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トルコ・ハルフェティ連詩を終えて:三宅勇介 x 四元康祐 往復書簡第一回

四元さん、こんにちは。

今回、四元さんに誘われて、トルコの詩人の方々とトルコにて連詩を作るという企画に参加させていただき、途方もなく貴重な体験をさせていただきました。まず最初に御礼を申し上げます。また、私にとって、単に、詩歌の話だけではなく、自分の人生における体験としても大きな衝撃を持ちました。新しいものの見方を知ったという意味でも、またトルコの詩人のみなさんやそのご家族、友人、そして大変可愛らしい通訳の方とも知り合えたという個人的な大きな財産という意味でも、素晴らしい一週間で、日本に帰って来てから二週間経つというのに、未だにあの素晴らしい体験を反芻しつつ、回想に浸っているというのが正直なところです。

今回はそうした幸福な一週間を振り返りながら、詩歌以外の素晴らしい体験は語り尽くせないとしても、主に詩歌に関する自分の中での収穫などを四元さんと往復書簡という形で語り合いながら整理してみたい、というのが狙いなのですが、ざっくばらんにやって行きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

まず、概要を整理しますと、トルコのシリア国境近くのハルフェテイ(Halfeti)という町で、連詩セッションが5月7日から5月9日の3日間で行われ、10,11日の観光や現地での取材を経て、5月12日にイスタンブールでその連詩の朗読会が行われた、というのが大まかな流れでしたね。

連詩に参加したのは、トルコのイスタンブールで活躍している、Gökgenur Çelebioğluさん(通称ゴクチェさん)、Efe Duyanさん(エフェさん)、Pelin Özerさん(ぺリンさん 女性)、ハルフェテイの詩人、Nihat Öldalさん(ニハットさん)、日本からは四元さんと、三宅でした。

また、四元さんが、今回の連詩製作の最大の立役者と称えた、我らがアイドルの、可愛らしい才媛で、トルコ語と日本語の通訳、翻訳をしてくださった、Esra Kılınçさん(エスラーさん)が日本詩人とトルコ詩人の言語の問題を、四元さんと一緒に解決してくださいました。

現地ではエフェさんの奥様アイシェギュルさんもいらしてたし、ニハットさんの奥様には美味しいプラム鍋をご馳走していただいたりしたり、と、どんどん楽しい思い出が流れ出してくるのですが、まあ、それはそれとして……。

今回の連詩の企画はそもそも四元さんが、古い知り合いであるゴクチェさんから持ちかけられた、と聞いています。

連詩をこれまでも沢山経験されている四元さんを除き、そのほかはトルコの詩人の方々もほとんど連詩は初めてに近い状態だったと聞いております。私自身に関しても全く初体験でした。

そんな中で、連詩の宗匠を務められた四元さんの苦労も偲ばれるというものですが、(笑)、実際、間近で、連詩製作の場で、宗匠の役割を見ていて、これは大変なことだと思っておりました。もちろん、連詩の方向性において、連衆を引っ張っていく、という意味合いもそうですが、今回はやはり国際的な試みでもあるので、語学力、というのも並大抵では務まらない、ということが改めて実感しました。英語の達人である四元さんと、トルコ側で英語ができるゴクチェさん、エフェさん、トルコ詩人の詩のトルコ語の意味合いを何度となく確認して日本語に翻訳してくれたエスラーさんの共同作業で、3ヶ国語の連詩が同時に出来上がって行きましたが、その中でも四元さんの宗匠としての孤独を、ひしひしと私も感じていたのです。

そして、連詩というものを世界的に認知させていった大岡信さんに直接薫陶を受けた四元さんが、こうした国際的な連詩の企画を引き受けていく、という姿勢が、大岡さんの世界文学的な意味合いにおいての行動をも引き継いでいくんだ、という強い信念に重なるのではないか、とも私には思えるのです。それは国際的に活躍をされておられる四元さんにして初めて可能だとも思うのです。

RENGA、RENKU、RENSHIの区別もさほどまだ認知されていない時代から国際連詩製作に孤軍奮闘されていた大岡さんの、連詩に関する名著、「うたげと孤心」を例に引きながら、今回の連詩セッションの前に、トルコの詩人と私に、連詩というものを説明してくださった四元さんの姿が大岡さんと重なって見えたのは、やはり私が日本出身だからかもしれません。

さて、改めて、今回の連詩のために集まった詩人を見て見ますと、ゴクチェさん、エフェさん、ぺリンさんは、イスタンブール詩壇の中核メンバーで、それぞれ詩集を何冊も出していて海外にも翻訳されている方々ですね。国際的な詩祭でも常連だと聞いています。ニハットさんはハルフェテイという地方から詩を発信していて、イスタンブールの詩人たちとも仲がよく、日本語で詩集を出そういう希望もある方でしたね。

ぺリンさんは自身で俳句も作っていましたし(その数、6000?)非常に、日本の定型詩に関心と敬意をお持ちの方でしたね。実際、連詩の中で短歌にも挑戦されていました。ゴクチェさんも俳句に造詣が深く、芭蕉の弟子の榎本其角の名前が彼の口から出て来た時はびっくりしました。海外での俳句理解が進んでいるのは知っていましたが、そこまでとは。

全体に俳句の理解に比べて、短歌への理解はあまり進んでいない感じでしたね。関心はすごくあるみたいなんですが。僕や四元さんも一生懸命、多方面から説明しましたけど、僕自身にも勉強になりました。

四元さんは今更紹介するまでもなく国際的に活躍されていて、今回もイスタンブールでの朗読会の時とかも沢山の知人がいて、尊敬されているのがよく分かりました。

僕自身は定型詩を主に作って来たわけで、現代詩の製作はそれに比べると経験が浅いのですが、今回、こうした強者どもと連詩を初めて作る、ということでかなり気合は入れていました(笑)。でも、感じがつかめるまで結構緊張もしました。

さて、今回の連詩の特殊性は、様々なバックボーンを持つ詩人たちによって作られた、という事に加えて、その製作場所となったハルフェテイという場所によるものも大きいと思うんです。四元さんも仰ってたけど、こんなワイルドな場所でワイルドに作られた連詩はないんじゃないか、というぐらい。

僕らも事前にほとんど情報を持っていなかったんですが、ニハットさんがオーナーを務めるハルフェテイのダム(ほとんど湖に見える)に面したホテルに滞在させていただき、その風光明媚で、しかもある種迫力のある風景の中で、3日間、連詩をつくったんですよね。ある時はホテルの見晴らしの良い二階のテラスで、またある時は、ニハットさんの自宅にある図書館で。そしてやはりハイライトは、十数年前にダムになり、下に沈んでいる旧ハルフェテイの町の、ダムの水面にほんの少し、10メートル四方だけ露出しているモスクの屋上の上(そこまでモーターボートで行きましたね)で連詩を作ったり、ニハットの昔の家が沈んでいる近くのキリシタンの洞窟の中で作ったりした事ですよね。日本では考えられないシチュエーションのオンパレードの中での連詩製作でした。

日本で、例えば海外の詩人を招いて連詩を行う場合なんかは、高層ビルの一室に何日か閉じこもって作るから凄くフラストレーションが溜まる場合があると、四元さん、仰ってましたが、まさにそれとは対極にある、クレイジーでワイルドな連詩行だったと思います。そうした事が今回の連詩テクストに影響されているのは間違いないと思うんです。

さて、そんな素晴らしいメンバーとありえないシチュエーションで連詩を行う事になったんですが、前述のように、四元さんが連詩の作り方や、その歴史、その意義などを我々に説明してくださいました。ぺリンさんなんかは丁寧に一字一句、メモにとっておられていたし、その後、また詳しく四元さんにインタビューなどもされていたわけですが、彼らの連詩に対する理解の早さ、そして実践力の高さは驚異的ですらあったわけですね。

連詩は、その歴史的な背景から、「うたげ」、つまり皆の共同作業であると同時に、逆説的に、個人個人の内面の詩人としてのアイデンティティー、つまり、「孤心」が必要だというエッセンスは非常に理解できるのですが、それを実践するのはまた難しいところでもありますよね。しかし、トルコの詩人はあっという間に連詩のエッセンスを理解し、ものの5分で素晴らしい詩を前の詩に関連づけて作り上げ、次の人に渡す、という事をやってのけた。四元さんは、トルコの人々は連詩に向いている、なぜなら早く作るし、エゴが小さいから共同作業(うたげ)を邪魔しない、というような事述べたと思うんですが、まさにその通りだと思うんです。

僕も遊びで、仲間と連句を巻いた事はあったんですが、真剣勝負の連詩は初めてだったし、恥ずかしながら、この連詩セッションの前には、大岡さんの「ヨーロッパで連詩を巻く」という本を読んだっきりだったんですが、僕の貧しい連句経験でなんとなく連詩も理解しているつもりだったんですが、四元さんの解説で改めて沢山の事を知りました。

大岡さんの連詩の方法の原則というのは割とシンプルに見えるものだったんです。前述の「ヨーロッパで連詩を巻く」では、連句の精神を引き継ぎながら、国際的な連詩の場合には、ルールをわかりやすくしていたと思うんです。つまり、常に前に進む(前に戻らない)、前の詩に「付ける」、題材はなんでも良い、というような。(すみません、正確に引用できたら良かったんですが、トルコを去る前にエスラーさんに進呈してしまったので、笑)

だけど、やっぱり、この「付け」が問題でしたね。大岡さんが連詩でダメ出しする付け方、つまり、「前の詩」をストーリー的に発展させていく、というやり方をしたり、前の語句や詩の世界性を引きずったりしたり、でトルコの詩人たちも何回か四元さんにダメ出しされて作り直したり、僕自身も、前の詩に対しての付けの関連性の薄さなどで何回か書き直しを四元さんに命じられましたね。(笑)

僕自身の反省としては、もっと「付け」のバリエーションを勉強していけば良かったと思った事です。

例えば、四元さんがゴクチェさんの連詩22番に付けた連詩23番。

ゴクチェさんの詩はこんな美しい一行で終わります。

「君にあげるよ、この雨から島を作ってごらん、君にあげるよ」

それに対して、四元さんの「付け」はこんな具合に始まります。

「電波望遠鏡が受信したメッセージの翻訳ドラフトを前に」

あの時、正直、この、「メッセージ」という言葉をうまく捉えられず、どういう「付け」かいまいち理解してなかったんですが、連詩22番を全体的に一つの「メッセージ」と「見立て」て「付け」た、と聞いた時に、なるほどな、と思ったんです。まだまだ、いろんな「付け」のやり方があって、少し四元さんも説明してくれましたが、この辺りを僕自身の今後の課題にして行きたいとも思っているのです。

2018年5月29日 東京
三宅勇介


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