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タイトル未定

こんばんは。

しばらくInstagramしか見ていなかったのですが、久々にTwitterを見てみると、Instagramとの違いを際立って感じました。

見え方の異なるリアル

Instagramは、生活の中で視覚的に華やかな箇所、盛り上がってそうな箇所を切り取って投稿されてやすいので、皆さん充実して幸せそうです(たまに文字だけのストーリーで病んでそうな文面も見ますがTwitterの連投に比べたら可愛いですよね。)。Twitterは、生活のリアルな空気感の投稿(つぶやき)から、感情が溢れ出たような投稿まであって、たくさんの短い文句のようなツイートしてる人は、パッと見充実してないんじゃないのって思ってしまいそうになります。

何を今さらって感じなんですが、最近、僕は数ヶ月結構無気力だったのにInstagramだけ見てる友達には輝いてるとか素敵とかってちょくちょく言われて、現実とのギャップを強く感じました。体験としては初めてなので、ギャップの大きさに驚きました。どうせまた僕がTwitterで沢山ツイートをし始めたらこいつ病んでるなって思われるだろうなとも思います。

↑2次情報って当てにならないねって言いたいです。

※そういえば、数年前イーロン・マスクがなんかのインタビューでインスタは人を不幸にするって言ってましたね、マーク・ザッカーバーグが嫌いだからかもですが、イーロン・マスクは幸せ=現実-期待って言ってたので、その期待の数値を上げ得るInstagramは危険だって論調だった気が気します。これはこれですごく賛成。特に幸せの公式(現実-期待)は当時すごく刺さった。家で一人で賑やかなInstagramのストーリー見てる時は切なさが増しますよね。

ツイートの繁殖力ってすごいよね

もうひとつ、強く感じたことは、Twitterの拡散力。これは、パチンコみたいにすごく人間にフィットしたんだなと思います。Instagramにはあまりないですね。久々にTwitter開くと思いました、リア友ベースでは衰退していましたが、なんか、騒がしいな、と。有名人のツイートに対する反論、炎上、共感系のバズとか、狂気にまで思えました。

僕は、脳停止でRTやいいねをする度に脳の細胞が死んでるような気がします。なにか超短期の快楽と引き換えに、自意識を失うような気がするのです。社会学者の宮台真司先生は、「クズ」「法の奴隷」「言葉の自動機械」という言葉を使いますが、僕はこれらがすごく腑に落ちます。これらは全て同じ意味で、3つ目のワードが想像しやすいと思うのですが、要は、他者の価値観やイデオロギー、酷ければ文章そのものを、無裁量で丸々コピーして使うような人達だと思っています。成り立ちベースで噛み砕くと、周囲のノリに迎合するしか脳がない人、という理解を僕はしています。

これ、すごく難しいところで、もちろん自分もそうではないかと一時期激しく疑いました。現に僕も各著名人の主張に納得することは多いです。今では、自分は軽度の「言葉の自動機械」くらいに思うようにしていますが、なんせやっぱりきっぱりと線引きできるようなことでは無いので、連続的な評価にはなってきますね。ひとつ思いついた目安は、インプットした情報をどれだけ自分で「編集」しているか、という点にあると思います。この「編集」というプロセスの1つが、論理的思考であり、芸術的肉体的感覚であり、経験値も必要になってくる、ということです。誰かが言ってるからとか、みんながそう言ってるからとか、こっちの意見の方が強そうだから、という理由で選択をしていると、無編集のままアウトプットを垂れ流すことになります(行動でも同じ)。これは、自由意志について再び考えさせられるほどの問題ですよね。ちなみに、「言葉の自動機械」の言葉に出会う前は、誠に失礼ながらそういった人達のことを独自に「NPC(ゲーム内の操作プレイヤーがいないコンピュータで制御されたキャラのこと)」と考えておりました。

話を戻すと、ツイートの繁殖能力がいかに強大か想像しやすいですよね。「言葉の自動機械」とRTとの相性が良すぎる。1秒で誰かの意見を自分の意見として公開したような気分になれる。これは、無理やりにでも俯瞰した視座で見ながらにしないと、脳に良くないと思ってしまいます。

note書いてみた

ここまで言っておいてなんですが、「言葉の自動機械」は、別に不幸でもなんでもないと思うので、そのままでいいと思ってしまいます。その人が抜け出そうとしてもしなくても、他の誰かが啓蒙活動をしても、総人口に対する割合も変わらないような気がしますし。ただ、ネトウヨネトサヨフェミニスト、などにかなりの数の「言葉の自動機械」が混ざっててそうで騒がしくなってて、"それぞれの思想をちゃんと持つ人がそのRT数ほどいるわけじゃないよね?" と、どこかにこの感情を残したいということでnoteに書きました。特に憤怒したり発狂している人をよく見かけますし、同じような繰り返しなので、ツイートしてるのは人間なのに人間じゃないような、Twitterの空虚さを感じました。それらの人たちを同類に扱うと1番怒られそうですけど、発狂する人は発狂する人という枠で見た方が、共通点多くて考えやすいと思います。これに関してはネトウヨとネトサヨを知り始めた頃から思ってたことです。どっちの思想のベクトルに舵を切るかと言うよりは、ベクトルの大きさが決まっていて、言葉の自動機械はそのベクトルの大きさでどちらの思想にもなり得る、という感じの理解です。特に、自分が直接的被害を受けてないのに正義振りかざす人、2次情報で発狂的になってること多くないですか?(発狂連呼してますが、これの定義はハッキリさせたいのにできていません。マジ切れしてるとか界隈のRT何回もしてるとか、、)

↑要は、それぞれの思想をディスってるわけじゃなくて、言葉の自動機械となって自分の時間を生きれないだけでなく、通り越して発狂に至ってる人って、猛者ですね、ということです。

Youはどんなこと思うの?

noteは、誰かに見られ得る形で思考をアウトプットしながら整理できるからいいですね。Twitterよりはよっぽど言葉の自動機械化に繋がらないと思います。どんどんブログとか動画とかnoteとか、個人の視点から編集されたコンテンツがネットにもっと増えれば楽しいですね。例えば周りの人が投稿したらめちゃくちゃ気になる。