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トルコ・ハルフェティ連詩を終えて:三宅勇介 x 四元康祐往復書簡 第七回

四元さん、こんにちは。

また投げたボールが返ってきちゃいました、「頭で書くタイプの詩人」問題、飲みながら朝まで語れそうですね(笑)。

「頭で書く」詩は読んでいても不気味さに欠けて驚かされない、という四元さんの言葉で思い出したのが、ある作家の言葉だったと思いますが、(すみません、うろ覚えですが)「新しい文学があるのではない、新しい生理があるのである」

頭で考えていても、全く違う「生理体」には勝てないということかもしれません。ただ、へそ曲がりの僕は、名言だと思いつつ、どこかで「それだけかな?」と思っていたりして(笑)。まあ、名言というものはなにかを切り捨てているからこそ名言になり得るのかもしれません。

「機智」や「奇想」から出発して、無意識の深層に降りてゆき、自分でも思いがけない獲物を捕まえて帰って来る、この垂直の下降を通してシステムの外にでる、という四元さんの言葉、なるほどなあ、と思います。

(写真中央が翻訳・通訳を引き受けてくださったエスラさん。「勇猛果敢」と染め抜かれた手ぬぐいを持参)

「機智」や「奇想」、あるいは「頭で書く」問題とはちょっと話が違うかもしれないのですが、例えば現代詩や現代音楽が、読者や聴衆を置いてけぼりにして、実験性?や難解性?を推し進めて言った結果、袋小路に入りこんでしまった、という話、(森山さんと四元さんの往復書簡でも、この問題に触れていたと思うんですが、)これなんかも自戒の意味も込めてなのですが、時々考える訳です。

私が前回、映画でも詩歌でも、「冒険して、攻めているけど、面白いもの」を最も評価する、と書いた訳ですが、この「面白い」というのが難しいですね。つまり、冒険したり、攻めてはいるものの、ひとりよがりであったり、内輪向けであったり、つまらなかったりしたら、読者や聴衆が離れて行ってしまう。

ひとりよがりではない「面白さ」って、やはり四元さんの言う、自分の「無意識の深層に降りてゆく」下降運動から生まれるのではないか、と思うんです。そこにこそ、「共感したい病」、の狙った「共感」ではなく、本物の「共感」が生まれるような気がしています。

「お前の作品こそひとりよがりのつまらない作品なんじゃないか?」って、ハリセンで後ろから僕の後頭部をどつかれるかもしれませんが(笑)。

余談ですが、僕、割と自宅で現代音楽などを流して聞いているのです。家内や娘には不評で、「頭が痛くなるから、その不気味な音楽消して!」などど言われながら(笑)。

さて、トルコの政治の話。

最近、よくニュースでエルドアンさんの話はよく出てきますね。ドイツの有名なトルコ系のサッカー選手がらみであったり、その強権ぶりであったり。

ニハットさんのホテルからガジアンティップ空港まで、ニハットさんの知り合いに車で送ってもらった時のこと、四元さん、覚えていますか?

あの知り合いの方、英語は喋れなくて、トルコ語でしきりに話かけてくれました。僕ら日本人はトルコ語さっぱりなので、エスラーさんが訳しながらの会話だったんですが、何かの話の中で、彼がニコニコしながら、「トルコの大統領、知っているか?」と助手席の僕に話しかけてきましたよね。僕が「エルドアン」と答えると、喜んで、続けて「エルドアンは好きか?」と聞いてきましたね。彼自身は、僕が、「もちろん好きです」と言う答えを期待していたようでしたし、実際そう言う表情を浮かべていました。

僕はそう言う会話の展開を予想していなかったので、戸惑いました。もちろん「政治家が好きってないでしょ!あんまり良く知らないし!」とは思うものの、彼の表情に負けて一瞬、僕は日本人的逡巡を見せましたね。いわゆる笑って誤魔化すという奴です。

その時、四元さん、間髪入れずに「大嫌いです!」って言い切りましたよね。僕はその時「お!」と思いました。「ま、負けた!」と思いましたね。エスラーさんは多分、トルコ語には訳さなかったとは思いますが。

(1万2千年前の人類最古の集落跡の前で、市長と詩人と報道陣)

この僕の「逡巡」こそが、四元さんが言う、「繊細な美と優しさに満ちているだけれど、同時にある種の脆弱さも秘めている」ことなのかもしれません。そして、四元さんの「ブルサにて」の中の、

優しさしか
ないのだろうか
この岸辺の眩しさを
やり過ごすには?

と言う言葉のように、詩人のあり方によって、「詩もまた政治の獰猛な食欲の餌食になってしまう」と言う言葉は、重く受け止めたいと思っています。また、四元さんのそうした姿勢というものは、例えば、四元さんの去年の詩集『単調にぼたぼたと、がさつで粗暴に』の中の『彼』という詩や、(この詩に関しては、江田浩司さんが発行人を務める別人誌で、もうすぐ出るであろう『扉のない鍵』2号に少し書かせていただいております)、群像7月号掲載の小説『シェーデル日記』の急激な物語展開などにも端的に現れているのではないか、と思っております。

ところで、あの運転手の彼の表情、「エルドアン大好き!」と言う表情が今でもくっきり思い出せるのです。国際的には(ドイツをはじめとして)、エルドアンの強権政治は批判に晒されていますが、国内では(知識人や文化人は別として)、やはり強固に支持されていて、人気もある、と言うことが、あの彼の表情が物語っていたのでした。なぜ、彼は人気があるのか?

トルコ連詩に参加する前に、トルコの歴史などを勉強しようと、何冊か、ななめ読みしたのですが、その中に『トルコ現代史』(今井宏平著)と言う本がありました。そのエルドアン分析によると、エルドアンは自身を「ブラック・テュルク」と定義しているそうです。少し引用してみますと、

ブラック・テュルクとホワイト・テュルクという区分は九十年代後半に見られるようになった。ホワイト・テュルクは、「世俗主義に代表されるケマルが進めた政治改革を受け入れた人々(ケマリスト)で国家の繁栄を享受しているエリート」、一方のブラック・テュルクは、「貧困にさいなまれる周縁部に住み、保守的で宗教心の篤い、国家の繁栄から取り残された人々」と定義される。

ウォール街でなくラストベルトの労働者に支持されたトランプ大統領を彷彿させます。四元さんの、「トルコの政治状況を見ていると、日本の近未来に思えてくる。」という言葉や、エスラーさんに教えてもらった、エルドアンと安倍首相の緊密な関係、イスタンブールの朗読会の後の打ち上げで、例の怖い顔した若い詩人が、「日本の政治もかなりおかしな状況になっているんだって?」と言ったこと、そして、昨今のワールドワイドに起こっている政治の危機的状況が、なぜかハルフェティの運転手の彼の表情と重なって思い出されるのです。

また話は変わります。今回、『びーぐる』40号に、ぺリンさんの詩と俳句を訳させていただきました。

そもそもの経緯は、あれはハルフェティのダムのそばのレストランで皆で夕ご飯を食べている時でしょうか。ぺリンさんの詩や俳句がフランス語に訳されているという話が出ました。その時、四元さんが、「ああ、じゃ、三宅さん、それを訳して見たら?」と振ってきたんですよね。で、僕はそんなに語学力に自信がないし、まあ一種の社交辞令だろうと思って、「ええ、そうですね、むにゃむにゃ」などど生返事で例のごとく誤魔化していたわけですが、日本に帰国した後、ぺリンさんから、フランス語とトルコ語で書かれた詩と俳句がメールで送られてきました。

これは一大事と思って四元さんにメールしたら、しばらくして4ページくらいの分量で詩と俳句を訳してくれ、となった訳です。僕はそんなにフランス語に自信がないので、トルコ語が書かれているのを幸い、エスラーさんを巻き込んで共訳にしてしまったのです(笑)。

まず、僕がフランス語を日本語に訳してエスラーさんに渡す。エスラーさんがトルコ語を日本語に訳して、僕の訳と照らし合わす。そんな感じで進めたのですが、まあ、僕も結構間違えてましたね(笑)。トルコ語をフランス語に直したのもぺリンさん自身ではなかったので、その辺の微妙な違いもありました。ただ、エスラーさんのおかげで、「大外し」はしていないと思います(笑)。

さて、その時に、ぺリンさんに、「なぜ俳句を作るのですか?」と聞いたら、こう答えてくださいました。

俳句と出会ったのは15歳の時でした。図書館で見つけた、1962年発行の、L. サーミ・アカルン著の「日本の詩-歴史と歌集」という本のおかげで、この世界に入りこむことになりました。私はこの本にとてつもなく魅了され、長い間、私はこの本を手放すことが出来ませんでした。大きな恋でした。俳句には、詩を超えた哲学との融合、しかしそれをも超える素晴らしい可能性がありました。そして私は俳句に倣った短い詩を書き始めました。その当時、私は長い詩を書いていました。文学の分野において実験的な取り組みを行っていたのですが、俳句は全くの別物でした。全く書かなかった10年間がありました―20歳から30歳の間です。再び書き始めた時、俳句も詩のように私に戻ってきました。再び俳句を書いている時、長い月日を経て初恋の人に巡り会い、一緒になることが出来たかのように、私は幸せでした。 15年間で、5千句近くの俳句を書きました。 もちろん全てを公表しましたが、日記の新しいページにはいつも俳句が溢れ出ています。詩や散文で、様々な種類の作品を作っているとしても、俳句は私の静脈です。「俳句を書いているということは日本人ですか?」という問いは笑って流していました。俳句は透明であるために、私の俳句に対する親しみや愛情をも映し出しているのだと思います。俳句の事になると、地理や国を問題にすることはなんと不必要な事でしょう。この形式には、私に息吹を与える全く別の果てしなさがあります。その感覚といったら、言葉や文章が、息の根が尽きるまで私を支え続けるということを俳句が保証しているようなものです。自分の本当の声を俳句の中に見出しています。私と、大地、空、地球、宇宙を結び付けているのは俳句です。 だから私は俳句を書き、俳句における私の主張が、作品の全てにおいて私を解放し、私の若さとはつらつさを保っているのです。

ぺリンさんのこの回答を見た時、僕はトルコの詩について何を知っているのだろう?と思い恥ずかしくなりましたね。そもそも、トルコに、連詩のために行く前はほとんどトルコという国にさえ、興味も持っていなかったのです。

(俳人・ペリン)

ところで、トルコの文学史の中で、オスマン時代の宮廷文学というものも、最近の再評価の動きにより、研究数も増えているらしいですね。二行連句のメスネヴィという形式があったらしいですが、最初、連句というから、日本の連句を想像したのですが。どうやら皆でやる座の文学とは違うみたいなのですが、よくわかりません、そういうものもあるのかな?『トルコの詩』(峯俊夫編訳)に、オスマン時代の詩人で、トルコの文学史上最大の詩人と言われるFuzuliの、『レイラーとメジヌン』というメスネヴィ形式の代表作が紹介されていますが、これは個人で作ったものですね。

Nazım Hikmet Ranの「死んだ少女」というヒロシマについての現代詩は、日本でも比較的知られているらしいですね。(これも恥ずかしながら知らなくてエスラーさんに教えてもらったのですが)

さて、まだまだ、トルコでの断片的なイメージや思い出が様々に思い出されます。

連詩が終わった時の打ち上げのレストランでのニハットの話。ハルフェティではプラム(日本で言えば梅)が、とても大事で象徴的なものであるという事。僕らに一つずつ青いプラムを手渡してくれました。その時、四元さんも、日本の詩歌に置ける梅の重要性を、大伴旅人の歌を挙げながら応えましたね。

あれは皆でエフェさん夫婦を空港に送る途中だったでしょうか、大変美味しいシシカバブ(辛い唐辛子付き)を昼食に食べました。うまかったなあ。
ガジアンテップ・考古学博物館の、モザイク画の『ジプシーの少女』。モナリザの目に比されるとか。

(考古学博物館にて。Efeに似た古代人と肩を組んでいるつもり)

ニハットが皆にお別れのマフラーをプレゼントしてくれたバザール。
イスタンブールでエフェさんが解説してくれた、スレイマニエ・モスク。
朗読会場に遅れそうになりながらも、ぺリンさんが買ってくれたお土産。
ゴクチェさんの、仕事場とは思えない素晴らしい「文学的な」部屋の黒板に書きつけられた様々な詩人たちの詩片。(僕らも書かせていただきました)

そのような思い出に引きずりこまれる前に、この往復書簡を、四元さんにまた渡したいと思います。

29/JUL/2018,三宅勇介


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