき、横倒しにしたままにして、自分は座敷に寝転んで花見をしたという話(『近世畸人伝』)

同書p.21

  そして二つ目。

 松江藩の茶道だった岸玄知が、郊外を散歩中花ざかりの梅を見て気に入り、家財道具を売り払って買い特め、木はそのままにしておいて、毎年花時にやって来ては楽しんだ、という話(『続近世畸人伝』)

同書p.21

 さて百目鬼がどちらの奇行を「良し」としたのかおわかりだろうか。
 そう、後者なんですね。
 前者は、桜を横にしたまま自分も横になって見る、というあたりに「どうよwww 俺ってヤバくね?wwwwww」的なものを察知し、鼻白んだのだろう。狂気の道は厳しい。
 いっぽうで後者は、これ見よがしに他人に吹聴してどうのこうのという感じもないし、多大な支出をしたわりにはなんの利得になるのかさっぱりわからない。
 まあ知人に「実はあの梅、俺のなんだ」くらいの話はしたかも知れないが、そんなこと言われたほうも、こいつヤベェなというよりは「はあ…」みたいな感じだっただろう。しかし、思い出すつどに「なんなんだろうあいつは」と、不気味になってくる。

 というわけで、奇行にも色々あるので、狂人を気取るにも先達に学んでやり方を練ったほうがいいという話でした。
 いやそんな話だっけ。作為的奇行のなかから本物の狂気を峻別する難しさ、という話だったかも知れない。あるいは、単に面白い話を紹介したかっただけかも知れない。まあなんだかそんな感じです。

 それではまた(・ω・)ノ


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安田鋲太郎
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