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森山至貴 x 四元康祐 往復書簡 『詩と音楽と社会的現実と』:第13回 愛の決疑論、『さよなら、ロレンス』群読版リメイク、AIポエトリー、30年目のトロン

from M to Y

こちらもお手紙をいただいてから1ヶ月以上経ってしまいました。私はその間に日本を離れていたわけではないのですが、雑事にかまけていると1ヶ月はあっという間ですね。

「往復書簡をやっている間は直接会わないほうが面白くなりそう」というのは私も同感です。会って話してしまうと書く話題がなくなってしまうから、という消極的な理由もありますが、なんというか、一方で書簡をやり取りしていて他方で実際に会って会話して、というのでは、対話のモードが混線して私自身混乱してしまいそうです。ぜひ一段落したらお会いしたいものです(そういえば、いつかミュンヘンに行きますね、という約束も果たせていませんね…)。

この前の水曜日に、藤倉大の『ソラリス』というオペラを聴いてきました。藤倉大は日本だけでなく世界的に有名な(たしかイギリス在住の)現代音楽の作曲家です。『ソラリス』とはもちろんあのスタニスワフ・レムのSF小説。私自身は沼野充義さんの新訳が出版された折に読みましたが、なんとなく雰囲気は覚えていたもの、ストーリーはすっかり忘れていたので、未知のストーリーに出会うつもりで聴きました。

コンサート形式(舞台装置や美術、衣装、演技などがない、いわゆるクラシック音楽の演奏会のような形式)での上演でしたので、物語の世界にチューニングを合わせるのに少し時間はかかりましたが、電子音響とよく溶け合う絶妙かつ「宇宙っぽい」オーケストレーションのおかげで、後半はすっかりソラリスの世界に引き込まれて楽しみました。

観終わって思ったのは、『ソラリス』ってこんなに人間臭いドラマだったっけか、ということです。相当に平易な英語による台本でSF特有の特殊な術語も少なめに抑えられており、また原作から取り出されたストーリーが完全に「愛の物語」だった、ということもあります。あともう一つ、オペラ歌手の歌って、素晴らしければ素晴らしいほど、技術的には人間離れしているのにとても人間臭い声としか聞こえないんですよね。やはりずっと愛ばかりがテーマであったオペラ界の伝統ゆえの刷り込みでしょうか。その臭みを避けて、坂本龍一はいわゆるオペラ歌手が出演しないオペラ『LIFE』を作り、渋谷慶一郎は『THE END』で初音ミクにアリアを歌わせたのかもしれません。とはいえ、どちらの作品にも「愛をアップデートする」といった趣きがある気もしますね。私もいつか、徹底的に人間臭さを排した歌を書きたいのですが、そんな歌を誰が歌いたいのか、と言われると返す言葉がありません。悩ましいです。

前便で四元さんは「愛」について私にボールを投げられました。実は院生時代に「愛」について論文を書いたことがあります。

(森山さんの論文「〈愛〉の決疑論」はこちらからご覧になれます↓)

いわゆる「アガペー」と言いますか、人類愛や慈愛の心は脇においておいて、「エロス」に焦点を絞った論文です。少しだけ自作解説をしながら、四元さんの問題提起を探ってみます。

「愛」として切り出された行為の特徴を、私は選択という論点に還元しました。ポイントは「選択」ではなく「選択という論点」だということです。例えば私が自分のパートナーを「選んだ」という時、そこにはある種の居心地の悪さが伴いますよね。私はスーパーマーケットでどのオリーブオイルを買うか「選ぶ」のと同じようにパートナーを選択したわけではない、と。他方、もし私をめぐっての私のパートナーとの恋敵が存在した場合、その人はこう思うかもしれません。「なぜ私ではなくてあいつを選んだのだ」と。その人にとっては事態は「選択」として立ち現れる。しかもその理由を私は合理的に説明することはできません。年収や顔の良し悪しやらで「選んだ」わけではないからです。このように、親密な関係性を望む特定の人間を「選んだ/選んだわけではない」のいずれでも記述したくなるような行為がそこにある時、それが「愛」なのではないか、と私は論じたわけです。

しかしここで疑問がうまれます。とはいえ、「一定程度の年収がある」とか、「顔がそこそこ好み」とか、なんらかの共有可能な条件が私の「選択」に全く設定されていないと言いきれるかというと、そうでもないでしょう。「選択なのか否か」という論点には、さらに「その選択(らしきもの)は合理的なのか非合理的なのか」という論点が積み増されます。しかも、平等や公正性を重んじる近代社会では「非合理的であってよいのか」という問いまで付け加わります。

このように積み重なった解けない問いをずらす戦略を総称して私は「決疑論」と呼びました。ものすごく大雑把に言えば、その場しのぎの分節化で問いを解決したことにするわけです。「本物の愛は向こうから到来するので避け得ない(し、それゆえに素晴らしい)が、偽物の愛はこちらの側の打算によって成り立つ(からこそ避けるべき)」などというものです。一瞬納得してしまうが、ちょっと考えればそう簡単に割り切れないだろう、というレトリックで、私たちは自らを少しずつ騙しながら生きているのではないか。それが私の結論でした。

さて、このように考える時、愛は真善美のいずれかと関わりあいがあるものでしょうか。悩ましい問いですが、真・善・美のいずれとも関わり合いはあるが、それそのものとは言えない気がします(一瞬はそのものと言えそうだけれど、実際にはどうだろうか、と疑問に思ってしまう=決疑論ですね)。いささかレトリカルな物言いをすれば、愛は、「真なのか、善なのか、美なのか」という問いの中に現れる、一瞬の幻影なのかもしれません。どうも私は、愛を積極的に語ってしまうことにかなり強い心理的抵抗があるようですね。お答えになっていますでしょうか?

一点だけ補足させてください。ここまでの愛の話は、人々の間に選ばれた/選ばれないをめぐる序列をつける実践の話とも読み替えられます。だとすれば、そこから権力、暴力の話まではあと一歩、というかもうほぼ同義でしょう。エロスはそもそも暴力的である、という四元さんのお話も、十分に納得できます。他方、愛という「選択」においてもう一点重要なのは、それがうまくいくのは互いの「選択」が合致するから、という点です。もっと俗っぽい言い方をすれば相思相愛ですね。だとすると、私たちがエロスの暴力をかろうじて封じ込められているのは、そこに他者がいるから、とも言えそうです。エロスを暴力的なものとそうでないものに分けるよりは、エロスの暴力を封じるために、私たちがどうやって他者と向き合い続けるか、という論点の方が、確かに生産的かもしれません。私自身、まだうまく言語化できていませんが。

『ソラリス』を聴き終えて会場を出ると、池袋の街には少なくない数の仮装した若者がいました。もはや日本ではハロウィンは子どもたちの他愛もないいたずらを優しく見守る日ではなく、エネルギーを持て余した若者たちが他者に仮装して鬱屈を発散する日になったようです。他者のフェイクの群れを横目に、私は一人帰路につきました。

その翌日にあたる木曜日、『さよなら、ロレンス』の群読版を一緒に作り上げる演出家の癖を知るために、久しぶりに小さな劇場で演劇を観てきました。四元さんにはすでにお話をしてありますが、一度組曲として構成した『さよなら、ロレンス』を解体再構成し、合唱、ピアノ、そして役者たちによる群読による作品として来年の1月に上演します。

作曲家としては、自作をどれだけ限界まで解体できるかを試したい、そのことによって四元さんの詩の魅力をよりいっそうヴィヴィッドに伝えたい、などと思いながら案を練りました。私自身は練習に今月から参加するのですが、その中でさらに細かい部分の組み立てや編集が変わっていくでしょう。書き上がった作品を精密に音にしていく、といういつもの練習とはスタイルが大きく変わるはずで、その点も楽しみです。

群読版『ロレンス』の原案を作る中で、面白いと思ったできごとがありました。私の作品の楽譜データを演出家に送ってあったので、まず演出家はその楽譜をコピー&ペーストしたりして第一案を作成しました。それを受け取った私は、もっと解体再構成するべきだと思い、その案をWordを使って「指示書」のように書いて送りました。現在のところはその案のかなり多くの部分が採用されているのですが、それを受け取った演出家は、また新しくその「指示書」にしたがった楽譜を作成したのです。言葉だけを書く演出家(というかこの場合は脚本家あるいは戯作者でしょうか)と、音符を書く作曲家の役割がずっと逆転しています。

正直に言って、私は今回の群読版において、ひと繋がりの楽譜を製作することにはかなりの懸念を抱いています。なぜなら、楽譜に書いてしまうと、楽譜に書けるタイプの「間」や「テンポ感」を持った上演にしかならないような気がするからです。楽譜に書けない、書かないようなことをやってこその解体再構成だ、という気分が、私にはあります。他方で、市販されている楽譜の何ページの何小節目を歌え、次は飛んで何ページの何小節目を歌え、式の「指示書」では、演奏者も演者も混乱するのは必至です。

私にとっての目下の悩みは、私がやりたい、あるいは演出家がやりたいパフォーマンスをするために、その「台本」はどのようなものであるのか、という点です。書記記録のしくみが違うと、できあがるものもまた変わる。そしてその結果を予測できるほど、私はさまざまな書記記録のシステムを知らない。せいぜい知っているのは文書作成ソフトのいくつか、メーラーのいくつか、あとは五線紙と楽譜用のノーテーションソフトくらいです。演出家の助けを借りながら、音と音の定着のシステムを探るのが、本番までの私の仕事となるのかもしれません。

そういえば、と思い出したことがあります。ポピュラー音楽の作曲家の中には、思いついたフレーズをその場で録音していくタイプの人もいるそうです。四元さんは、基本的には紙やディスプレイの上で詩を書かれるのでしょうか。思いついたら朗読して録音して詩を作る、といったプロセスは採用したことはないのでしょうか?

手術と闘病の中での精力的な活動、頭が下がります(この「精力」という言葉も、エロティシズムとバイタリティの双方を含む、不思議な言葉ですね)。女性の乳がんをめぐっては、乳房を温存するのか否かで、それぞれの女性が女性性をめぐる苦渋の決断をしているといろいろなところで耳にします。男性の場合は、なるほど前立腺がんがそのカウンターパートということになるのでしょうか。

エロティシズムに対して皮膚感覚という言葉を四元さんが用いているのが大変興味深いです。クィア・スタディーズの分野では、快楽を性器に縮減する「性器中心主義」が批判されてきました。私たちはもっといろいろな器官で快楽を感じ取ってよいはずだ、というわけです。皮膚はまさに私たちの身体の表面のほぼ全てですから、四元さんがお感じになっているのは来たるべき快楽のよき形なのかもしれません。

ちなみにですが、もちろん件の文芸批評家のように「前立腺をとって男性性からの解放」式の議論は、悪しき生物学的本質主義以外のなにものでもないのであり、それこそバトラーでも読んで出直してくれ、とは言いたくなりますね。もちろん、「前立腺を取っても男は男」とばかりに男性性に居直ることも問題ですが、四元さんの作品はそのようなものではないはずです。

ともあれ、手術が無事成功したこと、何よりです(この往復書簡がご負担になっていなければよいのですが…)。どうぞご無理なさらず、体調にはお気をつけて…と言いつつ、新刊の発売、とても楽しみにしております。

2018年11月3日
あいもかわらず自宅にて


from Y to M

「愛をアップデートする」、「『愛』として切り出された行為の特徴」、「愛は、『真なのか、善なのか、美なのか』という問いの中に現れる、一瞬の幻影」…… 愛をめぐる森山さんの言葉はとてもおもしろい。音楽家の言葉遣いなのか、社会学特有のスタイルなのか、それとも森山さん自身の文体なのか、詩の一節に使いたくなってきます。

「いつか、徹底的に人間臭さを排した歌を書きたい」という言葉には共感を覚えました。たまたま最近AI(人工知能)と詩について、書いたり話したりする機会があったんです。一言でAI ポエトリーと言っても、人間が機械の力を借りて詩を書くというだけでなく、機械が人間のために書く詩や、逆に人間が機械のために書く詩(これは普通の言葉ではなく、コンピュータ言語による執筆、すなわちプログラムの形をとるわけですが)、さらには機械が機械のために書く詩まであるそうです。そこまでくると「人間臭さ」も相当排されてくるんじゃないかと思うけど、残念ながら僕には読めません。

刺激されてぼくもいくつか試してみたんです、AI詩。ひとつは童謡。詩誌「びーぐる」の次号が童謡特集で、僕も実作に挑戦することになったのですが、童謡というジャンルには国民的一体感の意図的醸成というか、中央集権的な近代国家の政治的言説という側面が付き纏いますよね。実はそういうことを僕は最初まったく意識していなくて、詩人の新井高子さんに指摘されてはっと気づいたわけですが。そこでそういう要素を取り去るにはどうすればよいかと考えた結果、AIを活用することを思いついた訳です。AIと言っても、既存の童謡の歌詞をグーグル翻訳でいろんな言語に変えて最後にまた日本語に戻したものに、自分で手を加えるという、実に原始的なやり方です。それでも思いがけないテキストが出てきて、結構機械とのコラボ感を味わうことができました。

もうひとつは「電子少年トロンは語る」という詩のリメイクです。そう、『笑うバグ』の最後に配した作品ですね。もしかしたら、森山さんが同じ『笑うバグ』の詩に曲を付けた「さよなら、ロレンス」をリメイクされるというお話を聞いて、無意識のうちに刺激されたのかも。こちらは自分が機械になりきって語るという趣向ですが、それを30年ぶりにもう一度繰り返してみて、前作とどんな違いが生ずるかを試してみたかったのです。題して「電子少年トロンは語る 30 years later」。それにしてもあれからそんな歳月が経っただなんて。

結果は、あんまり進歩していないなあ、というのが正直なところです。首尾一貫していると言えば聴こえはいいかもしれないけれど、やっぱり人間はコンピュータみたいに簡単にはバージョン・アップできないですね。若い頃から「人間臭さを排する」という欲求に取り憑かれていて、時にはそれを「私性を排する」と言ってみたりもしましたが、常に自分から遠く離れた場所へ行くことを求め、その移動手段として詩を書いてきたという事実を確かめる結果となりました。

ところでその作品の最後は、トロン少年によるこんな問いかけで終わっているんです。

 肉体を伴う個がなくなっても愛することはできるのでしょうか?

この行にも森山さんとのこの手紙のやりとりが影を落としていますね。前回のお手紙のなかの以下の部分です。

私たちがエロスの暴力をかろうじて封じ込められているのは、そこに他者がいるから、とも言えそうです。エロスを暴力的なものとそうでないものに分けるよりは、エロスの暴力を封じるために、私たちがどうやって他者と向き合い続けるか、という論点の方が、確かに生産的かもしれません。

僕の中の〈人間〉は、森山さんのこの言葉に深く頷くのです。人間的な愛を考える時、自己と他者の問題がその根底になければならない。人は愛を通して他者と出会い、他者を通して自己をより深く知ってゆく。まさに数えきれない問いを「決疑」しながら。自他の区分のない世界では、愛に包み込まれることはできても、能動的に愛することはできない。それはまったくその通りだと思います。

でも僕の中の〈野性のエロス〉はその言葉に納得しないようなのです。むしろ闇雲に自他の区分を乗り越えて、まだなにひとつ分節化されていない原初の未分化な状態、哲学者の井筒俊彦氏が「絶対的根源無分節」と呼んだ場所へ戻ってゆくことに憑かれているようです。たとえその過程で他者を、そして自分自身を傷つけるとしても、お構いなしで。そこでは幼児性と暴力性が入り混じり、どこかタナトスの気配もします。

そして我がトロンはと言えば、自他の区別もなければ(彼の意識はクラウドを通じてほかのすべての人工知能と同期されていますから)、タナトスとも無縁の不老不死にして物質なき身です。そんな彼にも詩を書きたいという欲望だけはあり、その欲望はどこかで、人間的な愛も野性のエロスも包み込み貫き通すような宇宙的な愛(という幻?)に繋がっているようなのです。森山さんなら彼の問いかけに、どう答えてやりますか?

ポピュラー音楽の作曲家の中には、思いついたフレーズをその場で録音していくタイプの人もいるそうです。四元さんは、基本的には紙やディスプレイの上で詩を書かれるのでしょうか。思いついたら朗読して録音して詩を作る、といったプロセスは採用したことはないのでしょうか?

という森山さんのご質問、僕はパソコンに向かって、ディスプレイに字を書かないとだめなタイプのようです。Spoken Language Poetに対してWritten Language Poetなどという呼び方をすることがあるようですが、明らかに後者ですね。ただいつも詩の最後の数行だけは机の前から離れます。あえて最後を尻切れトンボの宙ぶらりんにしたままで、なにか他のことをするんです。掃除とか、皿洗いとか、シャワーを浴びるとか、頭を使わない単純な作業ですね。するといったん心が書きかけのテキストから離れて、次の瞬間ふっと、全く別の角度から戻ってくる。そこを素手で掴まえて、しっかりと頭の中に刻み込みます。そして作業が終わると、大急ぎでパソコンの前に戻って、詩を仕上げるというわけです。

なんて言ってもまったくご参考にはならないでしょうが、ともあれ群読版『ロレンス』の成功、祈っています。

2018年11月25日
ほとんど太陽をみることのなくなったミュンヘンより

追伸、森山さんの論文「〈愛〉の決疑論」の第二章「感情社会学の危険性」を読んで、改めて気づきました。トロンには自他の区別も、肉体も、死もないだけでなく、感情もなかったのだと。あるのはただ無数に積み重なった決疑のアルゴリズムと、気の遠くなりそうな情報処理速度だけ……

参考記事:


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