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漂流教室No.8 項王の敗因?

先日、同僚の先生の研究授業を参観しました。
教材は『史記』。
「四面楚歌」から項王自害の場面を読んだ後、
彼女(お若い女性の先生です)はこういう問を立てた。
「項王の敗因はなにか?」

ふむ、項王の敗因?
『史記』にはこうあります。
「時利あらず 騅逝(行)かず」
有名な「抜山蓋世」の詩ですね。
項王自身は自らの現況を「時利あらず」とした。

また、味方の騎兵わずか二十八騎となったときには、こう言った。
「此れ天の我を亡(滅)ぼすにして 戦いの罪にあらざるなり」

自刎(自分で自分の首をはねる。おお、恐ろしや)直前にもこう言っています。
「天の我を亡ぼす」

『史記』の記述に依る限りでは、項王の敗因は「天が滅ぼすから」ですね。
それ以外には読み取りようがない。

しかし、生徒たちは実にさまざまな「敗因」をひねり出す。
「せっかく逃げるようにいわれているのに逃げなかった。もう疲れたんだ」
「江東(項王が挙兵した地)へ行かなかったのは臆病だったから」
「沛公に比べてカリスマ性がなかった」
等々。
まあ、いろいろ出てくる。

同僚はその意見ひとつひとつを黒板に書き出して、
「なるほど、それもあるね」
「いいところに目をつけたね」
と、取りあげていく。
決して、
「それはどうかなあ?」
とか、
「それは違うんじゃないか?」
とは言わない。
せっかく生徒たちが考えた意見なんだから否定はしない。

研究授業を見に行くと、こういうのが多い。
しかしなあ・・・

私は古文や漢文の授業の最大の目標は、
「作品そのものを忠実に解釈すること」これに尽きると思っています。
項王が「疲れた」とか、
「臆病だった」とか、
「カリスマ性に欠けていた」とはどこにも書いていない。
そりゃ、感想を持つことは自由です。想像の翼を広げるのはとても楽しい。
たとえそれが妄想であっても、個人の妄想を止めることは誰にもできない。

でも、『史記』を読み取ることを目標とする授業では、やっちゃいけない。

と、研究授業のあと、○○ちゃんに言いました。
同僚の先生なんですが、普段は「○○ちゃん」と呼んでいる。
娘と同じ年なんですよ。○○ちゃん。
で、○○ちゃんの前では私は自分のことを、「お父さんはね、」と言う。
けったいな職場です。

ちょっときついことを言っちゃった。ごめんね○○ちゃん。

生徒がグループを作って、話し合って、結論めいたものをこしらえていく。
真実への到達を目指すんじゃなくて、「考える」という経過を第一義とする。
だから、項王の敗因を「妄想」するようなことをしちゃう。

なぜ、ひとりで正しい解釈を目指すことが軽んじられるのでしょうか?
なぜ、グループで話し合わなくちゃならないんでしょうか?

生徒の中には、人付き合いを苦手とする子もいます。
いや、苦手どころかまったくできない子もいます。
そんな子を無理矢理グループに入れるのが今の学校。
寡黙な子、人見知りの子、そんな子が一番得意としているのが国語だったりするのに。

古典文学の学習の本義を忘れ、おとなしい子たちの楽しみを奪い、
ただ、思いつきで発言したり、人より大きい声の持ち主がリーダーになるような授業。
もういい加減やめてもいいと思う。

ところで、私はどんな研究授業をするか?
まともな研究授業なんかするつもりはさらさらない。
まあ、ほとんど趣味の世界ですね。

今年は現代文の授業で、室生犀星の名が出てきたところから、
無理矢理金沢三文豪に持って行って、泉鏡花の本の装丁に進み、
画家の小村雪岱の絵を映し出して、
ついでに鏑木清方の絵も見て、
なぜだかアルフォンス・ミュシャの絵も見て、
ああだこうだと、一コマ(45分)しゃべっていました。

去年は『史記』の「鴻門之会」より、
戟(げき)という槍みたいな武器からスタートして
中国と日本と西洋のさまざまな刀剣を映し出して遊んでいました。
そういえば甲冑もいろいろと紹介したなあ。

おととしは・・・
確か、構造主義のお話を延々していたんじゃなかったかな?
レヴィ=ストロースと、ジーンズのリーバイ・ストラウスはおんなじ綴りだよとか、
でも、赤の他人だよとか、
内田樹さんの話もしたなあ。

まじめに研究授業に取り組む先生方には申し訳ない。
こんなのが一人ぐらいいてもよろしかろう。
もうすぐいなくなるんだし・・・

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