幻聴が聞こえ始めてまるっと一年が経った

1行目を書いている今は1月1日で本当にまるっと1年なのだが、果たしてあと20分ですべてを書き終わることが出来るだろうか。まあ信号も点滅していようが一歩でも踏み出しておけばセーフなんだから問題ないだろう。

 幻聴が聞こえ始めてまるっと1年が経った、ということに1日が終わる20分前に気が付いた。

1年前は、外の世界に嫌気がさしていたわたしの鼓膜を破るように、おおきな音楽が鳴り響いていた。両手でふさいでも音量はちっとも変わらず、どれだけ叫んでもかき消すことはできなかった。その音楽は私を不快にさせるためだけに奏でられていた。

幻聴は正直に言って楽しいこともあった。というか、あまり気にしていなかった。元々文字に色を感じたり、図形を見て舌触りを感じたり、嫌いという感情に腐ったゴミみたいな匂いがついてきたり、夢の中で匂いを感じたり、なんというか、五感や心の中で感じたものが別の五感に表れることが多い性質だった。だから、心の不安定さが音として出てきたのは、当たり前のような気もしていて、ある程度は受け入れていた。

ただ1つ、忘れられない幻聴がある。幻聴が始まってしばらくしたときのことだった。「お前のそういうところがダメなんだよ」とわたしを責め立てる男の子と、わたしの言い分を聞こうともせず泣きじゃくる長い髪の女の子が、私の中にいた。勿論実在する人物ではなく、すべて幻聴である。この頃は幻聴だけでなく他の幻覚も見えていた。ただこの2人にだけは、初めて会ったときからこれは私だと思った。自分を守るために他人のことを攻撃するのも、そのくせにとても脆く、1つ突かれたら瓦解していくのも、どちらも私の一部だった。この幻聴だけは、他の耳触りが悪いがそれもまた一興などというお気楽お殿様気分では済まず、私の体調をますます悪くする原因になった。

4月、死のうと思った。激情の果ての突拍子もない話ではなかった。ずっと考えていたことだった。死んでしまえば今抱えている悩みのすべてから解放されるというのは甘美な響きに思えたのだ。薬局に行って、睡眠薬を買った。余っていたノートを1枚ちぎった。なんとなく、自殺の遺書というものは恨みつらみを書くものだと思っていたが、いざ書こうと思えば自分の居なくなった世になんの感情も湧かなかった。家族宛に「私が死に損ないの時に発見したら、どうかそのまま死なせてください」と、その一言だけ書き、睡眠薬を1箱分飲んで、首を締めて、しばらくうつらうつらと死ぬのを待ったが、やがて失敗したことを悟った。赤い痕だけが残った。ただの死に損ないだった。その後の体調は酷かった。睡眠薬の過剰摂取のせいで20時間以上は眠りこけ、起きようとしても平衡感覚が掴めずまた倒れ、泥のように眠り、ようやく起きると髪はパサパサで、顔は土気色だった。ほんとうに、ただの死に損ないだった。

withコロナ、という言葉が広まり始めた6月。学校が再開した。世間の鬱々とした雰囲気は私から出ていったマイナソー(人間の心の奥底に秘められたマイナス感情から生まれる邪悪なモンスター 騎士竜戦隊リュウソウジャー参照)のせいではないかと思うくらい私の体調は良くなかった。この時期は教室に入れない日や自分の席に座っても冷汗が止まらない日もあった。自分ひとりでなにかと戦っていた。

10月には学校を辞めた。大多数が息をするのと同じくらい当たり前に、学校に留まることを選択する中で、自分だけ選択しないという決断をするのはとても勇気のいることだった。大げさでなく、これから先の人生ぜんぶ虚しくてたまらなくなるのではないかと思った。
辞めたことが正解かどうかなんて分からない。他者との価値観の押し付けあいを重ねて人生を彩っていく。朽ちるその間際に哀愁の念とともに思い出すだろう。

まあそこから新しい学校に転校した後、新しいバイトを始めてからはおおむね順風満帆なので人生なにが正解なんて、実際に経験するまでは分からないものだなと思う。(この話もまた卒業したら書き記しておきたい)学校を辞めるという決断は部外者が軽々しくなにかを言えるものではないから周りには、とりあえず保留にしようよ、という言われていたけど、私は一先ず、学校を辞めて良かったなと思っている。学校を辞めていなかったら、私はあのまま鬱々と高校生活を過ごしていた、というよりまア多分また自殺しようとしていただろうな、と思う。

幻聴が聞こえてきて1年が経った。1年前から友人や家族、取り巻く環境すべてが劇的に、だが揺蕩うようにゆるりと変化していった。それらの中で失ったものはあまりに多く、だが失わなければ得られないものもたしかに手に入れていた。それらは取りこぼしてしまったものたちかもしれないし、手を伸ばせば届く距離のものをようやく見つけただけだったのかもしれない。

変な話だが、幻聴に感謝をしている。
不思議な1年をありがとう。


最近感じているのは「すべて自己補完の範疇に過ぎない」ということ。私たちは常にバイアスというレンズの入った眼鏡をかけて周りを見ている。起こる物事のすべてを自分の偏った価値観を通してしか見ることの出来ない、ということを私たちは重々に理解して生活するべきである。
私たちは、物事は他人が起因して起こったのだ!と理屈を捏ねるのが得意だ。ただ、その理屈を捏ねたとき、本当に他人と私に因果関係があるのはどのくらいの確率だろうか。
“自分の偏った価値観を通して見た”他人と自分には因果関係があるかもしれないが、それはすべて自分の世界線で完結していることにすぎない。
偏見があることは悪いことではない。私たちはどうやったって自分を通してしか他人のことを知ることはできない。ただ、そんな偏った価値観があることもすべて“自己補完の範疇にすぎない”のだということは重々心に留めておきたいと思うようになった

怒らない大人は自己責任、という言葉を正しく捉えられているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?