見出し画像

私はまだ満点を知らない

なぜそんな話をする気になったのかは忘れてしまったけれど、あの時、お店の一番端の通路がよく見える席に座ったことはハッキリ覚えている。レジ上げを終えて報告に行った時、店長はシフト表を広げて翌週のメンバーを書き込んでいた。私に気づくと、来月は多めに入れないかなと言いながら席を立ち、店の奥へ消えていった。


短大の時、商業施設に入っているファミリーレストランでアルバイトをしていた。お世辞にも高いとは言えない時給だったから大学生は私だけ。知人に頼まれてなんとなく入ったはずが、居心地の良さに抜けられなくなり、気づけばパートの主婦とアルバイトの高校生を繋ぐようなポジションになっていた。もともと自分には合っていたのかもしれないし、そこで身につけたスキルだったのかもしれない。どちらにしろ、みんなと過ごした数年間が私の基盤に刻み込まれていることは間違いない。


壁の向こうから、高校生たち試験期間でさ、という声が聞こえてきた。続いてガシャっという音。ラッキー、今日は落したてが飲める。聞き慣れたあの音はデカンタをコーヒーメーカーにセットする音だ。ファミレスの安価なコーヒーの粉なのに店長が淹れると味が違うのはなぜだろう。水を注ぎながら歌っている鼻歌の効果かな、食べ物に話しかけると美味しくなるって言うしな、なんて考えながら、大丈夫ですよと大きめの声で返事をした。


店長を待つ間、何気なく窓の外に目をやった。通路の向こうには雑貨を扱うテナントがあって、高校生スタッフが2人で商品棚にネットをかけていた。弾むような笑い声から仕事終わりの開放感が伝わってくる。笑顔がとても眩しくて、あの日はなぜか自分が急に年を取ったような気分になった。

近づいてくる香りに振り向くと、店長が両手にカップを持って戻ってきたところだった。


「実習は大丈夫なの?来月、乳児院に泊まりって言ってなかったっけ?」

「そうなんです。でも月末だから。それ以外なら平気ですよ、授業ゆるめだし」

「助かるよ」

ホッとしたように私の名前をシフト表に書き込んでいく。

「でもさ、保育の仕事ぴったりだよな。今、幼稚園の先生って言われてもうなずくよ」

「ぴったり…そう、なんですかね」

まただ。ちょっと濃かったかなと言いながらコーヒーを口に運ぶ店長に小さな声で返事をした。


「みんなそう言ってくれるんです。でもぴったりって言われるほどやりたくなくなっちゃって。保育の仕事って知識はもちろんだけど体力もたくさん必要で、見た目よりずっとずっと大変なんです。命を預かる仕事だって入学式で言われたし。だけどみんな私が子供が好きって言うと、あーそんな感じ、ぴったり!って。”あーそんな感じ、ぴったり”だからやりたかったわけじゃないんですけどね」

急に早口になった私に戸惑いながらも黙って聞いてくれる店長を前に、言葉は止まらなくなってしまった。

「ぴったりって聞くたびに、他のことはできないって言われてるみたいな気持ちになっちゃって。ひねくれてますよね。でもなんていうか、このまま就職するのがいやになっちゃったんです。他のことしなきゃって、他のことだってできるとこ見せなきゃって」

店長はミルクをゆっくりかき混ぜながらカップをじっと見ていた。

「私、ピアノ習ってたんです、結構小さい時から。だから演奏会では大きいお姉さんより難しい曲を弾いたりして。英語塾の発表会でもね、劇の主役、っていってもだるまちゃんの役ですけど、やることになって。まだ英語を習うのが珍しい時代だったから小さいのにすごいねってお客さんに褒められたんですよね。で、その流れで中学の早い時期に英検受けたらその時もすごいねって言われて。でも私…」

コーヒーカップを私の方に押しながら、それで?と先を促してくれる。ひとくち含んだコーヒーがのどを通るのを感じながら、店長、今日帰るの遅くなっちゃうなと思った。


「結局、なんにもなってないんです。ピアノは合唱コンクールの伴奏でも課題曲どまり。華やかな自由曲はもっと上手な子が弾いたし、英語だって全然ダメ、成績悪くて。本当は保育科に進んだのだって推薦で行けそうって思ったからなんです。私の成績で指定校推薦が取れる短大が見つかったから。だからぴったりなんて違う。子供は好きだけど、違うんです」

言葉が続かなくなった途端に、今度は涙が溢れ出た。店長はもう一度席を立つとボックスのティッシュを持ってきて、しゃくりあげる私が落ち着くのを待っていてくれた。

「私、このままじゃダメだって思って。そんな時、駅に貼ってある広告を見たんですよね。いつも通学で使っている同じ電車の同じドアから見えるポスター。内容はその時々で違って、遊園地だったり、チョコレートだったり、塾だったり、結婚式場だったりするんですけど、そうだよねーとか、そうなの?とか、なるほどねーとか、動かないその写真や文字に向かって返事をしてる自分がいたんです。手帳は心にとまった言葉でいっぱいになってて、私は足元じゃなくて前を見るようになってた。救われたんですよね、その広告たちに。気づいたらこんなのを作ってみたいって思ってました」

就職課の先生が見つけてくれた条件のいい幼稚園を断ってしまったこと、卒業間際のタイミングで親にデザインの勉強をしたいと頼みこんだこと、めちゃくちゃ反対されたのに結局わがままを貫いてしまったこと、私は全部吐き出していた。

そんな自分が許せないのにどうしても止められない。いつもいつも中途半端でいやになる。私がうつむくと店長は笑い出した。ちょっと冷めたカップをさわった時に掌がじんわりするような、そんなやさしい笑顔だった。


「甘えちゃえばいいんじゃないか?」

19やそこらで何かを極めようなんて考えなくていい。店長はそう言った。いろいろ経験して悩んで考えて、今はそれでいいとオレは思う。散らかしっぱなしで大丈夫、満点を取る必要はないよ。それだけ言ってコーヒーを飲み干した。

自分がどう答えたかは覚えていない。親に対しての罪悪感が消えたわけでもなかった。それでも少しだけ軽くなった心を持って私はデザインの学校に進み、卒業して社会人になった。

*


デザイン事務所に就職したからといって駅貼りのポスターが作れるほど世の中は甘くない。睡眠時間を削ってアナログの指定紙を作ったり、デザイン修正をしているうちに時計はどんどん進んでいった。事務所には数台のMacが導入され、作業は少しずつデジタルに切り替わったけれど、私の業務は相変わらず先輩デザイナーのサポートばかり。写真を整理し、原稿をまとめ、現場と行き来し、打ち合わせのお茶を用意している頃、短大の同級生はたんぽぽ組の担任になっていた。

ある時、社外のセミナーに参加できることになった。私だからというより、先輩たちが忙しかったというのが本当のところ。それでも、人気クリエイターの話が聞けるチャンスに心が躍ったのを覚えている。当日はまさに今、駅貼り広告を作っているという最前線のディレクターが講義をしてくれた。みんなに伝えるため、私は必死にノートを取った。

具体的な作業の進め方と一緒に教えてもらった広告作りの心得がある。

商品広告は芸術ではない。興味を持ってくれた人だけでなく多くの人に知ってもらうために必要なのは合格点をいくつも生み出すことだ。100点をひとつ取るより80点をたくさん取る方が大切だと自分は思って仕事をしている。


衝撃だった。プロの現場では当たり前なのかもしれないけれど、私にとっては胸をつかれる言葉だった。そして同時にこの言葉は私の心を救いあげてくれた。散らかしたままで進んでいいと教えてくれた店長の、あの日の会話に繋げてくれた気がしたから。


広告作りと自分の生き方を一緒にするのはきっとおかしい。でも考え方のアレンジは自由、そう信じて今までやってきた。せっかく芽を出したのに放っておいたのだから枯れてしまった蕾もたくさんある。でもふと思い出して水をあげたら、花を咲かせてくれたものも私の中には確かあった。

華やかな演奏はできなくても、子供たちの歌に適当な伴奏をつけたり、気になるメロディを譜面なしで弾いてあげるくらいならできる。たんぽぽ組の担任は無理でも幼児教室の講師はやらせてもらえた。駅貼りのポスターは作れなかったけれど、チラシの企画でプレゼンに勝てるチームメイトに出会えた。


まずは80点をいくつも。そこから100点に近づけていけばいい。



満点を取らなくていい。その意味がわかるまでにずいぶん時間がかかってしまった。でも、前に進むことにもう悩んだりしない。

きちんと向き合ったものは回収できる時がくるから大丈夫。

これからも私は、散らかしながら行く。





届けていただく声に支えられ、書き続けています。 スキを、サポートを、本当にありがとうございます。