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ペンは剣よりも強いというけれど

 「ペンは剣よりも強し」というのは、通常は「言論は暴力に勝る」という意味に理解される。だが「ペン」もまた暴力になりうる。
 つまり、「ペンは剣よりも強し」というのは、必ずしも善悪や倫理的な次元を含意していない。たんに「剣」が表象する軍事力からゲンコツに至る直接的暴力よりも、「ペン」が表象する論争からお前の母ちゃんデーベソといった言語的暴力(ここでは「暴力」という意味を極力ニュートラルに理解していただきたい)のほうが力が強い、と言っているのにすぎないのである。
 言論はしばしば公正に背く。でなければ、悪質なデマや誹謗中傷、煽動がしばしば力を持ち、現実に甚大な被害を巻き起こすことの説明がつかない。

 それでも、時が経てば物事の真相は明るみに出、直接的利害に惑わされることのない後世の人々によって公正に裁かれる日が来るであろう――そういう期待が持てなくはない。そして、そのさいの公正の足がかりになるのは「書かれたもの」の集積、すなわちペンの力であるとも言える。してみれば、ペンは確かに、長い目で見れば公正に寄与しているようではある。

 だが、そうしたことを信じるにせよ、自分が生きているうちに報われるかどうかはまったく保証の限りではないのであり、ましてや命運を決する重要な一瞬に、その遅々とした公正の足取りが間に合ってくれることは、まったく期待できないのである。関東大震災のさいの朝鮮人暴動デマにしても、のちに真相が明るみに出たからといってその時殺された人々が生き返ることはない。
 したがって僕は、ペンは倫理的にも反倫理的にもなりうるニュートラルな道具、「包丁」のようなものだとひとまずは捉えている。ずっと時間が経てば「あれは切ってはいけないものだった」と述懐する包丁、そのくらいに考えている。

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 「始皇は死ということを嫌った」(始皇悪言死)

 『史記』のなかのこの一文について、松本健一は武田泰淳『司馬遷』に依拠しつつ、次のように述べている。

 たとえその「絶対的性格」であったようにみえた秦の始皇帝にしても、人間的性格から無縁ではなかった。「始皇は死ということを嫌った」と司馬遷は書いた、と。
 たとえていえば、司馬遷は歴史を記録(記述)するということ以外に何も出来ないが、「始皇は死ということを嫌った」と書くことによって、「絶対者」であるはずの始皇帝の「主」とさえなった。と泰淳は問わずがたりに語っているのである。

松本健一『仮説の物語り』、以下太字は安田による

 身も蓋もなく言えば「始皇帝だってただの人間だ、死ぬのは怖い。そしてそのことを見抜いている俺は始皇帝より一枚上手」というわけである。
 ここに「公正」という動機は見当たらない。いや本当のところはどうだったかわからないが、少なくとも武田泰淳-松本健一はこの一文を司馬遷による始皇帝へのマウンティングと捉えている。すなわち司馬遷の「ペン」(筆)を、公正とは関係のない単なる力の問題として扱っているのである。

 ここに描かれているのは、政争に敗れて宮刑を受け、自死まで考えた一人の男の壮大なリベンジストーリー、つまり私憤なのである。なにに対しての? おそらくは自らの不遇と、それをもたらした憎き世界すべてに対しての。
 そして次の一節。これが今回の記事を書く動機となった。激アツなのでぜひ飛ばさず読んでほしい。

 歴史家は政治を動かすことも、武人のように民衆を殺すことも、宗教者のように人を救うことも、詩人のように言葉を生むことも、また五穀をつくることもできない。(中略)かれはすでに起こったこと、生れたものを、そのように記録にとどめる(記述する)ことができるだけである。
 しかし、かれはそのことによって、すべての起こったこと、生れたものを秩序だて、その理由を解き、説明する。そのことによってすべてを支配下におさめることができるわけだ。言葉(文字)しかもたない知識人にとって、これは万物の支配者となる可能性を示したものだ。

同書

 これこそが世の中の批評家を突き動かす根本動機である、と言ったら言いすぎだろうか。しかしこの暗い情熱、現実の権力を持てないのなら言葉によって世界を支配してやろう! というイカくさい企て――ここには笑って済ますことの出来ぬ心打たれるものがある。
 そうなのだ。『D.T.』でもみうらじゅんか伊集院光か、あるいはその両方が言っていたではないか。「童貞を捨てるのが早いと人間的に面白くなくなる」(大意)。これはつまり、「やらせてくれる女」という青年にとっての権力のかけらのようなもの――を手に入れてしまうと、言葉によって世界をどうこうする必要性が薄れてしまうためである。彼は小さな始皇帝になったのだ。そしてそういういい目に遭えない陰キャ、教室の司馬遷が「あいつは堕落した」と軽蔑と妬みのアンビヴァレンツに引き裂かれながら、自らの、極小の『史記』を紡ぎ始めるのである。

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 ペンは、まず私憤としてある。
 だが、根底にある恨みつらみ妬み嫉みに無自覚なまま書き散らしていれば、すぐに誰も読んではくれなくなる。そこで彼は、客観性を装う。しかしなかなか他人も賢いもので、うわべだけ客観性を取り繕ってもたちまち見抜かれてしまう。あまりに浅薄な客観性の装いは読者への侮りであり、怒りを買うことにつながる。そういう時期には、主張したいことがことごとく逆効果になるオウンゴーラーと化す危険性すらある。
 客観性を「装う」のではなく、客観的にならなければならないのだ。
 客観的になるということは、自らの偏りに自覚的になることであり、公正に向かって開かれてゆくことでもある。
 読まれたい、注目されたい、影響を与えたいという動機はほんらいは健全なもので、そのためには大いに書き方を工夫するべきだ。そうやって書き手は成長してゆく。いつしか彼の言論は充分に公正と見做してもよいものとなっている。

 だが、その核には、やはり私憤があるし、それは絶対に消えはしないのだ、とも思う。
 それは時にささやく。お行儀のいいことばかり書いてんじゃねーぞ! ネガティブなことを言う勇気! 偏見は個性! マウンティングする潔さ!
 ……それでいい。その暗い情熱は、きっと彼をどこかへ導くだろう。それが破滅であるか、素晴らしいゴール・インであるかはまだわからない。ただそれはとても危険で、混沌をはらむ内燃機関だ。そしてそれがなければ、そもそも何かを書く動機を失ってしまうような大切なものでもある(書かなきゃ書かないでも生きていけるのだから)。こういう思いを、多くの「書き手」が抱いていると私は信じるものである。
 書いててだんだん何言ってるかわからなくなってきたので、このへんで終わります。

 私は世界にマウンティングしたい。

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