ディレッタントの光と影

 ユイスマンス『さかしま』は、デカダンの聖書と呼ばれ、クラテール叢書『1900年のプリンス』で本邦でもおなじみのディレッタントの超人、ロベール・ド・モンテスキュー伯爵をモデルにした主人公デ・ゼッサントの博覧強記な語りと洗練の極みであるところの退廃趣味(たとえばギュスターヴ・モローやオディドン・ルドン、文学においてはペトロニウスやアプレイウスに光を当てたことは、どれだけ多くの読者に影響を与えただろう?)は未だに多くの、世界に対し違和感を抱き、私的な反逆を企てる陰キャ精神貴族たちの不朽の指針となっている……はずなのだが。

 実際に『さかしま』を読んだ者ならば、デ・ゼッサントにはそういう顔のほかに、もう一つの顔があることに気付かれただろう。すなわちどこか間の抜けた、世間知らずのお坊ちゃんという顔に。
 デ・ゼッサントは失敗ばかりしている。しかも、空想癖が仇なしたような自業自得の失敗が多い。高価な亀を購入したものの甲羅に宝石をはめ込んでいるうちに死なせてしまったり、青年に悪い遊びを教えて犯罪者をつくりあげようとし、けっきょく思い通りにならず無駄金を使ってしまったり、歯痛になって麻酔抜きで抜糸され、這々のていで帰路についたり。

 それだけではない。そもそもある意味においてデ・ゼッサントの人生そのものが失敗の連続とも言える。なにしろ、物語の冒頭から遊びすぎて心と身体と財産をすべて持ち崩して城を売る羽目になるわけだし、そうやって得た理想の閑居で終生を過ごそうと思ったのも束の間、また別の理由で住居を手放さなければならなくなるのである(このへんはネタバレになるので、興味のある方は読んでみてください)。
 ようするに、財産を喰い潰したわりには何も生み出せなかった浪費者、まさに「ディレッタント」という言葉のマイナス面を一身に体現しているのが、デ・ゼッサントという男なのである。

オディドン・ルドン『デ・ゼッサントの肖像』

 「ディレッタント」という言葉にはそうした、両義的なニュアンスがある。よく言えば洗練された趣味を持ち、日々を愉しむ粋人。だが悪く言えば世間知らずで甲斐性がない、虚弱なオタクといったような。『さかしま』にはそうしたディレッタントの両義性がきっちり描かれており、「デカダンの聖書」といった表向きの絢爛なイメージとは違った、虚弱なインテリくずれの悲しみとペーソスに満ちている。

 *

 「売り家と唐様で書く三代目」という川柳がある。
 唐様とは江戸時代に流行した元・明王朝時代の書体である(今でいう篆書・隷書・楷書に相当するらしい)。商家の三代目ともなると裕福で何不自由なく育てられたので、ハイブロウな唐様ですらすら文字が書ける。だがいかんせん苦労知らずのお坊ちゃんなので、一代目がしょぼい零細から起業し、二代目が発展させた商売を、彼の代になって潰してしまうのである。
 それで、屋敷を売るはめになって「この家売ります」と流暢な唐様で書く。そのことを皮肉った川柳なのだが、これはデ・ゼッサントのしくじり人生にきわめて近いものがある。

江戸後期の唐様(https://www.naritashodo.jp/?p=6992より)

 ところで、この川柳を少しもじったような話を人から聞いたことがある。
 その人(仮にA氏とする)は東洋美術を専門とする古物商の人で、すでに亡くなったったのだが若い頃に可愛がられていろいろと教えてもらった。そんなA氏が言っていたのが、「ディレッタントを育てるには三代かかる」という話であった。
 彼によれば、「一代目はがむしゃらに働いて財産をつくり、二代目は成金的に豪遊する。そうして三代目になってやっと粋な遊び方、いわゆる文化が身につく」とのことであった。
 この話は上の川柳と似ているが、言っていることは百八十度違う。川柳ではあきらかにディレッタントの三代目は(その流麗な字も含めて)嘲笑の対象だったが、A氏の話はむしろ三代目が体現する文化においてこそ一代目からの努力が実を結ぶのである。そう、三代目の知的浪費のためにお爺ちゃんもお父さんも働いたりとにかくなんやかやと頑張ってくれていたのである。ご先祖さま有難う! ということなのだ。
 さきほどディレッタントの両義性という話をしたが、これはかなり見事にディレッタントのプラス面とマイナス面が表現されているのではないだろうか。

 *

 かつて浅田彰は「知的生産は徹底的な知的浪費からしか生まれない」(大意)と言っていた。ようするに先祖の財産なり、蔵書なり、そうやって与えられた知的環境を喰いつぶしてこそ何かを生み出せるというわけだ(正直、浅田がそこまで生産的かどうかにはちょっと疑問符がつくけれど)。

 何が生産的であるとそうでないとを分けるかは分からない。
 財産喰い潰し型の知識人といえば本邦ではなんといっても南方熊楠を挙げるべきだろう。彼もまた家業である酒造りを弟にまかせ、自分は幾許かの不労所得を得て渡米・渡欧したり、蔵書を蒐集したりしてまさにディレッタント(彼自身は「リテレール」=人文の徒を自称していた)的な生き方を選んだが、その生産性はきわめて高く、『ネイチャー』や『ノーツ・アンド・クィアリーズ』といった海外一流雑誌に寄稿し、国内でも多くの原稿を発表したり盛んに往復書簡を交わして民俗学の勃興に貢献した。いまでもその筆業は全十二巻の『南方熊楠全集』にまとめられている。
 だが弟や近所の人にとっては、終生「なにをしているか分からない人」、悪くいえば「好き勝手遊んでるおじさん」に過ぎなかった。いや正確には、晩年にご進講の件があったので偉い学者だということが世間に周知されたが、それがなかったら死後も当分の間、アカデミズム外では変人奇人と思われ続けていただろう。

 このことに関しては、ディレッタントなタイプではないけれど核マル派の最高指導者であり理論的支柱でもあった黒田寛一が、周囲によれば実家の離れの小屋で理屈をこねてる困った奴、弟いわく「ゼッタイに頭おかしい」(大意)存在に過ぎなかったことなども考え合わせて、なかなか世間の無理解には世知辛い物がある、とため息が出る。

 *

 かくいう僕も、甲斐性なく本ばかり読み散らかしてきたことでは、そうしたディレッタント的な面が(主に悪い意味で)多分にあり、そのくせ何か著書を世に問うたりもしてないので、ここまで色々と名前を挙げてきた人たちに混ざって言うのも恥ずかしい限りなのだが、以前こんなことがあった。
 普段はお兄ちゃんは甲斐性がない甲斐性がないとなにかにつけ小馬鹿にしてくる妹が、ある日こう言うのだった。
 いわく、捜したい本があると。お兄ちゃんは本もたくさん持ってるし古本屋にもしょっちゅう行くから、安く見かけたら入手してくれないかと。
 これは兄の面目を見せる時が来たと思いましたね。なにを捜してるのか言ってごらん、『人間失格』? 『モモ』? なんなら『ハリー・ポッター』でも別にかまわない。いずれにせよ手に入れるのは簡単だから。
 だが、妹が言いだしたのは徳大寺有恒『間違いだらけのクルマ選び』の最新版であった。カレシが捜してるんだって。
 いやそういうものは古書店には置いてなくて、正確には何年かしたらたまたま置いてあることはあるかも知れないが気の長い話になるんで、さっさと新刊で買ったほうがいいよ、と言ったら妹は軽く失望した顔をし、それ以来今日に至るまで本を捜してくれといった話は一切ない。
 蛇足だが、もう一人の妹にも一度だけ本を捜してくれと頼まれたことがあってそれは百田尚樹『永遠の0』だった。別にここで百田をdisるつもりはないけれど、なんというか、まあ気持ちを察してくれ。

 なにやら悲しくなってきたのでそろそろ終わることにする。まあ実際読書家には変人(悪い意味で)が多いので致し方ないところもある。
 ともあれ、何事につけ周囲が無理解でも自分が好きだったらいいじゃないかということでひとつ。そんな感じで、ではまた(´・ω・`)ノ


もしサポートしていただける方がいたら、たぶん凄いやる気が出て更新の質・量が上がるかも知れません。いただいたお金は次の文章を書くために使わせていただきます!