コミュニティは「求められていない」6回までのまとめ

コミュニティは「求められていない」
これまで合計6回開催しました。

§7に松原明さんをお招きするにあたって、これまでの6回をおおざっぱに振り返りました。ご笑覧ください。

§1 2018年3月12日
§2 2018年4月6日
§3 2018年4月24日
§4 2018年6月16日

§5 2019年5月21日@大府
§6 2019年7月23日@大府

①当初の思い:

主催者はマンションのコミュニティ作りを業務にしている。

コミュニティは必要とされているが、担い手は簡単には集まってこない。コミュニティは「求められていない」とあるとき直感的に思った。

その思いを素直に問うて、対話の題材にしたいと思った。

②6回の開催を通じて:

・コミュニティという言葉は社会学的には100年以上前に定義された言葉。
→定義に沿わない解釈で実にさまざま、コミュニティという言葉が使用されている。
→なんでもかんでも人が集まっている状態のことをコミュニティと称しているようだ。
→ヨーロッパ経由の「コミュニティ」とアメリカ経由の「コミュニティ」で用法が異なっているようだ。

・同好、同思考、同志向の人の集団/居住エリアの不特定多数の集団の両者、どちらかの定義に二分できるようだ。

(前者は社会学的には「アソシエーション・派生社会」と定義されているものにほぼ同義なのに、コミュニティと称されている)

・コミュニティ、という言葉に関心をもつ者(6回の参加者はというべきかもしれないが)のうち、若年層は、地縁に沿った運命的共同体のもつ「紐帯の強さ」を、良し悪しは別にして理解していない。単に地縁由来の人間関係に基づく社会的体験が乏しいから。(まさにこれがコミュニティの衰退の証か)

・4回目までの開催では、コミュニティ、という言葉を自分と違う意味で使っている人がいる、という者同士の出会いの場だったかもしれない。そのこと自体でも価値はあったように思う。

・5回目6回目で、、、コミュニティが必要、なのではなく、必要なものは互助である/もしくは人が人として行き続けるためには、人との関係が必要である、など、これまでコミュニティは「必要である」と、もやっと語られてきた中で必要な事柄が、対話の中にも生まれてきたようだ。

③個人的にこの開催を通じて得たもの:

・高田保馬が100年前に示した通り「基礎社会は分業の発展で衰退した」にもかかわらず、いまなお国家的には、コミュニティの存在を自明のものとして、制度が形成されつづけている!

・すでにコミュニティは衰退している。が、あまりにも重宝してきたので誰も代替案を言い出せない。

・コミュニティという言葉を代替する概念や言葉が必要。

・小規模多機能自治の話は、都市でも有効だと川北さんは言っていた。しかし実感として若林町会4000世帯16000人はすでに小規模ではない。都市部の自治の単位が、ドラスティックに変化するなら話はべつだが、今の統治システムが主流のままでは、自治の主体がない。主体の位置づけがない。主体をどう新生するのか、新生された主体がいったいどういうシステムのもとにあるのか、などをきちんと考えない限り、先には進めないのでは。

・都市部の最小統治単位を地縁ベースの組織(のみ)にゆだねるのは、もうやめなければならない。集合住宅までを視野にいれた統治の新しいスキームを早急に確立すべき。(あえて自治単位とせず、統治単位とする。これは行政システム側の問題だと思うから)

・地縁ベースの組織が甚だしく輻輳している。歴史的経緯や、縦割りのせいにして看過するのは、もうやめたい。全社協などがコペルニクス的転換を率先して行うべき。地区社協と民児協の違いなど、当事者にはなんの意味もないし、傍観者には差異などわからない。

・高田保馬の少子化を見通した理論「少子化の要因は、生活期待水準が生活水準を上回ること」と同様に「基礎社会は分業の発展で衰退した」はすごい。どっちも当たり前、っちゃ当たり前なのですけど。


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