「多作多捨」と貝塚データベース【ボードゲーム】

Yukoです。もうすぐワクワクドキドキの新学期です。本当にドキドキです。絶望の淵ですが、頑張ります。

ドキドキと言えば土器。貝塚ですね。
今回は、私がデザイン(特にボードゲーム)のアイデアを形にする、大きい基盤について、少し書きたいと思います。

私は普段、パソコンに入っているメモ帳に、ボードゲームのアイデアを書き留めています。その書き方は、名前だけを書いたネタのようなものもあれば、基本メカニクスだけを書いて放置しているもの、ルールの形に起こしてあるものなど、非常に種々雑多です。

どこかで聞いた言葉で、1つのゲームの裏には30のボツになったゲームがあり、さらにその裏には900のボツになったアイデアがあるとか。一将功成りて万骨枯るとはよく言ったもので、1つのゲームが作品たり得るためには、そこに至るまでの壮大なバックアップリソースが存在し、最終形との比較の中で切り捨てられた「やや劣る」デザインたちが存在します。そうしたデザインたちは、残念ながら世間にお披露目されることなく姿を隠します。この「作って捨て」の習慣を私は「多作多捨」と読んでいます。

「多作多捨」とは本来俳句の言葉だそうです。たくさん詠み、たくさん捨てる。その過程で俳句を磨き上げていく、という意味で、下手な鉄砲も数撃ちゃ、とは違い、その過程には明らかに気づきと成長があります。ボードゲームも同じで、多く作り、多く捨て、シンプルな形に落とし込んでいきます。

そして、その多作多捨を手助けする(あるいは多捨に伴って拡大する)のが、捨ててきたアイデアの溜まり場、私が呼ぶところの「貝塚」です。貝塚は、今まで捨ててきたアイデア、もしくはたまたま思いついたけどそこから発展せずに放置してきたアイデアが全て固まった場所(自分ならばパソコンのノートなど)を指しています。

忘れてはいけないのが、その捨てられたアイデアたちは、その時目指していたデザインにそぐわないから、採用されなかったということです。言い方を変えれば、目標が変わったならば、また日の目を見るアイデアもあるだろう、ということです。
強力な接着糊としては機能しなかったけど、ポストイットにはなった、というような。

少し脱線して、「初めてスーパーマリオを遊んだ時」と「1年間プレイした時」を想像します。前者は闊歩するキノコを見たときに、「これって食べられる?倒すやつ?仲間?」と考える部分に脳のリソースを割きます。
一方で、後者はそのゲーム体系に順応しているため、もはや脳がクリボーと認識する前に踏みます。何も考えないということは、それ以外のことを考える余裕があるということです。

ゲームデザインを続けていると、アイデアの1歩先、2歩先が見えてくるようになります。そうすると、今まで寝かせていた(あるいは切り捨てていた)アイデアがどこかでカチッと繋がる瞬間があります。ゲームデザインの第一歩であるひらめきは、今までに自分が通ってきた沢山のアイデアの集積です。

もしくは、貝塚を暇なときに眺めていて、おっ、とワクワクするものがあればチャンスです。ボードゲームデザインはワクワクの具現化で、そもそも貝塚は発見やワクワクから始まっているものなので、いわば自分のワクワクの集積でもあります。

こうした貝塚に捨てては拾い上げ、捨てては拾い上げるサイクルの中で、たまに宝物を見つけます。

当たり前のことかもしれません。それでも、ボードゲームに限らず適当なものをたくさん作り、たくさん捨ててきた自分が思い返してみると、こうした貝塚は本当に大事な自分の引き出しになっているんだなと思います。

何かを作り始めたい人、そしてその一歩を踏みあぐねている人に、「何かを作り始めるって、実は難しくないんだよ」と伝えたいです。

Thanks for reading!
(January 26, 2022)

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