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浄土真宗法話「頑張ったのは・・・」

講題「頑張ったのは・・・」

               奈良県 吉野郡 勝光寺 花岡 静人 師

みなさんこんちは。

このたび築地本願寺のご縁、奈良からはるばる車でやって参りました

たまたま出発しようといたしましたときに

お知り合いと出会わせていただきまして「どこに行かれるですか」と

おっしゃったもんですから

「東京です。築地に参ります」と申し上げました

「あぁ、えらい遠いところまで行くんですね~」

「ま、とにかく行ったら頑張ってきてくださいね」と

おっしゃってくださったんです。

「はい!」と言いながら、車を出発させたんですけれども

その途中にですね、「頑張ってくださいね」「頑張れ」

あぁこの言葉、ずいぶん聞いてきたなぁ って

そんなことを思っておりました

同時に何か今までたくさん人様に向けてこの言葉を届けてきたな

そんなことも思ってみました

ただ考えてみますと、聞いてきたほどあるいは人に届けておるほど

「じゃあ同じこの言葉を自分に聞かせたことがあるだろうか」と

思うと実は、自分にはほとんどこの言葉、「頑張れ」ということを

向けたことがないなって、そんなことも思ってきたことであります

だけど世の中ではこの言葉が、ずいぶんと大変、やっぱりいい言葉として

おそらく皆に意識されて使われてるんだろう

ですから、人様に届けていくんで聞くことが多いんだろうなと

思うております。

いつごろから聞いてきたんでしょうかね

どれほど小さなときからこの言葉を聞いてきたんでしょうか

ひょっとすると、お母さんのお腹の中から出てきたときにはもうすでに

聞いておったのかもしれません

お医者さんやあるいは看護師さんがね

出てくる私に向かってではないでしょうけれど

きっと「頑張れー!頑張れ!頑張れ!」っておっしゃってたでしょうから

その中に出てきたわけですから

この人生最初から頑張らされてんだろうなと思う。

幼いときの記憶をずっと辿っていきますとね

幼稚園のころの運動会のことを思いだすんですが

やっぱりあのときだって、周りから「頑張れー!頑張れ!頑張れ!」と

聞かされておったように思います

その後も勉強で「頑張れ」生活で「頑張れ」今日もずっと何か周りから

「頑張れ」「頑張れ」「頑張れ」と頑張らせられてる

一度だけね、あんまりよく聞く言葉ですからね

「語源がどこにあるのかな?」って思って調べてみたことがあるんですよ

そうしましたらね、実は「我を張る」というのと「頑張る」というのは

「ほぼ同じような語源である」っていうことが

書かれてある本と出会わせていただきました

何か本当に良い言葉だと思っていただけに

「あっ こうゆう側面があるのか・・・」ということを思わされた同時に

そこからよくよく考えてみますと、最初に申し上げたように

人にはよく使うんですが、自分にはあまり使わない

なぜだろうかって、やはりきつい言葉であるからだろうと思いますね

「頑張れ」っていうのは

今のその方を認めずに「尚より良きものをめざしなさい」と

告げてゆく言葉でありますから

だから非常につらい。それを自分に向けるとつらいもんですから

簡単に人には向けるんですね

そのあたりがちょっと妙に心に引っかかってしまいます

余裕があるときならば、ひょっとするとこの言葉は

その人を時に勢いづける、そんな力を持つかもわかりません

だけど本当に余裕がなくなったときにこの言葉をかけられたならば

つらいんでなかろうかなぁってそんなことを思います

阿弥陀さまという如来さまは、私たちに「頑張れ」とは

おっしゃらない如来さまであってくださいます

「精一杯頑張ってる」

「それだけあなたは頑張ってもそれでも尚あなたの悲しみや

あなたの苦しみあるいのちを超えていくことができないということは

私が知りました。だからあなたに頑張れと言う仏さまになることは

やめました。頑張れないあなたを、頑張りようのないあなたを

そのまま抱いて抱えていける仏になるよ

私が頑張りましたからどうか安心なさい」と

このいのちにただ今も「なんまんだぶ」「なんまんだぶ」と

届いてくださっております

私を頑張らせる如来さまではなくって

私のためにいのちを懸けて頑張ってくださった如来さま

南無阿弥陀仏。その如来さまのおはたらきに抱かれてゆく仏教を

浄土真宗とお聞かせいただいております。

ようこそのご聴聞でございました。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏・・・

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