ジェリコーの不遇さ、wikipediaのこと

 ジェリコー作「メデューズ号の筏」(1819)の日本語版wikipediaの項目は、かなり仔細かつ文章も読みやすくまとまっており、こんにち大抵の事物についての大まかな知識はwikipediaを読んでおけばなんとかなる、という感を強めている。
 これは古書からなるべくネットに書かれていない珍奇な事物を見つけて書く、という僕のブログやnoteにとって由々しきことだが、それでも、幾つかの書物の記述と照らし合わせると、どちらが正しいとまではわからないが、wikipediaとは若干ニュアンスが違う箇所がある。今回はそれについて述べたい。

ジェリコー『メデューズ号の筏』(1819)

 というのも、「メデューズ号の筏」はウィキペディアでは、ルイ十八世が後援した展示会「サロン・ド・パリ」で金賞を受賞し、ジェリコーが国際的名声を得るきっかけとなった作品であり、展示後はルーヴル美術館に買い上げられ国家コレクションに加えられたとある。批評家は賛否両論であったものの、その製作にかけた努力はおおむね報われたような印象を受ける。

 ジェリコーがこの作品を製作するにあたっての努力は壮絶なものがあった。まず、メデューズ号の筏の実際の生存者に話を聞き、同じく生存者の一人であった船大工に依頼して筏の模型を製作した。おかげで作品には筏の隙間まで精密に再現されているという。
 また彼は、

 ボージョン病院のモルグに赴いて死体をスケッチし、瀕死の入院患者の顔を観察し、切断された手足を自分のアトリエに持ち込んで腐敗の様子を観察し、精神病院から借り受けた生首を2週間かけてデッサンしアトリエの天井裏に保管した。

wikipedia「メデューズ号の筏」

 という。
 さらにジェリコーは、関連のある他の画家作品を模写し、ル・アーヴルに出かけて空と海をスケッチした。wikipediaでは触れられていないが制作の八ヶ月間で彼が外出したのは、このスケッチのための一度だけだったという。ちなみに「八ヶ月間」というのは実際に筆を入れてからの期間で、これらの下準備や数多くのアイデアスケッチを描いていた時期を加えると二年近くなる。
 またwikipediaでは「ジェリコーは義理の伯母に当たる女性とのつらい情事を断ち切られ、頭を剃られ」たとあるが、これも本によっては「社交界の楽しみに誘惑されないよう自ら頭を剃った」と書かれており、どちらも嘘というわけではないだろうが、まあ書き方次第でずいぶん違った印象を受けるなあとは思う。

 そんなこんなで、ようやく完成した「メデューズ号の筏」だが、たしかにこの絵画はルーヴル美術館に買い上げられはした。しかしロミ『三面記事の歴史』によればすぐさま「掛け金を外され、丸められて、物置に片付けられてしまった」のであった。しかも絵画の代金は長く支払われなかったのでジェリコーは作品を取り戻し、ロンドンで展示したという(一応ロンドンでは見物料をたっぷり得て、二年ほど彼は豪勢に暮らした)。
 そうして彼は完成の五年後、落馬がもとで持病の脊椎結核が悪化し、三十二歳の若さで世を去った。そこで遺品整理として彼の作品の競売が行なわれたさいも、ロミがいうには「メデューズ号の筏」は6000フランしか値がつかなかった(当時のフランの価値についてはまったく専門外なのだが、幾つか記事を読んだ感じでは1フラン=1000~2000円くらい?)という。

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 こうした記述からは、ジェリコーは「メデューズ号の筏」の製作に費やした労力に見合うだけの、充分な評価や報酬は得られなかったと見做さざるを得ない。
 さらに中野美代子「カニバリズム論」によれば、「ジェリコーは、この絵を発表したために烈しく非難され、やがて五年もたたぬうちに三十二歳で死んだときには、神罰を受けたのだと言われた」という。さんざんである。

 力作の反応が辛(から)いというのは芸術あるあるだが、なんというか、こういう報われなさを見るとあらためて、切ないものだなあと感じ入ってしまう。冒頭の「wikipediaがそうとう詳しくなってる問題」も含めて、なんだか、世の中せちがらい。あ、でもwikipediaはよく利用するので、たまに寄付してます。


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