1900年代市民の手作り遊園地 結構怖い

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1900年代初頭、シーダーラピッズ(アイオワ州リン群の市)では、コンクリート床から12フィート(約4メートル弱)の高さの金属製の初期の遊び場が建設された。構造化された遊び場という概念が生まれる以前は、子供たちは空き地や田畑、森、さらには路上など、スペースがあればどこでも遊んでいた。20世紀初頭、親たちは、監視のない遊びは子供たちが学校をサボり、責任を怠ることにつながるのではないかと心配するようになった。


シーダーラピッズ市が発行している『Our CR Magazine』によると、初期の遊び場は、子供たちを健康と良き市民へと導くことを目的に作られ、一緒に安全に遊ぶことを教えるつもりだった。しかし、その設計において安全性は最優先事項ではなかったようだ。

1930年代から1940年代にかけて、世界恐慌と戦争努力のために遊び場の開発は遅々として進まなかった。しかし、WPA(Work Projects Administration?)の労働者たちは、WAレクリエーション・プロジェクトの一環として、さまざまなレクリエーション活動の訓練を受けた。シーダーラピッズでは、遊び場を監督するために、1時間50セントという通常の救済水準が支払われた。

第二次世界大戦とそれに続くベビーブームの後、ガラクタ置き場の遊び場や冒険遊び場が一般的になり、子供たちは拾ったものを使って遊びの要素を探検したり組み立てたりするようになった。新しい住宅地は急速に発展し、遊び場はその後に大量生産されるようになった。シーダーラピッズは、近隣の遊び場の需要に追いつくのに苦労したため、トレーラーにメリーゴーランド、ブランコ、滑り台を搭載し、週に1日巡回する移動式遊び場を作った。

今日の遊び場は、さまざまな年齢や能力レベルにわたって社会化を促進する。遊具は、障害のある子供たちも一緒になって遊べるように設計されている。転倒時の衝撃を和らげるために表面にはゴムが使用され、プラスチック製の遊具の角は丸く滑らかになっている。