ありのままが「闘い」の理由

自己分析の過程で気がついたことをつらつらと書いていきます。

私は親しい人間に対してほど、自分のパーソナルな部分について話さなくなる傾向がありました。いつからか趣味は何だとか、どういうものが好きだとかそういった部分について深掘りすることを意識的に避けるようになっていました。決定するときも自分の意見を極力介在させないようにしていたなと思います。それはなぜかを考えていく中で、一つの感情を抱いていることに気が付きました。

「理解されないことに対する、潜在的恐怖」

思い当たるフシはいくつかあります。

最も最近で明確に感情を覚えているのが、大学2年生の頃にお付き合いしていた方との間に起きた出来事です。元々、音楽(邦楽)のつながりで仲良くなっていったのですが、その最中洋楽を中心に聴くようになり始めていきました。徐々に好みに違いが生まれていく中で、理解してもらえなくなっていくのを感じるようになっていきました。価値観のズレが大きくなり、「なぜ理解してもらえないのか」と一人悩むことが増えました。(今は主観的には良好な関係を築けているつもりです。悪意はないですがもし見ていたら申し訳ない。)

また幼少の頃から身内、主に母に「なんでそんな事するのか」としょっちゅう言われてきました。本人の意図としては悪意はなかったんでしょうが、幼心ながら傷つきましたし、このように考えるようになってからは明確に嫌悪感を抱くようになりました。(日常的に感謝していますが、どうしても受け入れられない部分の一つです。)

個人的に価値観が異なる人に対しては「なぜそう考えるのか」と感じ、ある意味研究対象的な目で見ることが多いのですが、それも理解してもらえない。


その結果行き着いたのが

「自分を表現しない」

という防衛手段でした。


そうするようになってからというもの、親しい人間や仲良くしたいと思う人間に対しては距離を取られないように当たり障りのない人間を演じるようになっていきました。表向きは上手くいっています。しかし、そうしすぎることで心の距離を取られていると感じる人間もいるのでしょう。

その結果、親しくしたいと思っていた人や興味を持ってくれた人間と距離ができて連絡を取らなくなる、取れなくなるなんてことはいくらでもあります。実際、つい最近もありました。もうそんな風に身近な人を手放したくないんです。

だから身勝手な理由だけで自分を表現しないということをやめようと、自分のトラウマと「闘い」を始めたのです。ここの場はその一環です。誰かに対して自分を表現することで、少しでも成長できたらなんて思っています。

こんな決意表明をしたところで終わりにしましょう。
ではまた。


書き終わってから素敵なものを見つけることができました。
「全てを理解してくれる人がいる」という幻想を捨てることが大切そうですね。

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